全日本実業柔道団体対抗大会
3つも大会の話が続きました。次回は柊君と氷高君の話です。
6月梅雨入り直前の南関東州富山総合体育館は、超満員だった。富山駅から直通のバスが何本も運行され、周辺の駐車場も満員だった。最近は警備員が中々集まらないので、KKGが駐車場にもロボットを配置した。ロボットは一見、R2-D2のような外見だったが、舗装されていない土の駐車場もあったので、空飛ぶロボットを投入した。
珍しいロボットなので、多少の渋滞でも、観客はロボットを見て、待ち時間を楽しんでいた。また、梅雨時に入ることも考え、全天候型デジタルサイネージも導入され、会場への誘導や注意事項を表示していた。
会場はさながら、万国博覧会の未来館とでもいう様相を呈していた。柔道関係者でなく、技術自体の見学者も団体で視察に来ていた。その上、今回は世界選手権の代表選手も出ると言うことで、会場は立ち見が出るほどの満員だった。
「涼、ヤバいぜ。実業の大会でこんなに人が入ったのを、俺は始めてみたよ」
インターハイなどと違って、実業団の大会はさほど会場が満員になることはないものだ。いつもスカスカの大会しか知らない剛太は、観客席を見回してため息をついた。
会場では、各試合場で実機操作の体験をする人の後ろに、桔梗学園の子供達がサポートについていた。賀来人や由梨に前持って、十分指導を受けていたので、子供といえどサポートは完璧だったはずだが、それでも、会場の熱気は彼らにもプレッシャーを与えた。
「今日は8会場だね。結果は一括して、観客席からも見えるように、4ヶ所に大画面プロジェクターを用意したから、どこで何をしているか分かるだろう?」
賀来人は練習に専念したい剛太の代わりに、プログラムの改造をして、各試合結果だけでなく、8試合の進行が一括で見えるプロジェクターも、会場と入り口付近の広場に設置した。
雛壇で試合観戦をしている大池都知事や厚生労働大臣も、試合の一覧性に満足していた。
1回戦の第1試合に出場する美鹿は、普段試合場ではポーカーフェイスだが、背中に緊張が溢れていた。
「美鹿ちゃん、思いっきり技を掛けておいで、返されることなんか怖がっちゃ駄目だよ」
美鹿の背中を少し強めに、奈良が両手で叩いた。
「気合い注入したから、GO」
女子チームの1回戦の相手は、「富山クラブ」チームだった。富山は元々、柔道の盛んの地域なので、柊が考えるほど、1回戦の相手は弱くなかった。
先鋒は52kg級の選手だったが、美鹿の幼い顔を見て、(こんな子供を出して馬鹿にしているの?)とひたすら美鹿を寝技に引き込もうとした。柔道のルールは上位ルールに従うので、美鹿がいくら子供でも大人のルールで戦わなくてはならない。当然、子供に禁止されている関節技を狙っているのだ。
「待て」
審判の声に柔道着を直す美鹿は、選手席を振り返った。3人の口が「投げろ」と言っていた。柔道の寝技は、練習すればするほど上手くなる。小学生の美鹿がどんなに練習しても、一朝一夕に上手くなるわけはない。しかし、投げ技は違う。
「始め」
美鹿は、東城寺道場出身で小さい頃から舞子と一緒に柔道をしてきた。美鹿の奥襟を叩いて潰そうとしてくる相手選手の足元を、美鹿は綺麗に足で払った。
「投げたら、一本にするの」
舞子の声が耳の奥で聞こえた。いつも練習中に注意されている舞子の言葉が頭に響く。
美鹿は倒れた相手選手が、身体を捻ってうつ伏せに逃げようとするのを、引き手で最後までコントロールして、体を浴びせた。
「一本、それまで」
勝ち名乗りを受けてベンチに戻る美鹿を、3人が順番にハイタッチで迎えてくれた。
「よっしゃー。美鹿ちゃん、私にもツキをくれよ」
美鹿はオリンピック金メダリスト奈良の背中を、両手で強く叩いた。
奈良の試合は圧巻だった。寝技が得意な奈良だが、それだけで柔道は勝てるわけではない。寝和田を軽快して腰を引いてくる相手を仕留める技も奈良は持っている。開始5秒、奈良の内股で対戦相手は大きく背中を畳についた。一本勝ちだ。オリンピック金メダリストの華麗な技に、会場から大きな拍手が起こった。
「先輩、惚れ直しました。舞子にも一発下さい」
そういうと舞子は奈良に背中を向けた。
舞子は逆に、一本を取らずに「有効」を量産した。「有効」はいくら取っても「一本」にはならない。
「相手は強いんですか?」
美鹿は今回、補欠に下がっている森川に尋ねた。
「いや、試合から大分遠ざかっているので、体を温めているんだよ。すべて違う技で投げているでしょ。まるで投げ込みだね。わざと引き手を放して、1本にならないようにしているよ」
「有効」の掲示は2桁がないので、試合場係のサポートに着いていた深海が手で×を出した。
「それ以上有効を出すな」という意味である。
その直後、舞子は美しい内股で一本を取った。
1回戦は3-0で、チームKKGの勝ちとなった。
美鹿は、試合場で待っている舞子と並んで、チームとしての勝ち名乗りを受けた。
「じゃあ、美鹿ちゃん、後は私に任せてね」
これで、美鹿は先鋒を森川に譲った。
続いて、女子チームは第8会場の男子チームの応援に駆けつけた。男子チームは1回戦がシードで、2回戦からの出場だ。
男子3部は5人制で、剛太のチームは、森川弘晃、榎田涼に加えて、避難組の大学生久保と笹本の2名、補欠に、地元富山出身の、橘の6名でエントリーした。橘は、富山分校に農作物を納入している農家の跡取りで、富山分校の柔道部が出来た当初からのメンバーだ。
男子チームの2回戦の相手は、富山消防署チームだった。消防はガタイがいいが、仕事柄、軽量の選手も多い。今回のオーダーは先鋒から笹本、榎田、森川、久保、九十九の並びにした。
先鋒の笹本は、切り込み隊長としては最高の男であった。技を掛け続ける体力と、どんなに投げられてもうつ伏せに返って1本取られない「猫っ返り」が得意だった。今回も相手は先鋒から唯一の大型選手を出してきたが、笹本は見事に「引き分け」に抑えてきた。
舞子は、(涼が先鋒でなくて良かった)と胸をなで下ろしていた。
次鋒の涼は、久し振りの実戦で息が上がり気味だったが、背負投で有効を奪いそのまま寝技で押さえ込んだ。
戻ってきた涼は舞子に耳打ちした。
「やばいよ。あいつ、インターハイで俺が負けた相手だった。震災対応で練習不足だったみたい。助かった」
中堅の森川は相手のエースと当たった。森川は一本取れる技があるが、安易に相手の技を受ける癖があり、一本負けも多い男だった。今日もガバッと大外刈にいって、見事に返されていた。
「ふー。危なかった。真面目に取り返すぞ」
しかし、取られた「技有」はなかなか返すことが出来ず、終了間際の押さえ込みも、最後に逃げられてしまい、「技有」になり「引き分け」で終わってしまった。
3人が終わったところで、KKGチームは1-0で辛うじて先攻している。
「舞子さん、次の試合が始まりますよ」
第8試合場担当の由梨に注意され、舞子達は後ろ髪を引かれるような気持ちで次の試合に向かった。
「まあ、涼が怪我がなかったらいいか。後はオユンちゃんが応援してくれるし・・、次に集中しよう」
舞子達女子チームの2回戦は、S海上の2軍チームだった。
先鋒の森川から順に3つ「引き分け」が並び、最後に代表戦となった。S海上の代表は立本選手。立本会長の娘である。今年、S海上に入った新人で、今回の試合がデビュー戦だが、舞子に引き分けるほどの力があった。KKGは奈良を出した。
激しい攻防の末、奈良の出した低い背負投に、うっかり立本は手を出して受けてしまった。
ボキ
鈍い音がして、AI審判が試合を止めた。「救護」の机の赤ランプが点灯した。空飛ぶ救護車に乗って、ヘルプでやってきている小畑氷河がやってきた。手には試合のリプレイが見られるタブレットを持って。
「あー、肘の脱臼かな?肩の方もレントゲンを当てないと分からないね。鎖骨も浮いているな」
そう言うと、肘を固定し、救護車から担架を引き出した。
「姉さん、手伝う」
ヘルプの氷高も畳の上に走ってきた。8試合場も有るので、2名の外科医に加えて、ヘルプで氷高も救護スタッフに要請したのだ。氷高は4月から父の経営する病院で研修医として働き出していたのだが、有給休暇を取って、駆けつけてくれた。
「舞子どうしたの?」
試合が終わった涼達も駆けつけてきた。
「試合は?終わった。一応勝ったよ」
「こっちは代表戦で、奈良さんの背負いに立本選手が手を出して受けちゃって、多分、肘をやっちゃったかな?」
「ふーん」
試合場では、立本選手が担架に乗せられ、空いた試合場ではKKGチームの勝ち名乗りが行われた。
氷河が監督と立本会長に、怪我の程度について話をしている間、氷高は「救護」席に代わりに座った。氷河も美人で人目を引いていたが、氷高はそれ以上に女子選手の熱い視線を浴びていた。無駄に湿布などをもらいに来る選手をあしらいながら、氷高は涼に尋ねた。
「柊を探しているんだけれど、会場に見当たらないね」
「今は、エントランスで広報活動をしているんじゃないかな?俺達の弁当は観客席にあるから、飯時に観客席に上がったら会えるかも」
「ああ、姉さんが帰ってきたら、エントランスで捜してみるわ」
すべての会場の決勝が出揃ったところで、試合場が2試合場に減らされた。男女それぞれの試合が、昼食後、順番に行われるのだ。
試合場係を指導していた子供達は、不要になった試合場の撤収方法を説明し終わってから、観客席に上がってきた。最後の試合は、桔梗学園の子供達で試合場係をすることになっている。
生駒篤が賀来人と並んで、弁当を食べながら、今日の仕事の反省をしていた。
「うえー。疲れた。第3試合場のドローンカメラが1台故障したよ」
「でも、代わりのカメラをすぐ運んだから、大事にならなかったろう?」
「そうだね。舞子さんところの試合も、救護ボタンが、すぐ反応してくれて助かった」
「柔道怖いね。投げられた人が動かなくて、僕、救護ボタンを押す手が震えちゃったよ」
「逆に体験に来ていた高校の先生の方が落ち着いていたよね」
「そうそう、『あー。あれは折れたな』なんて平気な顔をして言っているんだもん」
四十物李都は、話題に加わらず、別の試合会場で行われていた美鹿の試合を、タブレットで繰り返し見ていた。珍しく口元には笑みがこぼれていた。
李都の姿を微笑ましく見ていた涼の妹春佳が、弁当の余りを確認始めた。
「あれ?李都。蓮実水脈さんは弁当を食べた?」
「いや、まだだね。水脈さんは、空飛ぶ救護車の説明を下でしている」
李都はやっとタブレットから目を離して、救護者のところに集まっている人垣に目をやった。
「いいな。空を飛ぶ救護車って。畳を傷つけないし、救急用品も担架もすべて1度に運んでいけるし・・・」
そんな感想をブツブツ言っていると、氷高が上がってきた。
「あれ?氷高さん。お久しぶり。スキー合宿ではお世話になりました。誰を捜しているんですか?」
鋭い李都は、氷高が弁当を食べながらも、誰かを捜していることに気がついた。
「李都君、柊君を見かけなかった?」
「待ってくださいね」
李都はタブレットで柊の居場所を確認した。
「ああ、役員の食堂にいますね。食堂では弁当のセットしか仕事がないはずなんですけれど、誰かにつかまっていますかね。呼んでみますか」
「えー。そんな重要な話じゃ・・・」
「いや、誰かにつかまっていたら、連絡した方が柊さんも助かりますよ」
李都は桔梗バンドを使って、柊を呼び出した。
「柊君、どこにいますか?観客席にお客さんです」
「了解。今上がる」
観客席に上がってきた柊は、李都の頭を「でかした」と撫でた。
「助かったよ。某お偉いさんが、氷河医師を紹介しろって五月蠅くて」
悠太郎が乗り出してきた。
「今日は目立つように婚約指輪をするように言ったのに」
「いやいや、義兄さん、救護の仕事するのに、石の付いた婚約指輪は駄目でしょう」
氷高に注意されてもまだ、腹の虫が治らない悠太郎だった。
「悠太郎さん、決勝の時は救護席に、富山分校の外科医と一緒に座りますから、大丈夫ですよ」
悠太郎はまだ釈然としないようだった。きっと、決勝の間中、救護席の後ろに仁王立ちするに違いない。
「それで、李都、僕にお客さんって?」
氷高が李都の脇からひょこり顔を出した。
「柊君、御免。俺が話をしたいって言ったんだよ」
「じゃあ、どこか別のところで話そう」
柊は弁当を持って、氷高を、KKGが借りている小会議室に連れて行った。
「御免、倉庫みたいになっているけれど、ここで飯を食いながら話そう」
「忙しい時に悪いな。御礼が言いたくて呼んだんだ」
「僕が何かしたかな?あー。天皇陛下に氷高君の名前言ったこと?」
「そうそれなんだ。あの大会の後、那須の御用邸に招待されたんだ」
「え?御礼を言うために?」
「俺さぁ、実は恋子内親王と接点があるんだよ。俺は、恋子内親王の学習院幼稚舎から小学校まで一緒だったんだ。でも、ご学友候補ではあったらしいが、男のご学友はいらないってことで、外された」
「恋子様は氷高君のことを覚えていた?」
氷高は、箸を空中に浮かせながら目を泳がせた。
「ふん。全く覚えていなかったんだ。当時、俺は色白でぽっちゃりしていたし。皇后陛下だけが、俺の名前を覚えていたんだ。だから、並一通りの御礼を言われて、お土産を貰って返ってきたというわけ」
「もしかして、小さい頃、恋子様が好きだったってことなの?」
柊は、自分の恋愛関係には疎いが、他人のことは理解できるようだ。
「折角、柊君がお膳立てしてくれたのに・・・。まああんな『白豚』覚えているわけないよな」
氷高は自嘲的に話す。
「いや、自分が逃げるのに、氷高君を利用したようなものだから、・・・」
柊は申し訳なさそうに氷高を見た。
「それでさ。俺が自分の恥をさらしてまでこんな話をするのは、柊君と情報を共有したいからなんだ」
柊は、体を氷高に向けた。
「俺は、恋子様を助けた日、実はテイネスキー場で恋子様がデートをするという情報を事前に知っていた。その情報を教えてくれたのは、俺の叔父の黒須三郎外務大臣なんだ」
「叔父さんが黒州大臣ってこともびっくりだけれど、それを知らせた叔父さんの目的が気になるな」
「叔父は総理大臣を狙っているんだが、そのライバルは女性の総理大臣だ」
「ああ、長尾財務大臣や牛島防衛大臣が候補だな」
「そう、そこで女性票を獲得するために『女性天皇』に賛成する立場を取りたい。そして、もし女性天皇が立った場合、女性天皇の夫、つまり『皇配』は自分の息がかかった人物がなったほうがいいと、思ったみたいだ」
「いやぁ。流石に氷高君は『甥』だろう?大臣の血縁だってすぐバレるのに」
「勿論、叔父は、俺を『皇配』にする気はないんじゃないかな?多分今回は、他の『皇配』候補の邪魔をしろっていう気持ちだったんだろうな」
「邪魔なんかしなくても、勝手に二人とも自爆したじゃないか」
「そうだね。『運良く』ね。そして、叔父は君を『皇配』候補に考えているようだ」
「それも叔父さんから聞いたの?」
「柊君のお母さんって外務省の人間だよね。うちの叔父が接近してくるって情報は入っていない?」
「いやぁ、母親から、僕に連絡を取ることはあんまりないな。夏にT大学を休学する許可を貰ったくらいかな?」
「そうか。でも、叔父から接触があっても、君には話していないかも知れないかも。ただ、お母さんは叔父の部下だし、そうは断り切れないかも知れない。知らないうちに、抜き差しならないことになるかも知れないから、一応、俺の叔父さんの企みを承知しておいて欲しくて・・・」
柊は、氷高の気持ちが計りかねていた。氷高は恋子内親王への気持ちを諦めていないならば、柊が「皇配」になるのを一番止めたいのは、氷高自身のはずだ。柊に、恋子内親王と結婚するなという牽制なのだろうか。考えている間に仕事の時間が来てしまった。
「あっ、決勝の時間だ。良い情報をありがとう」
「うん。俺は恋子様には、天皇にならず、一般人として自由な生活が出来ることを祈っているんだ」
仕事に向かう柊の耳には、氷高の最後の言葉が入らなかった。
決勝は男子の3部から始まる。
KKGの決勝オーダーは、笹本、九十九、森川、榎田、橘だった。3回戦で、久保が怪我をしてしまったので、橘を入れたが、出来れば大将までに勝負を決めたかった。3部とはいえ決勝の相手は、強豪朝日化成の3軍チーム。そもそも、人数が多いので、3軍と言ってもインカレ優勝者なども混じっている。そして、平均体重もKKGより20kg以上多い。
向こうのオーダーも、前に重量級選手を置いている。笹本は辛うじて、「有効」一つで負けてきてくれた。九十九、森川も必死に引き分けてくれた。勝負は後ろ2人に任された。
涼の相手は90kg級の選手で、現在の涼とは余り代わらないが、非常に背の低い選手だった。もともと軽量級だった涼としては、背負い投げで担ごうとしても相手の腹が邪魔で潜ることも出来ない。
舞子が涼に「支え釣込足」のジェスチャーを送る。涼は長い手足を生かして、相手の奥襟を取り引きつけた。先に相手が、寄せられたタイミングで「支え釣込足」を放ってきた。涼はそれに合せて、「大内刈」で上手く合わせて「一本」を取った。普通、大内刈を左右同じように放てる選手は少ない。しかし、舞子の相手をするために、涼はそれをマスターしていたのだ。
ベンチに戻った涼に、舞子が囁いた。
「私のサインを、分かってくれて嬉しい」
「ありがとさん。最後、橘君で勝負が決まるね」
橘は、高校まで柔道での目立った戦績がない選手だった。しかし、真面目な上に農作業や林業で鍛えた体は、少しの力ではびくともしなかった。引き分ければ、KKGチームの優勝だったが、余り動かないと反則を取られる。その塩梅が難しい。
柔道は襟を組んだところで、相手の力が分かる競技である。朝日化成の大将は、橘に両襟を掴まれ、今、必死に切り離そうとしていた。切り離すために後ろに下がる相手選手の動きに合わせて、橘は両襟のまま大きく一歩を踏み出した。大外刈りだ。袖を持てば相手選手は手を突かないのだが、両襟なのでつい手を突いてしまう。
また怪我人かと、美鹿が目を蔽ったその時、何故か、橘は相手選手を優しく畳に寝かせるように力を抜いた。その直後、ドシンと相手の上に乗って、袈裟固に決めた。押さえ込み1本になる前に相手は橘の背をタップした。「救護」が要請され、診断したところ、橘に乗られた時、肋骨に強い衝撃が加わったらしい。
「舞子さん?また骨が折れたの?」
舞子は美鹿に心配させないように、小声で答えた。
「分からないけれど、ヒビくらいですんだか。打撲ってこともあるよね」
兎に角、相手の「参った」で、大将戦に1本勝ちを収め、男子KKGチームは優勝を決めた。続く女子チームは、1人30秒も戦わずストレート勝ちを収めた。KKGチームは男子は3部、女子は2部ながら、アベック優勝を飾った。美鹿も表彰台に上がり、優勝賞品、富山県産コシヒカリ10kgを嬉しそうに受け取った。
試合が終わると、畳撤収のデモンストレーションだ。試合に出られなかった猪熊は、8試合場の畳を説明しながら、一人で片付けて見せた。観客の多くは、表彰式が終わっても、猪熊のデモンストレーションに、ため息をつきながら見入っていた。今日は畳の下敷きも、ストッパーも自動で回収するロボットも導入された。ロボットは購入すると高いが、各県の柔道連盟からリースの契約を多数、受けることが出来た。
観客がほとんど帰ったその後、立本母娘が、病院から帰ってきた。柊が2人を体育館入り口で迎えた。
「お疲れ様です。お嬢さんの怪我の具合はどうでしたか?」
「狼谷さん。今日は柔道連盟の会長という立場なのに、試合の途中で病院に出てしまって失礼しました。娘は肘の脱臼と、鎖骨の骨折でした。全くいい大人が手を突くなんて信じられません」
「いいえ、今晩は痛いと思いますよ。お母様がいらして助かりました。今日の結果は、メールで送っておきました。お気をつけてお帰りください」
「おい、柊。帰るなら、俺も一緒に送ってくれよ」
柊の後ろから、白衣を脱いでラフな格好の氷高が顔を出した。
立本選手は、氷高の顔を見て蚊の鳴くような声で、話し始めた。
「あの、今日はありがとうございました」
「あ?」
「氷高、今日、KKGの試合で肘の脱臼した選手だ」
「ああ、そうだったの。お大事にね」
柊は、覚えて貰えなかった悲しみをたたえた立本選手を、同情の目で見た。
氷高も柊も、同じ穴の狢である。