2人の母
3月31日に政府の作業部会が、「南海トラフ巨大地震」の新たな被害想定を発表しました。経済被害は292兆円、25年度予算の一般会計総額115兆円の倍の金額が予測されています。福島の沿岸地域にも4~6mの津波が襲う可能性があるとの試算が出ました。
皇居の地震災害の被害は、さほど大きなものではなく、すべての建物や家具調度の状態を確認した後、天皇ご一家が皇居に戻るはずだった。しかし、その後起きた富士山噴火の影響で、電気機器はほとんど作動せず、鉄道の復旧の目処もつかない状況は、宮内庁としても予想外だった。
なにより、国会も開催するに当たって、より福島に近い方が良いと言うことで、天皇ご一家は2月中旬、那須の御用邸に一時仮住まいを移すことにした。警備おいても、五稜郭は手薄で、警備慣れた御用邸での暮らしを皇宮警察も希望したためでもある。東北新幹線も那須塩原駅まで復旧した。本来、宇都宮駅まで通したのだが、12月の地震で被害が出たため、JR東日本は那須塩原駅までの折り返し運転をすることにしたのだ。
天皇ご一家は、その復旧セレモニーに花を添えるために、あえて新幹線での那須入りを決めた。
「那須の御用邸は被害がほとんどなかったようだね」
「はい。お父様。ようございました。2月の御用邸は、初めて見ました」
「そうだね。いつもは秋に来て登山などをしていたからね」
恋子は、この1年父天皇の顔に、深い皺が増えたと思っていた。そして、一通りの仕事をこなすと、天皇はすぐ寝室に籠もってしまった。
「お母様、お父様お疲れのご様子ですね」
「そうね」
皇后は、先日の事件もその原因にあると思っていたが、娘には決して言わなかった。
「お母様は先日のスキー場での事件は、宮内庁に原因があると思っていらっしゃいます?」
「何か言われたの?」
「宮内庁の方に、暗に『私が中々相手を決めないからいけない』と言われました」
「そもそも、宮内庁が『この2人が適当だ』と決めたのに、あんなに軽率な方だったでしょう?」
恋子は珍しく激高する母を見て、返って冷静になった。
「宮内庁と言うより、総理大臣が決めてきたんでしょ?」
「石頭総理大臣は、今、何もいいところがないから、何か明るい話題が欲しいと思ったのかしら。でも、24歳の春仁様を無理矢理、結婚させるなんて」
「春仁様には、お好きな方がいらしたから、『無理矢理』ではありませんよ、お母様。大学で素敵な出会いがあったようですし、語学も堪能な方なのでしょ?」
皇后は(語学が堪能なだけではいけないのに)と思ったが、恋子のまっすぐな目を見ると言えなかった。
「ねえ。お母様、私はこれで、『女性天皇論』が下火になればいいと思っていますの」
「でも、春仁様のところに男の子が生まれなければ、また、再燃しますよ」
「でも、それまでは時間がありますもの。今なら、私のお相手のハードルが下がると思いますの。外国人でも年下でもいいですよね」
「誰か、心当たりの人はいるのですか?」
「いいえ、ただ、外国の血が入っていてもいいのかな?と思ったまで」
「狼谷柊さんのこと?外務省の星外交官の息子さんよね。確か、あの人自身、イタリア人とのクオーター。いいえ、祖父にはロシアの血が流れているって」
「お母様はよくご存知ね」
「そうね。入省時に話題になっていたから。子持ちで外交官が出来るのか?って。
でも、彼女は、『専属のナニーがいます』って言って、本当に子連れで海外どこへでも行っていたわ」
「狼谷柊さんはあなたの気持ちはご存知?」
「向こうには、これっぽっちも、その気がないみたいです」
「『これっぽっち』って、残念ね。他にあなたの中にいいと思う人はいないの」
「逆に、出会いがなさ過ぎて、困っています。結婚前に民間人になれたらいいのに」
「2年後に伊勢神宮の式年遷宮があるから・・・」
「では、その前に・・・」
皇后は、ちゃっかりウインクしながら自室に戻る娘を見て、深いため息をついた。
「あなたしかいない」という天皇の強い言葉を信じて、この世界に入った皇后は、幸せだったかと言えばそうではない。
しかし、天皇との結婚に対して、「1人で先行き不透明なこの時代を歩まれる天皇が、余りにお可哀想だ。私なら支えられる」という自負を持ったのは皇后自身だ。
それは、数年で崩されてしまった。SNSの普及で、バッシングはより苛烈さを増した。
出来れば、恋子をこの世界から逃がしてあげたいというのが、皇后の本音だった。
一瞬、皇后は、星外交官に連絡を取ろうかと考えた。
しかし、それは人の息子を「地獄の道連れにすること」なのだと気づき、慌ててその考えを振り払った。それでも、その考えは心の奥底に留まって、消えることはなかった。
一方、星外交官はその頃、意外な人物と会っていた。
秋田に移転した外務省の庁舎で、星外交官は黒州外務大臣に声をかけられた。
「星君、久し振りだね。忙しそうだね」
「お久しぶりです。黒州外務大臣ほど忙しくは有りません」
「良かった。少しは時間が取れるんだ。僕さぁ、国会対応で忙しくて、中々こちらに来られなかったんだけれど、昼食える場所でいいところ、知っている?」
「うちの若い子に聞いてきましょうか?よく外に食べに行っているようですから」
「嫌だな。他人行儀だね。僕たち、同期入省じゃないか。一緒にお昼を食べようって、言っているのに」
星外務官は、面倒な話だと思って、知らんふりをして見せたが、どうも逃げられそうもなかったので、腹を括った。
「人気のあるところと、静かなところ、どちらが宜しいでしょうか?」
黒州はにっこり笑って、「決まっているじゃない」と答えた。
星外務官は、ムカッときて、大衆食堂にでも連れて行ってやろうかと思ったが、流石に、外務大臣を連れて行くところではないと考え直し、稲庭うどんの味の確かな店に連れて行った。
「予約していた星です。部屋あって良かったです」
昼の営業時間終了の30分前に滑り込んだ店は、大分、人がはけ、個室に入らなくても良いくらいだが、一応、戸のある個室を店に用意して貰った。
「星君、ここによく来るの?」
「ええ、人を連れてくるのにちょうどいいですね。私は、普段は弁当なので、一人では来ませんが」
「ふう~ん。ご主人が来た時もここ使う?」
「え?いや、来る時は子供の進路の話なので、私のマンションで食べますが」
「上の息子さんはT大だよね。次男君の進路かな?」
星外務官は、話題が嫌な方向に動きそうな気配がしたので、無理矢理話題を変えた。
「大臣のお子さんは、来年、高校入試でしたっけ?」
「そうなんよ。秋田高校は今、避難してきた人が集中して受験するって、倍率爆上がりなんだ」
「そうですよね。秋田在住の子が弾かれるって、同僚が嘆いていました」
二人の会話は、うどんの到着で水が入った。
「旨いね。稲庭うどんて、本場のうどんはやっぱり旨いね」
「帰り際に、店の人に言って下さい。閉店間際に来ちゃって申し訳なくて」
「わざと、そういう時間に来たんでしょ?椿ちゃん?」
星外務官は、黒州の意図がある程度分かっていたが、そこで駆け引きに負ける訳にはいかなかった。
「ねえ、優秀な長男君を留学させるって相談も、ご主人としたの?今、T大学、休学中じゃない」
「そうなんですか?まあ、今は都内の大学には通えないんですものね。留学したいなんて情報、どこで知りました?息子は薄情だなあ、母親に相談してくれないんですもの。まあ、金が貯まったら、好きなところに留学するのも有りですね。大臣のお子さんも、海外の高校に留学ですか?」
黒州は軽くいなされて、心の中で舌打ちした。
「息子さん、薄情じゃないですよ。スキー場で人助けしたって話も聞きましたよ」
黒州は核心を突いて、逃げられないようにしたかったが、星外務官のほうが一枚上手だった。
星外務官は時計を確認して、伝票を取った。当然、支払いを黒州が女性にさせるわけがない。
「僕が払いますよ」
「すいません。ご馳走になります。では、私はこの後、外回りがありますので、お先に失礼します」
そう言うと、星外務官は先に店を出、会計をしている黒州が出た時には姿は見えなかった。
(畜生、食えない女だ)