涼の探検
みんなは昼寝をするために部屋に帰ったが、涼はそのまま食堂に残った。涼は食堂の中で情報収集をしようと考えたのだ。すると、入寮の時健康診断をしてくれた女医がいたので、近づいていった。
その時の女医達は、英語で会話をしていた。そして涼を見つけると、涼が逃げ出すより速く、
「Hey、 What’s up」と話しかけられてしまった。
涼は腹をくくってたどたどしい英語で話しかけた。
「マアマアデス。昨日ハアリガトウゴザイマス。今、英語デ自己紹介シテモイイデスカ」
「OK Please .Go ahead」
「僕ノ名前ハ榎田涼デス。昨日、桔梗学園ニ来マシタ。コノ時間、校内ヲ見テ回リタイノデスガ、オ勧メノトコロハアリマスカ?」
2人はニコニコ笑って、西棟の上から屋内グランド、体育館、武道場、地下のeスポーツ・ゲーム演習場を見て回ることを勧めてくれた。そして、英語がうまくなりたかったら、毎日昼食時は、食堂の中の人に英語で話しかけ英語を直して貰うことを教えてくれた。内弁慶な涼にとって高いハードルだが、桔梗学園に入学する「父親第1号」として、そんなことは言っていられないと覚悟を決めた。
最後に名波いう産婦人科医は、涼の頭を撫でながら言った。
「私は君の勇気を応援しているよ」
そして保健室で無愛想だった陸という産婦人科は、ニヤニヤしながら言った。
「君が途中でくじけない方に、私は賭けたんだからね。1年間頑張れよ。1年間頑張ったら、医療スタッフ全員のポケットマネーで、君たちに結婚式をプレゼントしてあげよう」
賭けは医者の中で行われているらしい。つまり、自分が最後まで持たないと考えている医者もいるというわけだ。胃がきゅっと締まるような感じがして、涼は暗い気持ちがした。
そんな気持ちを振り切るように涼は、校内見学を始めるために、ランニング用らせんスロープを5階まで駆け上がった。そこには開閉式屋根を備えた広大なグランドがあった。人口芝の上で、2人の医者と高校生ぐらいの生徒がキャッチボールをしていた。
ふと、涼は紅羽の相手は、今どうしているだろうと考えた。涼は五十沢が紅羽の相手ではないかと予想していたが、もし、父親が五十沢なら、紅羽をここに送って今頃、野球三昧なんだな。人の噂は七十五日と言うが、五十沢は何もかも忘れて夏の大会を迎えられるのだろうか、などと考えていた。
もし、甲子園に行けなかったら、後悔するのだろうかなどと意地悪なことも考えてしまった。
涼は目の前にボールが転がってきたので、ボールを取りに走ってきた高校生に投げ返した。
(こんなこと悩んでいる暇があるのは、俺だけか。今日は、昼寝時間内にすべての施設を見なければならないので、走ろう)
自分たちの宿泊階の下、3階にはトレーニングルームがあった。高校生と思われる女生徒が一人でマシンを使って、スクワットをしていた。
邪魔をしないように部屋から出て行こうとすると、女生徒の方から声を掛けてきた。
「榎田君ですか?」
(どうして名前が分かったのだろうか。坊主頭だから、例の『榎田』だと分かったのか。なんだか、すべての人に個人情報が知られているのは不快だな。聞こえないふりをしようか)
その心を読んだかのように女生徒が、再度声を掛けてきた。
「こんにちは。運動施設管理者の三川杏です。見学ですか?利用ですか?」
「いや、ちょっと、西棟全部を見て回ろうかと思って」
「じゃあ、トレーニングルームと下の武道場を案内しますね」
体育館と言わずに、武道場と言われたことで、涼はちょっときつい言葉で質問してしまった。
「なんで、俺が武道場を見るって思ったんですか」
「あー。ごめんなさい。私、今年から運動施設管理者になって、皆さんの個人情報を見られる立場になったんです。はしゃぎ過ぎましたね。気を悪くしたんならごめんなさい。私もファーストチルドレンなんですが、蹴斗や鞠斗みたいに優秀じゃないんで、高校3年になってやっと運営スタッフの一員になれたんです。今日初めて、運動施設管理者として施設案内ができると思って先走りました」
赤くなったり青くなったりする三川の顔を見て、涼は自分のいらだちを同じ年の女性にぶつけてしまったことを後悔した。
「こちらこそ、すいません。では、武道場を案内してもらえますか」
「はい~。らせんスロープから下におりましょう」
体育館では、中学生がバレーボールをしていた。
(結構な数の中学生がいるんだ)
「今は中学生が体育をしています。時間割は各自決めているんですが、体育だけは人数が揃った方がいいので、同じ時間に設定しています」
「先生はいないんですか」
「バスケットや水泳なんかは、学園内の得意な人に指導を頼みますが、基本、レクリエーション的なものは、自分たちだけでルールを決めてやっていますね」
「怪我をしたりしないんですか」
杏は、涼の脇の下近くまで寄ってきて、体育館の奥の方を指さしていった。
「見えますか、あそこに人がいるのが。医者は必ず現場で見ています。特に水泳の時は、複数の医者がつきますね。うちのお医者さん、全員運動を専門にやっていた人なんです。水泳や卓球、バドミントンやスキー、他にもボクシングやバイアスロンの人もいます。武道場の脇に保健室2があるんです」
(医者が運動の専門家なんだ。いい情報を聞いた。それにしてもこの人、人との距離感が「近い」なあ)
涼は一歩下がって質問した。
「医者の中にバスケットの専門家はいませんね」
涼が下がった分だけ杏は、間を詰めて説明を始めた。
「蹴斗と鞠斗が上手なんですよ。晴崇も好きで、よく3人で夜バスケやってますよ。紅羽さんが入れば2対2ができますね。それに今年は、柔道が2人も入学したので、施設を充実させたんです。見てください」
確かに武道場は、強豪私立並みの施設が揃っていた。畳は国際試合仕様で、壁面にはぶつかっても壊れない大きな鏡が設置してある。反対側の壁面には、タイマーとビデオが各試合場ごとに設置してある。投げ込みマットも天井までの登り綱も、落下防止の安全ロープまでもある。
「見てください。こんな施設は他にないと思いますよ」
そう言ってパネルを操作すると、壁面から複数のビデオカメラが出てきた。
「これで、審判がいなくても試合ができるんです。技判定をAIができるようにプログラムされています。他にも自分の技をリプレイすることもできるんです。それも映像を360度回転させて見ることもできます。
そして、更衣室の奥には柔道着を掛けておくと、翌日には、汗も匂いも完全になくなる強力風イオン乾燥室完備です。あー。でも更衣室は女子用なので、男の方は男子寮に上がって自室で乾燥してください」
夢中で話す三川杏は小柄だが、非常にグラマラスな体形をしているので、ずいっと近くに寄られると、涼はのけぞってしまう。
人間にはパーソナルスペースというものがある。涼は人見知りなのでかなり広いが、それにしても杏の距離感はバグっている。積極的なのか、説明したいという熱意なのか、第三者に見られたら誤解されるほどの近くに寄ってくるので、涼はこの人とは二人きりで話さないことにしようと決意した。
「あっ、ありがとうございます。地下2階も行ってみたいので、失礼します」
(施設の貸出手続きなどについても聞きたかったが、舞子と一緒の時に聞こう)
昼寝時間もあと少しなので、涼はらせんスロープを猛ダッシュで、地下2階の「eスポーツ・ゲーム演習場」の前まで駆け下りた。扉の中からはゲームセンターのような機械音や子供達のはしゃぐ声が聞こえた。入り口のドアをゆっくりと開けると、見知った蹴斗の背中が見えた。
「おー。琉も来たか、て?ごめん。涼だったね」
「すいません、琉じゃなくて。施設の見学してます。榎田涼です」
「蹴斗は昨日新入生にいっぱい説明してただろ?ここは、この部屋の主、駒澤賀来人が案内するよ」
(駒澤賀来人、どこかで聞いたような?)
「思い出した。僕たちの部屋を整えてくれた人だよね」
「何か不自由な点がありましたら、男子使用部門施設長 兼 ドローンレース部部長 駒澤賀来人に申しつけください。こっちは副部長の一村蹴斗」
「上から目線だな。2人しか部員がいないのに」
「琉が入れば3人ですよね。4人目は柊ですか?」涼が聞いた。賀来人は渋い顔で答えた。
「4人目はあそこにいる板垣圭さんに、お願いしたいのですが、『今日は見学』ってさっきまで見て貰っていたんですが、他のゲームをしたいって言って、あっちに行っちゃったんです」
圭は疲れすぎて返って目が冴えたので、昼寝時間に見学に下りてきていたのだ。
圭は「ドローンドッグファイト」を通信対戦でやるのも楽しいが、同好の士がリアルに毎日集まって、わいわいやるのも魅力的な体験だと考え始めていた。しかし、そこで「やろうやろう」と、はしゃげないのが圭だった。
「もうすぐ14時」という表示が、ゲーム画面に流れ始めた。桔梗学園にチャイムはないが、時間になったら急に電源が落ちるのも恐ろしいものだ。
部屋にいる者は全員、急いでゲームをセーブして、クラスルームに向かって小走りに動き出した。