柊と綾香の俳優デビュー
柊は、美人アナウンサーとショートドラマに出演することになりました。
2029年9月1日土曜日は、防災の日であった。例年、関東大震災の発災したこの日、防災訓練を行うのが常であったが、2日に大型台風が日本に上陸すると言うことで、多くの自治体が防災訓練を中止した。
その代わりに、政府は9月15日土曜日に、まる1日「電気のない暮らし体験デー」を行うと宣言された。
企業活動の全面中止、学校などでの行事、部活動の禁止以外にも、商業活動もすべて禁止との政府の方針が発表された。何故か、海水浴や釣りなどの海のレジャーも禁止された。
今までだと「電気を使うな」と言っても、ルール違反が見られたり、反対意見がSNSに上がったりしたものだが、流石の日本人も、6月2日の新潟地震から始まる天災続きの日々に、「お上の言うことを聞かないと天罰が下る」とでも思ったのか、率先してそれに対応する気運が高まった。
話は遡って、8月下旬に、例のごとく、NHKの久住プロデューサーが上司に呼ばれた。
「はい。また加須総理代行からご指名だよ」
「また、災害関連の番組ですか?」
「9月15日にまる1日、東日本の電気を止めるんだそうだ。企業活動もすべて含めて、完全に電気を止めるので、その日を防災の日も絡めて、『電気のない暮らし体験デー』という名にしてしまうんだそうだ」
「またですか?それで、自分の仕事は何ですか?」
「電気のない暮らしって、江戸時代は普通にやっていたことなんだが、買い占めなど、あまり見当違いなことをされても困るので、NHKで『電気がなくても大丈夫』という啓発番組を作ってくれ・・・というご依頼だ」
上司は「君なら出来る」と意味不明は言葉をいうが、久住プロデューサーは、少し薄くなり始めた頭を抱えた。
「いやいや、江戸時代とインフラが違うでしょ。ボットン便所もないし、ランプも火鉢もない。まして、今は夏なんだけれど、この猛暑は打ち水でしのげる気候じゃないでしょ・・・」
「久住さん、不景気な顔してどうしたんですか?」
災害番組の顔となった塩澤綾香アナウンサーが、廊下で久住に声を掛けてきた。
久住は、何かのヒントになるかも知れないと、綾香に事情を説明した。
「まあ、一緒に考えましょう」
そう言って、2人は昼飯を食べにレストランタナカに出かけた。NHK新潟放送局は今、長岡市に移転したので、地理不案内の久住は、綾香の美味しい店というのに連れて行ってもらうことにした。
レストランタナカは昔ながらの定食屋だが、明るい雰囲気で、昼時は多くのサラリーマンで溢れていた。量が多めの料理は、働くおじさん好みだが、今日も外で取材をしてきた綾香の空腹を満たすにはちょうどよい量なのかも知れない。
「ここのポークカレーが好きなんですよ。辛さましましで行きます」
「昼飯を奢って貰う算段だな?」
「久し振りに『久住さんとご飯食べたい』って思っちゃいけないですか?」
「はいはい。こんな美人とランチなんて嬉しいですよ。で?なんか、アイデアあるか?」
「マンション暮らしの若い夫婦の1日。ある日停電になったら、どんな工夫で乗り越えるのかを、ドラマにしたらどうですか」
「妻は塩澤君?」
「夫の希望は出していいですか?」
「残念だな。俳優を雇う予算はほとんどない」
「じゃあ、ホームセンターをスポンサーにするとか」
「うちはNHK」
「困った時の桔梗学園。ついでに男の子もあそこから調達しましょうよ」
という訳で、狼谷柊がNHK長岡放送局のスタジオに駆り出された。
涼はまだ、怪我の影響があって手がうまく動かないし、琉は顕現教の残党の心配があるのでTVに出られない。晴崇は今は多忙なため、桔梗学園から出られない。高校生は修学旅行の準備があって来られないと言うことで、消去法で柊が選ばれた。勿論、柊も「多忙」は多忙なのだが、例のごとく美規の「いいんじゃない」の一言で出演が決まってしまった。
しかし、柊も彼女いない歴19年の男子である。TVのアナウンサーとの共演と言うことに、心が動き、うっかり長岡まで来てしまったのだ。長岡駅で待っていたのは、新潟の地方局のアナウンサーの塩澤綾香だった。綾香は、色白でほっそりしていて、ウエーブした髪の美人だった。
「初めまして、NHK新潟の塩澤と申します」
そう言って名刺を差し出した手の爪は、綺麗に整えられて、化粧っ気のない女子に囲まれている柊には新鮮だった。
「初めまして、桔梗学園の狼谷柊と申します。生憎、他のスタッフが出払っており、自分で申し訳ないのですが・・・」
綾香は、少しの失望を隠して、笑顔で答えた。
「いいえ。狼谷君はT大学の学生さんなんですよね」
「はあ、でもこの震災で入学して半年も立たないうちに、大学に通えなくなってしまいました」
「え”?今年入学したの?じゃあ、まだ19歳?」
「申し訳ありません。まだ19歳で」
柊は桔梗学園の名刺を渡して、少し皮肉を込めて挨拶した。
狼谷の反応に失礼なことを言ってしまったと、反省した綾香は、更に墓穴を掘った。
「ごめんなさい。これからショートムービーを撮るんですけれど、私達夫婦の役なので、私がおばさんで申し訳ないなって思って・・・」
柊は目頭を摘まんだ。
「すいません。夫婦役?そんな話は聞いていないのですが・・・」
NHK新潟に着き、撮影セットで「夫婦で乗り越える停電の夜」というタイトルの台本を手にして、さらに柊は頭が痛くなった。
「急ぎで作った台本なので、台詞は必ず、カンペを前に出しますから、読んで下さい」
「ちょっと待って下さい。取りあえず、台本を読ませて下さい」
柊はぱらぱらっと台本に目を通した。
「この赤ん坊というのは?」
「災害時に子連れの方が一番困ると言うことで、急遽、産休を取っているスタッフにお子さんを連れてきて貰いました」
スタジオの端に、まだオムツが外れていない2歳くらいの元気な男の子と、お腹が大きいお母さんがスタンバイしていた。
「木下さん、今日はありがとう。お子さんの名前は?『蓮』君というの?じゃあ、蓮君を少しの間、借りるね」
そう言って、綾香は木下というスタッフの子を借りて抱っこしてきた。
(うわ。子供慣れしていない。あんな抱き方したら?ん????」
「塩澤さん。臭いですよ。その子」
「塩澤さんすいません。さっき、力入れていたから、うんちしているかも」
「嫌だ。じゃあ、ここに畳があるから、『お母さん』の私がおむつ替えてあげるわよ」
綾香は、蓮君を横たえようとするが、蓮君はすぐ起き上がってしまう。
(あー。うんちの状態も確認しないで、オムツを開けちゃ駄目だ。セットの畳が・・・)
業を煮やした、柊が木下に声を掛けた。
「僕がおむつ替えてもいいですか?オムツ交換道具一式貸して下さい」
「え?君、いいの?」
「撮影スタッフが待っているじゃないですか。さっさと交換しましょう」
セットの畳の上では、蓮をようやく仰向けにして、ズボンまで脱がした綾香が、オムツではなく、トレーニングパンツを穿いていることにフリーズしていた。
「ねえ、トレーニングパンツにうんちしている時は、どうやってオムツ交換するの?パンツ下ろしたら、足のうんちがついちゃうじゃない。あー、いうこと聞いてよ。起き上がらないで」
セットに上がった柊は、さっきまでの仏頂面が満面の笑顔に変わっていた。
「ちょっとすいません。代わります。この中からお尻拭きを出して下さい」
そう言って、柊は、木下から借りたおむつ替えポーチを綾香に渡した。
「蓮く~ん。おむつ替えますよ。あっぷっぷー」
そうして、暫くにらめっこをしながら、蓮の機嫌を取ると、
「ばぁー。お尻もばぁー」
そう言うと、柊は、ひょいっと蓮を仰向けにして、トレーニングパンツの両脇を手でビリッと破った。
「はい。お尻拭き貸して下さい」
綾香から受け取ったお尻拭きで、さっさとお尻を拭いた。お尻拭きとうんちをトレーニングパンツでくるっと丸めると、木下に声を掛けた。
「木下さん。すいません。うんちをトイレに捨ててきてください」
「はい」
「はい、蓮君、すっきりしたね。もう立っちしていいよ」
そう言って、冬月を立たせると、上げる足に合わせて、トレーニングパンツとズボンを順に穿かせ、ウエストに上着を上手にしまった。
「終わったよ。蓮君、よく出来たね。はい。すっきり」
そう言うと「手を洗ってきます」と言って、綾香に蓮を預けると、さっと席を立った。
「すごいですね。流れるような動きだわ」
戻った柊は涼しい顔で、「慣れです」と言うと台本チェックを始めた。
その日に撮り終わったビデオは、柊がその日のうちにAIで加工して、1本の番組に仕上げた。
桔梗学園では、9月1日にNHK放送を珍しくみんなで鑑賞した。勿論、衆人環視で恥をかきたくなかった柊は逃げだそうとして、琉に羽交い締めにされて、いやいやながらも鑑賞させられた。
「防災の日スペシャル もしも電気が使えなくなったら」
柊は流石に、台本のタイトルでビデオを流すのだけは拒否した。
「ねえ、あなた、明日は1日電気が使えないって、どうしましょう」
「綾香。大変だ。蓮もいるし、必要なものをリストアップして、買い出しに行こう」
「何が必要かしら?」
「停電はたった1日だろう?あまり買いすぎないほうがいいよ。買い占めたら他の人が困るからね。まず、3食何を食べたい?」
「朝はパンでしょ?卵サンドを作っておけばいいかな?サラダもいるわね。蓮には、何がいいかしら?」
「そうだね。赤ちゃん用のサンドイッチを作っておこう?」
「昼は素麺と蜜柑の缶詰。夏なので、茄子の漬物も欲しいわ」
「乾物や缶詰は災害食になるね。蓮には麦茶もあげたいね」
「暑いけれど、氷は使えないわね」
「そうだね。ただ、クーラーボックスに前の晩から氷を詰めておけば、少しは冷たいものも食べられるかも知れないよ」
「お風呂は無理かな?」
「水を張っておけば、夏だし、水風呂でいけるよ。昼間も暑かったら、蓮には水遊びさせておくと昼寝もしそうだ」
「夜ご飯はどうしましょう。ご飯が食べたいね」
「飯盒かメスティンがあれば、1合くらいは炊けるんじゃないか?家には卓上コンロがあったよね。僕はカップラーメンでもいいな。綾香はどうする?」
「私は蓮用にお粥を作って、その残りに梅干し入れて食べようと思うの」
「じゃあ、まず、うちにあるものを確認しよう。むやみに買い占めないことが大切だ。まずはパンと卵は家にあるものでいいね。素麺に梅干し、カップラーメンもある。家の懐中電灯は単3だから6本もあれば・・・。ないね。じゃあ、乾電池単3✕6本に、ガスボンベを6本。そうそう蜜柑の缶詰だっけ?念のため、ペットボトルの水も6本買っておこう。災害用の袋に今のうちに水道の水を入れておけば、これで足りるね」
「そうだわ。氷はどうしよう」
「板氷があるといいね。あれはなかなか溶けないから。家に大きなクーラーボックスあったよね。あそこに2個入れて後は、冷蔵庫にある氷をジップロックに入れておけばいいよ」
2人が買い物から帰ってくる。
「ホームセンターはすごく混んでいたわね」
「まあ、炭や豆炭は使い慣れない人が使うと危ないんだけれどね」
「蝋燭も火事になりそうで怖いね」
「小さい子がいるから、家で使うのは止めたほうがいい。懐中電灯の前にペットボトルを置いておけば結構灯りが広がるし、早く寝ればいいから」
琉が、柊の耳元で「早く寝なさい」と囁いた。
「あっ、停電だとクーラーも着かないわよ」
「それは、氷枕を使ったり、気化熱を使ったりしよう」
「気化熱?」
「氷水に入れたタオルをよく絞って身体を拭けばいいよ。庭に打ち水を打ってもいいし」
「家はマンションなので、庭はないわよ」
「ベランダに水を撒いたっていいさ。それにこれも買ったよ」
「何?これ、おが屑の箱?」
「これは、KKG印の災害用トイレなんだ。猫のトイレみたいに、これを掛けると匂いが消えるんだ」
研究員が「柊君、トイレの機能を、もっとちゃんと宣伝してぇ」と、柊を冷やかした。
「マンションだと停電では水洗トイレが使えないのよね。でも、この箱状の簡易トイレで1日持つって書いてあるわ」
「この災害用トイレは、停電が終わったら、蓋をしてベランダに置いておけば、バクテリアが1週間で排泄物を分解してくれるのね」
「後で、これを土に混ぜれば、肥料にもなるよ」
「後は、停電になる前にお風呂を入れ替えて、冷蔵庫の中のものをクーラーボックスに詰め替えれば、何の心配もないわね」
「それから、夕飯は冷蔵庫の中のものを食べて処分しないとね。そうそう卵サンドも作って、冷やしておこう」
テロップ 「皆さんも9月15日の『電気のない暮らし体験デー』には、この夫婦のように、必要なものを必要なだけ用意して下さい」
出演 塩澤綾香、狼谷柊、木下蓮
桔梗学園の食堂は、大爆笑に包まれた。
「だから嫌だったんだよ」
柊が、羽交い締めから解放されて、食堂の床に転がった。
「柊さん、ヤバいっす。KKGのトイレの宣伝、棒読みになっていて・・・」
賀来人が涙を流しながら、フォローしたつもりだったが、逆に柊に睨み付けられた。
「うるさい。塩澤さんの台本がひどすぎて、直しようがなかったんだ」
塩澤綾香も放映を見て、女優と脚本家は諦めようと心に誓った。
しかし、人々の買い占めの衝動は、なかなか抑えられなかったようだった。
9月14日まで、何度も商品の補充をしたが、ホームセンターの棚が満杯になることはなかった。