広い背中
火災事故が起こった翌朝の話です。
静かな病室に、鉛筆を走らせる音だけが聞こえる。ベッドには後頭部の毛が焼け焦げ、首に包帯を巻いた患者が一人寝ていた。布団は肩まで掛かっていて、背中を向けて横たわっていた。薄暗い病室の朝日が差し込み、鉛筆の音が止み、カーテンを閉める音がする。朝日が患者の目に当たるようだ。
静かにドアを叩く音がした。
「すいません。柊がここにいると聞いたんだけれど」
鉛筆の音が止み、椅子から立ち上がる気配がする。
「あれー?だれもいないの?これは・・・柊だね」
琉は、今さっき警察から解放されて帰って来たのだ。夜通し行われた事情聴取の後、今日の午後から現場検証だが、寸暇を惜しんで柊の様子を見に病室に来たのだ。
ベッド脇の椅子に座った琉は、少し温かい座面に違和感を覚えた。しかし、寝不足なのでそれ以上頭が働かなかった。柊のベッドに頭をつけて、軽い鼾をかきながら、眠り始めた。
「琉、寝たいなら、自分の部屋に戻れよ」
鼾に我慢できなくて、柊が身体を起こしてきた。
「おっ、元気だな」
「元気じゃねぇよ。頭禿げただろう?背中も火傷したから、横にしか眠れないんだけれど」
「悪い。俺も、柊が死んだかと思って肝を冷やしたんだよ」
「悪かったよ、生きていて。それで、一晩掛けて調べたんだろう?原因は分かったのかよ」
「まだ、わからない。現場検証は今日の午後からだ。
最初のナイアガラの時から1台調子が悪かったのか、フェニックスの時に花火の火の粉にでも当たって、調子が悪くなったのか。そのどちらかだと思うんだが、暗かったので、映像がデータ解析に手間取っている」
「そうか」
「それよりお前の火傷の方はどうなんだ?」
「久保埜医師が処置してくれたけれど、火傷の程度は1度だって。
ここへ運ばれた当初はガンガン冷やされたけれど。
今は痛みはかすかにあるけれど寝られるし、火傷したのは首と肩だけだから、日焼けぐらいだって」
「じゃあ、久保埜医師は今はいないの?誰か、ここにいたような気がするんだけれど」
「久保埜医師は寝る前はいたけれど、今は見当たらないねさあ?朝飯でも食いに行ったんじゃないか」
「藍深ちゃんは怪我しなかった?」
「わからないよ。助けようと思ったら、浜茶屋から飛び降りちゃったから」
「そうだよね。そのまま二人ともバリアの中にいたら、安全だったんだけれど、自分から出ちゃったから、こんな目に遭ったんだよね」
「すまん。咄嗟のことで、それを五十沢に話す暇もなかったし、俺も勢い余って、飛び出しちゃったからね。まあ、大量の水を掛けられたし、鮎里さんと鞠斗も駆けつけてくれたから、助かったよ」
「その前に、藍深ちゃんが一生懸命、お前に砂掛けて火を消そうとしていたけれど」
「嘘。全然気がつかなかった。火の側に近寄ったら、自分も怪我するのに」
保健室のドアが開いて、久保埜医師が戻ってきた。
「うわ?」
廊下を駆け抜ける軽い足音が廊下に響いた。
「今の子、五十沢さん?大切なスケッチブック置いて行っちゃったよ。お前ら、いじめたのか?」
柊と琉は顔を見合わせた。
「五十沢さんが、そこにいたのですか?」
「会わなかったの?反対側のドアから出て行ったのかな?一晩中、柊に付き添っていてくれたんだけれど。彼女も手に火傷をして、前髪も少し焦げたんだけれどね」
「え?顔は?」
「顔は大丈夫だったし、捻挫もなかったみたいだね。あの子、2mの高さの浜茶屋から軽々と飛び降りたんだ。運動神経がいいね」
柊は顔をしかめた。
「なんだ。俺が助けるまでもなかったわけか」
「そんなこと言うなよ。お前は立派にボディーガードの仕事をしたじゃないか」
「何言っているんだ、守られる対象に助けられた上、怪我までさせたんだから、失格だろう?」
(柊のひがみが始まった)
琉は立ち上がって、藍深の残していったスケッチブックと鉛筆を拾った。
スケッチブックをじっと眺めて、柊を見つめた。
「何だよ。何が言いたい」
「お前が描いてある」
そう言うと、スケッチブックを開いて、柊がベッドで横たわっている姿を見せた。
「後頭部が禿げている」
久保埜医師もそのページを見つめて、肩をすくめた。
「琉、柊がもてない訳が分かったよ」
そこには、柊の広い背中が逞しく描かれていた。後頭部の火傷の跡は痛々しく、枕元のテーブルには、少しひしゃげた柊の眼鏡が描かれていた。
「何故、もてない理由がその絵にあるんですか。久保埜医師、教えてください」
「やれやれ。琉に聞いても分からないよ。こいつも五十歩百歩だから」
二人して、スケッチを見て、考え込んでしまった。
琉は他にヒントはないかと、スケッチブックをパラパラとめくった。
「わかった」
「琉に先を越されたなんて、ショックだ」
「違うよ。最初のドローンの時から、故障があったと言うことが分かったんだ」
そういうと、藍深が描いたナイアガラのスケッチを開いて見せた。
「ほら、50台のドローンが並んで描かれているけれど、1台だけ不自然に下がっているだろう?3枚スケッチが描かれているけれど、そのどれもで1台だけ下がっている。この時点で1台に故障があったんだ。
何番目だろう?右から5台目?あーこのスケッチ一瞬だけ借りていっていいかな」
「駄目だろう。五十沢を見つけて聞いて来いよ」
「わかった」
そう言うと、琉は女郎花高台の桔梗村のコンテナ住宅まで走り去った。
「うわっ。琉、どうしたの?」
次の当直の鮎里が保健室に入ってきて、琉にぶつかりそうになった。
琉は鮎里に会っても、何も言わずに走り去った。
「どうしたんですか?琉は血相変えて、私に挨拶もせずに走って行きましたよ」
「鮎里お姉様より、友達の事故原因究明の方が大切だったんじゃない?」
「そりゃあ、良かった。久保埜先輩、交代の時間です」
「ありがとう。この朴念仁にスケッチに込められた謎を説明してやって?」
そう言って、柊が描かれたスケッチを鮎里に見せて、久保埜医師は部屋を出て行った。
「これは・・・藍深ちゃんのスケッチブックだね。彼女は一晩中、ここにいて柊の絵を描いていたの?ふーん。ちょっと、柊はこの形に寝てみてごらん」
柊は、横向きに寝て見せた。鮎里は藍深がいたように座って、スケッチと柊を見比べてみた。
「ふーん。単なるスケッチ魔でなければ、嫌いな人の寝姿なんて描かないわね」
柊は鮎里の言っている意味がよく分からなかった。
実際より広く描かれた背中は、柊の背中が広く逞しく見えていて、守って欲しい気持ちの表れかも知れないし、椅子に座っているところから見えない眼鏡を敢えて描いたのは、罪悪感の表出かも知れない。後頭部の怪我も、申し訳ないという気持ちの表れなのだろう。
しかし、鮎里は敢えてそれについて触れなかった。
「まあ、嫌われていないならそれでもいいですが、僕自身は、彼女を見ると自分の情けなさを思い出すだけですから、当分会いたくないですね」
「困ったな。私としては、鞠斗が彼女を気に入っているから困っているんだよな。
浮気されても困るし・・・。
柊が藍深さんを引き止められないならしょうがない、琉の彼女になるように、根回しするか」
「何言っているんですか。あなたはもう。五十沢の気持ちはどうするんですか?」
「だって、藍深さんが、柊のことが気になっているって言っても、柊が会いたくないんでしょ?
琉の彼女になれば、すべて丸く収まるじゃない」
「『気になる』って、聞いていないですよ、そんな話」
鮎里は呆れたと手を広げた。
「さあ、傷を見るから、背中を見せて」
傷の処置をしながら、鮎里は囁くような声で言った。
「ほんとに、ここの男は自分に自信のない男が多くて困るね。100%女が自分のことを好きだって確証を持たないと、行動できないんだから。当たって砕ける勇気もないんだ」
「それって、鞠斗の話ですか?」
「柊は、どうして、自分のことだと思わないのかな?」
「俺は誰にも好かれてなんかいないですよ」
「もう!この軟膏は、男に塗らせちゃいけないよ。もう保健室では塗らないから、自分で塗ってくれる人を捜しておいで。それから、このスケッチブックも自分で返しなさい」
そう言われて、柊は、鮎里に保健室からたたき出された。
スケッチブックを渡された柊は、いやでも、藍深に会わなければいけなくなった。
ため息をついて、ぼーっとしていると、廊下の向こうから藍深と琉が、話ながらやってくるのが見えた。
「琉の彼女にするように、根回しするか」
鮎里の言葉がよみがえって、柊は自分の顔が赤くなるのが分かった。
「おう、柊、もう退院したんだ。スケッチブックもありがとう。藍深ちゃんがスケッチブック貸してくれるって。
藍深ちゃん、データをスキャンしたらすぐ返すね」
琉は柊からスケッチブックをひったくると、KKGに走り去っていった。
廊下に、は藍深と柊の二人が残された。
柊は、五十沢の手に包帯が巻かれていることに気づいた。
「ゴメン、手の火傷は痛い?」
「いいえ?柊さんほどひどくないです。柊さんは背中いっぱい火傷しちゃったじゃないですか」
「いや、保健室を追い出されるくらいだから、たいしたことないよ。砂掛けて、火を消そうとしてくれたんだね。ありがとう」
「すいません。私が外に飛び出さなければ、柊さんは怪我しなかったんですよね。本当にすいません」
「いや、バリアの話をしなかった僕が悪いんだ。五十沢さんは、あそこから飛び降りて、捻挫もしていないんだ。運動神経いいんだね。僕が守る必要もなかったね」
言ってしまってから、柊は「しまった」と思った。
今までの柊なら、そのままにしてしまうところだったが、今日の柊は違った。
自分の言葉に傷ついた藍深を、しっかり見てから、自分の言葉を訂正した。
「違う。僕が守れなくて、情けなかったんだ。すいません」
「柊さんは、私のスケッチブック見ましたか?」
「ごめん。見た。というか、見せられた」
「黙って、描いてごめんなさい」
「俺の、しょぼくれた背中の絵?」
「そんなことないです。今まで私を、命がけで守るために飛び出してくれた人なんていなかったから。
嬉しかった」
柊は、また自虐めいたことを話しそうで、これ以上何も言えなかった。
そんな二人の邪魔をするように、スケッチブックを振りながら琉が戻ってきた。
「おーい。まだここにいたのか。スケッチブック、ありがとう。
藍深ちゃん、他の花火の絵も凄いね。もっと大きな絵にしたら見せて欲しいな」
(藍深ちゃんじゃねぇよ。気安く呼ぶな)
「柊、これから毎日保健室に行って、薬塗ってもらうんだろ」
「いや、薬貰った。自分で塗れって」
「そっか、じゃあ風呂上がりに俺が塗ってやるよ」
「駄目なんだ」
「え?」
「鮎里さんに罰ゲーム出された。薬は、女性に塗ってもらえって」
「しょうがないな、うちの妹に頼んでやろうか・・・・。いや、うそ。俺、急いでいるんだ。KKGにすぐ戻らなければならないんだ。じゃあね」
嫌らしい目配せを残して、琉が去った後、二人の間に気まずい空気が流れた。
「お詫びに、お薬を塗りたいところなんですが、どこで塗ればいいんでしょうか」
柊は後で、鮎里に「沈黙の花園」にあるバンブーハウスの正しい使い方を教えて貰った。
柊に春は来るのでしょうか。