海辺の少女
すでの登場している五十沢健太の妹、藍深ちゃんの話です。
南海トラフ地震が起こった6月11日に、桔梗小学校の体育館の天井が崩落してしまった。そこで桔梗小学校に避難していた人は全員、桔梗高校に避難してきた。桔梗高校の避難者は、現在当初の1,000人から100人にまで減っていた。
避難者の多くが、南海トラフ地震の被害を聞き、より安全なところで仕事を見つける方が得策だと考えたのだ。
山田一雄の両親も実家の秋田に避難して行った。雄太と三津は避難所の運営もしていたので、そのまま高校に残る道を選んだ。
榎田夫妻も、まだ小学校の子供が残っているので、避難所に残っていた。
同様に、高木美恵子先生は高校の生徒が一人でも残っている場合は避難しないと決めていたし、紅羽の父高木三太郎も、県庁で土木課の仕事に奔走している。碧羽も母と一緒に高校に残って、避難所の仕事をしていた。
「五十沢のご両親は福岡に行くんだって?」
碧羽は避難所の朝食の準備をしながら、五十沢藍深に話しかけた。
「はい。健太お兄ちゃんの大学が、福岡に移転するからって、うちの親は福岡に行きました」
「藍深も福岡に行くんでしょ?」
「行きませんよ」
「どうして?」
「うちの家族は、お兄ちゃん中心で回っているんです。今回も福岡で野球するお兄ちゃんを見たいからですよ。私の意見なんて誰も聞きません。それに・・・」
「それに?」
「うちに居候していた慎二叔父さんも、福岡に行くんです」
「どういうこと?」
「私、あの人気持ち悪いと思っていたんです」
「なんかされたの?」
「まだ。でも、お風呂に入る時とか着替えている時とか、なんか視線を感じるんです」
碧羽は細い身体の藍深を抱きしめた。
「そんな危ない人と一緒にいないでいいから。うちの家族と一緒にいよう」
「碧羽ちゃん、僕の朝ご飯は何時よそって貰えるんですか?」
技術員の大町に構われて、二人は慌てて朝の配膳を始めた。
「大町さんは、昨日は見かけませんでしたよね?避難所から出て行っちゃったんだと思っていましたよ」
「俺もそのつもりだったんだ。道も作り終わったし、避難している人も減ったからさぁ。でもね、実家に戻ったら、親戚がいっぱいいて、俺の居場所がなかったんだよ」
「そうですね。昨日のニュースで、東京も危ないって、言っていましたよね」
ニュースを見て碧羽は、久保埜の双子が、碧羽の東京行きを渋っていた理由が分かった。
「首都直下地震の対策を立てるため、東日本知事会が15日にあったんだって?
TVでは言わないけれど、SNSでは富士山も噴火するって話だよね」
「大町さん、富士山以外の火山も噴火するんですか?」
大町は少し考えて言った。
「入山規制がかかっているのは桜島。岩手山と浅間山もレベル2の噴火警戒レベルだよ。新潟県だって、新潟焼山は去年小規模だけれど、噴火したよね」
「詳しいんですね」
「俺の趣味はツーリングと登山だからね」
「実家も新潟なんですか?」
「んー。そうだね。ごめん。次の人の邪魔をしているね。いつもご馳走様。じゃあね」
次の人と言っても、最後は高木の母だった。
「藍深ちゃんも、毎日ご苦労さんね。南海トラフ地震後、少し配給が減ったみたいね」
「でも、高木さん。ここにいる人も大分減りましたから」
「そうね。藍深ちゃんのご両親も昨日出発されたしね」
「すいません。私一人残ってご迷惑ですよね」
「そんなことないわよ。野球部の子達も、陸上部も、バスケ部も残っているからね。人が少なくなって、教室で眠れるようになったら、体育館も使えるようになったからね。でも、梅雨も明けて、これから暑くなるわね」
「そうですね。外はとても暑いですよね」
そう言いながら、食事の後、藍深は毎日、海にスケッチに行くのだった。
今日は梅雨明け宣言があった翌日。この暑い日にも、藍深は砂浜でスケッチをしていた。
砂浜には、材木や外国製のプラスチック製品、津波の威力を思い知らせる巨石など、様々なものが打ち上げられていた。砂浜はものに溢れているのに、振り返ってみると、今まで浜風を防いでいた松林は綺麗さっぱり亡くなっていた。
その向こうには、1,2階部分が綺麗になくなった新興住宅地が並んでいる。
その中の1軒が五十沢家だった。そして道路を挟んで高木家があった。
2軒の家の間の道路で、兄の健太がよく山田一雄とキャッチボールをしていた。
高木家の庭にはバスケットリングがあって、姉妹で1 on 1をしていた。藍深はいつもそれを、塀の上に座って見ていた。
突然、紅羽がいなくなったことでこの風景は、失われてしまったけれど、藍深は、何時かみんなでまた集まれると思っていた。しかし、双方の家がなくなった今、その希望は叶わない。
どうしても、藍深の海の絵は暗くなりがちだった。
グウォン、グウォン、グウォン、グウォン・・・・
桔梗学園の方から、大きな機械音が聞こえた。
「誰かいますか?危ないですよ」
藍深は自分が注意されていると気がつき、急いで立ち上がった。勢いで4Bの鉛筆が転がり落ちてしまった。砂浜の瓦礫に紛れて、鉛筆はなかなか見つからなくて、うろうろしていたら、突然腕を捕まれた。
「危ないって聞こえましたか?」
「すいません。鉛筆を捜していて・・・」
顔を上げると、ゴーグルをつけた古田研究員がそこに立っていた。ガタイの良い古田は、新空調服ペルチェベストの上につなぎを着込み、革手袋をしてヘルメットを被っているものだから、一層大きく見えた。
藍深は見知らぬ男性に腕をつかまれたと思い、恐怖心で固まってしまった。
作業者の中から声がした。
「先輩。その子、恐怖で固まっていますよ。ごめんね。危ないから注意しただけだよ」
「ひどいな」
そう言うと、古田は外したヘルメットの中にゴーグルを入れて、砂浜に置いた。綺麗に切りそろえられた髪が方にはらりと落ちた。目を凝らして砂浜を捜して、鉛筆を拾い上げた。
「あー。鉛筆って、これかな?」
「は、はい。そうです」
「こんな暑いところで絵を描いていたら、熱中症になるよ。うお。いい絵だね。鞠斗といい勝負?いや、こっちの方が芸術性が高いかもね」
「すいません。お仕事中、邪魔ですよね。退きます」
「悪いね。君が一生懸命描いている風景を、変えちゃうね」
「何をしていらっしゃるのですか?」
「分別瓦礫撤去」
言葉の意味が取れずに、藍深は首をかしげた。
古田は、頭をかきながら説明を始めた。
「瓦礫は色々なものが混じっているよね」
「はい」
「そのまま集めてもまた分別しなきゃならないよね」
「はい、そうです」
「だから、最初から分別して集めているんだ。最初は、電池やガスボンベなど爆発しそうなもの。次にプラスチック。それから、流木。最後に鉄筋やコンクリを回収する」
「その機械で分別しているんですか?」
「今はAIカメラで、爆発しそうなものを取り出している。だから、そういうものが除去されていない浜辺は危ないんだよ。これから暑くなるから、熱で発火しちゃったら怖いだろう?」
「そうですね。すいません」
藍深は砂で足を取られたのか、ふらついた。
作業車のエンジンが止まった。中から、ペットボトルを持った栗田卓子が飛び降りてきた。
「先輩、この子、熱中症ですよ」
「そうだね。真っ赤な顔をしている。しょうがない、ちょっと早いけれど、昼食休憩のため桔梗学園に一端戻るか。保健室にこの子を連れて行かないとね」
スタンプのデータを確認していた卓子が、少し顔をしかめた。
「この子、五十沢健太の妹ですね」
「誰そいつ?」
「五十沢健太って、紅羽先輩を妊娠させて逃げた男ですよ」
桔梗学園の保健室で、藍深が目を覚ましたのは、それから2時間後だった。
今日の保健室当番は鮎里だった。
「おっ。目を覚ましたかな?五十沢藍深さん?」
藍深はまだはっきりしない目を開けて、起き上がろうとした。
「まだ、起き上がっちゃ駄目だよ。今、点滴打っているから、手も動かさないで。
駄目だよ。あんな暑いところで、一人でスケッチなんてしていたら死ぬよ。今日は、かなり暑かったからね。
梅雨明けは、身体が暑さに慣れていないから、水も飲まず、日陰にも入らず、スケッチするなんて自殺行為だよ」
「すいません。ここはどこですか?」
「桔梗学園の中の保健室だよ」
「今何時ですか」
「1時過ぎだね」
「いけない。昼ご飯の準備できなかった」
「桔梗高校の高木先生には連絡しておいたよ。さっきまでいらっしゃったんだけれど、昼食の後片付けが終わったら、また迎えに来るって」
「鮎里、いる?昼を持ってきたよ」
鞠斗が、鮎里の昼食を持って、保健室にやってきた。
「ありがとう。悪いけれど、患者がいるからそこに置いて」
鞠斗は保健室入り口の机に、鮎里の食事を置いた。そこには、藍深のスケッチブックが置いてあった。
鞠斗は何の気なしにそれをめくって、絵を見始めた。
食事の片付けが終わった高木先生が保健室に入って、入り口で立っていた鞠斗に挨拶した。
「すいません。五十沢さんの具合はどうですか?」
鞠斗はどこかで聞いた名前に少し記憶を探った。
「あ。高木先生、お久しぶりです。五十沢って・・・」
高木先生は、にっこり笑って、鞠斗に答えた。
「桔梗高校の『美術部』の生徒です。浜辺でスケッチしていて熱中症になったんです。すいません、こっちがよく気をつければ良かったですね」
碧羽も一緒に付いてきていた。鞠斗の顔を見て軽く会釈をして、衝立後方のベッドに進んで行った。
「藍深ちゃん。お昼残しておいたよ。点滴が終わりそうだね。先生、すいません。もう大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫ですよ。まだふらついていると危ないから、様子を見ながら帰ってください」
鮎里は一応、熱と脈拍を測って、帰宅を許可した。
藍深は静かに立ち上がったが、迎えに来た高木親子の顔を見ることはしなかった。
「これ、君のスケッチブック?」
「はい。ありがとうございます」
そう言うと、鞠斗から受け取ったスケッチブックを抱えて、藍深はうつむきながら、保健室を出ていった。保健室にいた児島医師が、鮎里に何やら耳打ちをした。
保健室を出て行こうとする碧羽に、鮎里が声を掛けた。
「碧羽さん、ちょっと残って貰えますか?高木先生、碧羽さんを借りていいですか?」
鞠斗は鮎里が何をするのかと、足を止めた。
それを目に留めて、鮎里は鞠斗に囁いた。
「話はすぐ終わるから待っていて。もう、患者がいないから、ご飯は一緒に食べよう?」
碧羽はその二人を、複雑な顔で見ながら保健室に戻った。
碧羽に話があるのは児島医師だった。
「引き止めてごめんね。碧羽さん。あの子は五十沢健太君の妹だよね」
「はい」
「高木家からすると、妹さんには何の感情も抱いていないの?」
「健太とお姉ちゃんのことは、もう済んだことです。藍深は私達姉妹にとって、幼なじみの妹みたいなものです。それに藍深は、健太がやったことについては知りません」
「そうかな?桔梗学園の人と接触する中で、『五十沢健太の妹』という言葉に悪意が込められていると感じられる出来事はなかった?」
碧羽は、久保埜姉妹と話した時のことを思い出した。実際は、今日意識が薄れる中で、卓子から聞いた言葉が、藍深の意識に残っていたのかも知れない。
「まあ、高木家の近くにいて、急に紅羽がいなくなったことに、自分の兄が関わったんじゃないかと、感じる出来事がどこかにあったのかも知れないね。さっき、あなた達、母子と顔を合せなかった様子などから見ると、正確には知らないにしても、藍深さんは何か感じているような気がします」
「それで・・・?」
「私があなたを呼び止めたのは、あの子が自殺しそうな兆候があるからなんです。私が精神科医として診てきた、自殺しそうな患者さんによく見られる特徴があります」
「え?」
今度は、碧羽が混乱しだした。
「藍深は、運動が得意な五十沢家の中で、一人だけ体育会系でなく疎外感を持っていたんです。彼女の絵の才能も、家族にとっては評価に値しないものだったんです。それに、ここだけの話なんですが、今同居している伯父さんから、性的な視線を送られていて、家族と一緒に福岡に疎開したくないって、こちらに一人で残っているんです。でも、私達自身が藍深の悩みの種になっているとしたら、彼女はどこにいたらいいんですか?」
「藍深さんはここに残って何がしたいのですか?」
「震災後の海を描きたいって言っています」
「でも、海はすぐ綺麗にしてしまいますし、街も一気に瓦礫を片付けてしまうので、『震災の記録』を残すのが目的で絵を描くのだと困りますね」
鮎里が口を挟んだ。
「まあ、当分、自殺しないように注意するしかないよね。他人が考えた人生の目的を押しつけても、人は受け入れられるものではないしね。
まずは、くたくたになるまで、身体を動かしてネガティブな考えをさせない。
2つめは、絵を描く時は、一人で海には行かせない。この辺りを注意してください。
それから、最後に、桔梗高校の中に、彼女を見守る協力者を作ってください」
碧羽は鮎里のサバサバした口調に、冷たい人だと思った。
「では、ありがとうございました」
「鞠斗、お待たせ」
児島医師が鮎里に声を掛けた。
「鮎里って意外、鞠斗の元カノに意地悪言っちゃうタイプなんだ」
鞠斗が据わる前に箸を取って、「いただきます」の姿勢に入った鮎里はきょとんとした。
「えー?あの子が鞠斗の元カノ?」
鞠斗はなんと言ったらいいのか迷った。
「まあ、元カノであろうとなかろうと、今何をしたらいいか迷っていそうだったから、やるべきことを3つに搾っただけなんだけれど。自殺は100%止めるのは不可能だから、一人で背負い込まないように話したのさ」
「そうだね。狼谷柊君の時は、みんなで夜一緒に泊まったなあ」
「柊も自殺しそうな時があったんですか?」
鞠斗を暴発事件で怪我させた時のことだ。鞠斗が知るわけはない。
「まあ、高校生はね、そういう危機が何度も来るんだよ」
児島医師は、まずい話をしたなと話題を逸らした。
「藍深ちゃんには何をさせようか」
鮎里は、ささみの揚げ物を頬張りながら考えていた。
「そうだ、瓦礫撤去の仕事をさせたら?」
児島医師も共感した。
「いいね。震災の復興の手伝いをさせることはいいかもね」
翌日から桔梗高校で、分別瓦礫撤去のバイトの募集が始まった。
次回も、藍深ちゃんの話です。