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全日本女子柔道選手権その1

全日本女子柔道選手権がついに始まりました。専門用語が多くて、柔道に興味がない方には申し訳ありません。

 応援団が、横浜体育館に着いたのは開場の1時間前だった。しかし、応援団の先頭にいる舞子の兄、悠太郎に聞くと「2時間前から並ばないと先頭にはなれない」との答えが返ってきた。

 蹴斗達は、大会前日に横浜体育館に納入する品と一緒に、選手授乳室の備品も運び込んでいたのだ。横浜体育館の地下には、災害対応用品が入る部屋があって、桔梗学園開発の発電機能付き災害用トイレの発注を受け付けていて、納入日を大会前日にして置いたのだ。


「うわー。大会1時間前なのに、すごい人ですネ」

オユンは鞠斗に話しかけた。鞠斗は誘導のために応援団と一緒に並んでいた。

「今年はオリンピックの翌年で、金メダリストが何人も参加しますから、取材も多いですね」


「あー、オユン。久し振り。今日は付き人にならないの?」

オユンに話しかけてきたのは、K大学所属の学生で、合宿の時友達になった学生だった。

「今日大会に出るナランツェツェグから、モンゴルのお菓子預かっていたんだ。『舞子さんや応援の皆さんで食べてください』って」

鞠斗が涼しい顔をして、菓子の袋をすっと受け取ってしまった。

「オユンは下に降りられないので、私が渡しましょう」

学生は何か言いたそうだったが、列に並んでいる人たちの冷たい視線を受けて、後ろの自分の列まで戻っていった。


「こういうことですネ」

オユンが悲しそうな顔をした。

「オユンは今までの調子で、スマホで連絡してください。逆に証拠になるから。この菓子は、神奈川支社で調べて貰います」


鞠斗は、弁当を運んできた九十九カンパニーの社員に、菓子を渡して調査を依頼した。この菓子には下剤の他、小さな盗聴器も仕掛けられていた。戦いは既に火蓋を切っていたのだ。



 開場と共に、観客は自由席を取るために走って行った。特に大学生は必死である。悠太郎も慣れたもので、九十九カンパニーの協賛企業席の正面に、楽々と10人分の席を確保していた。協賛企業席にはもう既に四隅にバリア用出力発生装置がセットされていて。桔梗バンドを持たない人を弾いていた。協賛企業席後方の通路には、紅羽と鞠斗がスーツ姿で立っていて、応援のメンバーにビブスを渡していた。


法被(はっぴ)じゃないんだネ」

オユンがそう言って、ビブスの胸を触るとそこには薄い膜がついていた。

「これ?もしかして」

紅羽がウインクをして、黙るようにとアクションをして見せた。

すべてのビブスの胸には、薄いディスプレイが張り付いていて、全員が座ると、1枚の大きいディスプレイになるようになっていた。


柔道場では、既に選手達がアップを始めていた。舞子も黙々とランニングをしていた。涼は付き人とコーチを兼ねるので、柔道着姿で道場脇に立っていた。TVカメラが、注目選手として舞子も追っていた。



「悠太郎、舞子に差し入れ持ってきたんだけれど、渡せないかな」

舞子の母勝子は、クーラーボックス一杯のお菓子やお握り、スポーツドリンクを持ってきていた。

「母さん。舞子が試合中、何も食べないのを知っているだろう?それに『歯に詰まる菓子は試合中気になるから嫌だ』って」

「でも、舞子が好きなものを食べさせてあげたいじゃない」

「今日は付き人が涼君だけだから、荷物を増やすんじゃないよ」


勝子は応援に来たら、娘に何かしてやらないと気が済まないようだ。

「でも、少しは食べるかも。舞子~。差し入れよ」

勝子はかなり大声で、1階の柔道場に声を掛けたが、イヤホンをしている舞子に声は届かなかった。

涼は立ち上がって手を振っている勝子に気がつき、悠太郎にメッセージを送った。

「九十九応援席の後ろに立っている鞠斗に、差し入れ渡してください」

「母さん、俺が応援席まで持って行って渡すから」

涼の母親、真理が立ち上がって言った。

「あらー。応援席の皆さんの分もあるのよ。私も持って行きます。応援の皆さんに挨拶に行かないといけませんよね。勝子さん」


舞子の祖父悠山がぼそっと言った。


「娘達が不要だといったものを、持って押しかけるんじゃない。挨拶も何も、あの応援席は会社の人間が仕事として座っているんだ。悠太郎一人で差し入れを持って行け」


母親達はうらめしそうな視線を悠太郎に向けたが、悠太郎はそれを振り切って鞠斗に差し入れを持って行った。当然のごとく、それも神奈川支社に運ばれていった。


 10時、入場行進が始まった。桔梗学園と九十九カンパニーで構成された応援団は、「前年度優勝 東城寺舞子選手」とのコールに盛大な拍手を送った。会場の人たちは、初めて見る九十九カンパニーの応援団に興味を持って視線を向けたが、双眼鏡を持ってしても、個人の顔が判別できない。そのことに疑問を抱いた人はいるが、そこで何をしているかははっきりしないというバリアだった。



「いやー。緊張した。久し振りの試合場で、足が震えちゃった。ここが授乳できるところ?すごいね。試合場は見えるけれど、向こうからはこちらが見えないんだね。冬月おいで、ママがおっぱいあげるから」


授乳しながらも、舞子の目は会場に釘付けだった。

「おい、舞子。乳が溢れている」

涼が呆れて声を掛けた時は、冬月の口から母乳が溢れ、バスタオルまで垂れていた。

「あっちゃー。柔道着はセーフだったね。涼はゲップ出させたら、先に冬月を下に運んでおいて」

そこで、二人は顔を見合わせた。

「冬月って、下に降りられないんじゃないの?」

盲点だった。いや、選手授乳室が許されるならいいのでは?しかし、選手授乳室については公にされていないので、階段に立っている警備の学生が通してくれないかも知れない。

すると、オユンが立ち上がって、舞子達のところへやってきた。

「涼、柔道着の左袖から腕を抜いてください。そう、上着の裾は帯から出さないで」

オユンのいう通りにした涼の(ふところ)に、冬月をすっぽり突っ込んだ。


「モンゴルの男性は、こうやって赤ちゃんを抱くんです」

柔道着の上前を少し下に引くと、中に赤子がいることなどほとんど分からない状態になった。

「いいね。このまま下に降りよう」


涼は何食わぬ顔で下の選手専用階に降りようとすると、まずいことにS大学のマネージャー下田苺香(しもだまいか)が、そこの警備に当たっていた。

「涼さん。お久しぶりです」

「ああ、こんにちは。合宿の時はお世話になりました」

「あれ、涼さん、左腕折ったんですか?」

「これは・・・」


「下田さん、久し振り。TYM以来だね」

「あー。柊様、久し振りですぅ」

振り返ると、ポロシャツ姿の柊が立っていた。そして、下田と涼の間に割って入った。

「下田さん、先にゲーム降りちゃったけれど、大丈夫だった?」

そう言いながら、涼の背中を押した。

下田は柊との会話に夢中で、涼が階下に降りていったことに気がつかなかった。



「ヤバかった。冬月連れてきたよ。圭、上で柊にあったんだけれど」

「うん。柊は今回の警備のスタッフに応募するために、T大学の柔道部のマネージャーになったんだって。大会終わったらすぐ辞めるらしいけれど」

「なんだ。びっくりした。でも有り難いね」

「うん。冬月を預かるよ。もう眠りそうだね」

「あれ?(あき)(しゅん)も連れてきたの?」

「冬月一人じゃ吸いきれない時のためにね。それに冬月がお腹空いたら、私の乳もあげるから」

「え?乳母(うば)になってくれるの?」

「そう、この子達は乳母子(めのとご)だよ。まあ、3人で一緒だと、冬月もご機嫌だしね」


部屋のモニターは、舞子の5試合前の試合が始まっていた。


【1回戦】

1回戦の相手は、長身で運動能力の高い上村朱里(かみむらあかり)だった。S大学応援団から大きな声援が飛ぶ。九十九カンパニーの応援団は不気味なほど静かだった。悠太郎と勝子の声だけが会場に響いていた。

「舞子―。頑張って」

「舞子、最初は慎重になぁ」

しかし、舞子の作戦は決まっていた。

上村の懐に体当たりをするくらい強く飛び込んで、相手がそれにたじろいて下がる瞬間に、相手の袖と襟を持って、一気に体落としに入った。180cmの朱里は、目の前から舞子が消えた次の瞬間、天井を仰いでいた。

「一本!!!」

審判は高々と右手を挙げた。

九十九カンパニーの面々は歓声を上げて、大きな拍手をした。


「息は上がったか?」

「まあまあ、交感神経全開になった」

「次の試合を見てから戻るか?」

「うん」


次の試合は警察選手権3連覇中の富山と、オオマツの山口との対戦だった。富山は130kgを越える巨体で山口を捕まえようとするが、山口はその伸ばした腕に、反則ギリギリの脇固(わきがた)めを掛ける。

富山もそれは折り込み済みだったので、腕を引くと、その瞬間を狙って山口が奥襟を叩いて、前に引きずり出す。富山が膝をつくと、山口はバックから腹固(はらがた)めをするべく、足で富山の腕を()き出そうとする。

富山が必死で腕を身体の下に隠すと、執拗に足を蹴り込んで腕を狙う。


「腕を狙っているんじゃないよね」

「ああ、耳を蹴っているよな」


「待て」がかかった時は、富山はあまりの耳の痛みに立ち上がれなかった。

警察から派遣されている監督の「立て」の怒鳴り声で、半泣きのまま、立ち上がるが、戦意はもう既になく、指導の累積で敗退してしまった。


「厭な試合だったね」

「寝技は背中を取られたらアウトだな」



そんな話をしながら、「選手授乳室」に戻ると、そこには平和な時間が流れていた。


「舞子さん。冬月見てください。寝返り打ちました」

越生(おごせ)保育士は、最近、一生懸命寝返りしようとしていた冬月がついに今日寝返りを完成させたので、報告したのだ。

「うそ。冬月、もう一回、ママに見せて」

冬月は折角うつ伏せになったのに、また仰向けにされてしまった。

「ふぇ、ふぇ」

泣いているのかというような声を上げて、部屋にいるみんなの応援を受けて、冬月はもう一度うつ伏せになり、重い頭を少し上げて、にやっと笑った。


「いいね。ママも寝技しようかな?」

「何考えているの?」

「秘密」



室内のモニターには1周試合が終わって、2回戦目の最初の試合が映し出されていた。第1シードの熊本は、K大のナランツェツェグに少し手こずったが、最後は見事な足払いで一蹴した。

「これから調子上げていきそうだね」

「ああ、相変わらず、痛そうな足技だ」


今年中学3年になった長崎美仁(みにー)も危なげなく勝っていた。

舞子が柔道場脇で、柔道着チェックを受けていると、第4シードの宮崎が声を掛けて試合場に入っていった。


「決勝で会おうね。そこまでに怪我したりしないでね」

「怪我せず、決勝に上がれるように祈っていてね」


2人の間に静かに火花が散った。


【2回戦】

舞子の2回戦の相手は、オオマツの山口光留(ひかる)だった。山口は右組なので、舞子とは喧嘩四(けんかよ)つ。腕関節を取られる危険性が高まる。

試合開始直後、舞子は突如として右組にスイッチした。涼と右組も練習を重ねてきていたのだ。これは喧嘩四つのつもりで、試合に臨んだ相手に大きなインパクトを与える。

山口は、ゆっくりと伸ばしてきた手を掴んで仕掛けようとしていたのだが、あっという間に舞子に左の奥襟を取られ、流れるような支え釣込足(つりこみあし)をやっとのことで耐えたところ、強力な大外刈りを食らった。勢いが強すぎて回りすぎて一本にはならなかった。しかし、舞子の狙いはその次だった。そのまま、山口の脇を救って、片羽絞(かたはじめ)に入った。山口は仰向けにされ、一気に絞められて、抵抗する間もなく落ちてしまった。

「一本、それまで」

審判は深く落ちてしまった山口を蘇生するのに、大分時間がかかった。

応援団も少し遠慮気味に拍手で舞子を称えた。



「上手くいったね」

「涼ほど上手くないけれどね」

「長野と森川の試合は、こりゃ延長戦だね」

長野と身長差20cmもある森川洋子は、執拗に長野を攻め続ける。組んでは投げ組んでは投げ、いい加減に長野が嫌になったところで、延長戦に入った。最後は森川が、長野の足を踵返(きびすがえ)しで取り勝利した。あまりに長い試合で、長野は最後、立ち上がることも出来なかったが、洋子はすっくと立って柔道着を直して礼をした。


「ゾンビみたいだね」

「ああ、長引くとやっかいだね」

「早く授乳しに行こう」

「そうだね。次は長いから」



「選手授乳室」に戻った舞子は、気持ちよさそうに冬月が寝ているので、暁と瞬をフットボールのように抱えて、授乳させて貰った。

「うー。効くぅー。圭はいつもこんな2人に吸われているの?」

「そうだよ。内蔵まで吸われるような感じだよね」


授乳が終わって、柔道着を脱いだ舞子は、その場で下着もすべて替えた。

「やだ。やっぱり始まっている」

「生理来ちゃったかぁ」

「新製品の能力が発揮されるかな?この下着だけで血液も尿も吸収する優れものです。ナプキンがずれる心配もない・・・」

「悪いけれど、ちょっと怖いんでタンポン入れさせて」

研究員は少し悲しい顔をしたけれど、お構いなしに、舞子はトイレに駆け込んだ。

「悪いね。出血も負ける要素なんだ。少しでも柔道着に漏れるわけにはいかないから」

涼が申し訳なさそうに言った。


講内(こううち)研究員がトイレに向かって声を掛けた。

「3回戦後マニキュアのチェックさせてください。小指と薬指がはげかかっています」


【3回戦】

 舞子が授乳をしている間に、第4シードの宮崎は、中学生の長崎美仁に敗れていた。

中学生とは言え、フランスのアグベニュー選手を思わせるバネとスキルを持っていて、アメリカ人とのハーフとは言うが、小さい頃フランスで柔道を始めたというのも、彼女の強みだろう。


泣きじゃくる宮崎を横目に見て、舞子は一層気を引き締めた。


3回戦は死闘だった。舞子は低い背負を掛け続ける森川洋子に手を焼いていた。かといって、足技はそれなりに効いていたので、指導が舞子に来ることはなかったが、疲れてくるとやってはいけないことをしてしまうものだ。洋子は「掛け逃げ」を2つ取られ、指導2まで追い詰められている。残り時間は2分もある。焦る必要はなかったのに、舞子は判断を誤った。

 涼と開発した新しい寝技を、洋子に掛けてしまったのだ。寝技は日進月歩。最初にT大学の森川先輩に見せた寝技を、寝業師の姉に教えないはずはなかった。

 

舞子は技を返され、現在天井を向いたまま抑え込まれている。柔道着をがっちりつかまれ身動きが出来なくなっている。


すると今まで静かだった九十九カンパニーの応援団が立ち上がった。全員の胸のディスプレイが光り、琉の顔が大きく映し出された。こともあろうに琉は画面の中で歌い出したのだ。

 

うっほ、うほうほ、うっほっほー

うっほ、うほうほ、うっほっほー

大きな山をひとまたぎ

キングコングがやってくる

・・・・


(え?何この歌、力ますます抜けちゃうじゃない。琉の馬鹿)

しかし、涼は歌の意図をしっかり理解した。

「舞子!ゴリラパワーだ。身体を左右に強く振れ」

舞子は言われるがままに、力任せに動いた。


ビリ、ビリ、ビリー


舞子の柔道着が破れる音がして、舞子の身体が自由になった。そのまま動き立ち上がる舞子は、さながらキングコングだった。


審判が、「解けた。待て」を宣言した。


押さえ込みは、19秒で危うく1本を免れ、柔道着の着替えのために、涼のところに向かった。涼は毎試合、着替えの柔道着を柔道場脇まで持ってきていた。その場で新しい柔道着に着替え、柔道着チェックを終えると、試合時間は残り1分だった。


舞子は乱れた髪を結び直しながら、ゆっくり開始位置まで戻った。

洋子は技有(わざあり)を守りながら、1分を逃げ切る気十分だろう。会場は前年度チャンピオンが負けるかも知れないという緊張感と、T大学と自衛隊の応援の声で、大盛り上がりだった。


「始め」

あっという間に舞子は、洋子を試合場のコーナーに追い詰めた。自分から場外に出ると指導2つ貰っている洋子の負けが決まる。しかし、舞子は洋子を押し出すことはしなかった。


「オール一本勝ちじゃなきゃ。楽しくない」


低くしゃがみ込むと洋子の脇をすくい、そのまま返して袈裟固(けさがため)に抑え込んだのだ。こうなると身体の小さな洋子は身動きが取れなくなった。


「一本それまで」


試合場を降りると、2人は次の試合を見ずに「選手授乳室」に駆け込んだ。


3回戦後は「(じゅう)(かた)」の披露があるので、20分は休憩時間が取れる。

部屋に戻ると、舞子は再び下着やタンポンを取り替え、珍しく栄養補給をした。

医師の診断も受け、Tシャツ、サポーターも着替えた。

そして、小指と薬指のマニキュアを塗り直した。

うつ伏せで手を伸ばして、マニキュアを塗っている間、涼に背中の、圭と晴崇に足のマッサージをしてもらった。


最後に疲労回復の針を打って貰って、休憩時間は終わった。

次は準決勝です。

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