応援団始動
やっと試合が始まります。
「今、公式HPに全日本女子柔道選手権の組み合わせが載ったよ」
舞子と涼、オユン、マリアが練習が終わって寛いでいるところに、紅羽がタブレットを持って駆けつけた。
「あー。まあ、予想通りかナ?でも、組み合わせは予想通りでも、予想しない人が上がることもあるかナ」
オユンはすぐ感想を述べたが、舞子と涼は組み合わせをじっと見つめて無言だった。
紅羽が心配して2人の顔をのぞき込んだ。
「厳しい組み合わせ?」
「紅羽、気にしないで、最近2人は口数が少ないの」
マリアがにっこりして答えた。
2人は組み合わせを見て、作戦を考え、サポートしてくれるみんなに共有しなければならない。監督やコーチがいないということは、すべてそれを選手自身がしなければならないと言うことだ。
「涼、汗の始末をして冬月を迎えに行って、今日はもう休もう。明日は対策案を立てて、2日後には、チームのみんなに提案しよう」
「ああ、分かった。今日は一緒に冬月を迎えに行かないか」
「そうだね。じゃあ、オユンやマリアも明日の練習の時に意見を頂戴ね」
舞子と涼は、空に浮かぶ三日月を見ながら、保育施設に向かって歩いていた。
「明日から4月だね」
「そうだね。去年の大会前と気分が違う?」
「うーん。ディフェンディングチャンピオンって、優勝をがむしゃらに狙うのと違うって聞いていたけれど、ここまで生活環境が違うと、どう違うか全く分からない」
「全くだな。桔梗学園に来て、結婚して、出産して、自分のチームを作って・・・」
「でもね。自分のチームを作って、自分で考えて試合できるって、ワクワクする」
「組み合わせを見ての印象は?」
舞子は昨年の優勝者だが、想像通り第2シードだった。第1シードはオリンピック金メダリストの、今年からオオマツ(株)所属になる熊本成美だった。第3シードは中量級金メダリ自衛隊所属濱口尚子、第4シードは合宿の時一緒だったS大学1年生になる宮崎牧子。関東予選を1位で抜けたのでシードに入ったのだろう。
「そうだね。決勝はもしかしたら牧子かも知れないね」
「俺もその可能性はあると思った」
そのくらい宮崎牧子の関東予選での出来は良かった。オール一本勝ちの完全勝利だった。
桔梗学園のスタッフはすべての地区予選の映像を集めてくれていたので、実際に映像を見た感想だった。
「熊本はオリンピック後、あんまり練習していないかも知れないしね。ただ、今年からオオマツ(株)所属だから、舞子の2回戦の山口光留は援護射撃してくるね」
「あの女は柔道が汚いからな。反則ギリギリを責めてくるよ。俺も、練習会で危うく関節を極めながら投げられそうになった。練習でそこまですることはないだろうと思ったけれど。それだけじゃなく、奥襟叩く時、結構相手の顔を平気で殴るよな」
「そうそう、あの人と試合した後、目の周りが青くなっている人多いわ。『ゴメン』って一応言うけれど、陰で『避けられないヤツが悪い』って言っているよね」
「3回戦は誰だと思う?」
「K体育大学の長野ルビーか、自衛隊の森川洋子かな?長野は兎に角、組み手がうるさいので、試合が長引きそう。逆に森川洋子はT大の森川先輩のお姉さんでしょ?あの人ベテランだよね」
「ああ、森川先輩が天才型なら洋子さんは努力型かな?低い背負投をしつこく掛けてきて、俺も1回肩から落とされて、鎖骨にひびが入ったことがある」
「それに自衛隊の訓練をしているから、すごいタフなんだよね。技に切れはないんだけれど、なかなか投げられない。私、あの人を投げたことないし。延長戦に入ってもスピードが変わらないし、パリオリンピック以降ルールが変わって、また足への攻撃が許可されたから、やっかいだね」
「俺だったら、洋子さんが一番嫌だな。でも、長野も黒人独特のバネで、内股で跳ね上げてしまうかも知れない。ただ、K大学の傳田監督は今はいないんだろう?」
「K大学のOGの羽田さんが指導しているみたい」
話をしているうちに、保育施設の灯が見えてきた。中を覗くと、保育施設では、冬月がちょうど、うんちのオムツを替えて貰っているところだった。2人は顔を見合わせて、親指を立てた。オムツ交換をドアの外で待ちながら、話の続きをした。
「そうそう1回戦のS大学3年になった上村朱里は?涼は合宿で乱取りしたでしょ?どうだった?」
「身長180cmで俺より背が高いから手も長いよ。今回の参加者で一番の長身で、懐は広い。
オユンから聞いたんだけれど、横浜で体験型のゲームをした時に同じチームだったんだって」
「ああ、鞠斗とオユンと3人で組んだんだよね。そして途中で脱落したって聞いた」
「でも、ゲーム中、片手でライフルを振り回してマーモットを全滅させたとか、やたらと逃げ足が速かったとか言っていたよ」
「ふーん?ただ、でかいわけじゃなく腕力と脚力を備えているのね。私と相四つなので、うっかりがっぷり組んで大外刈を受けると飛ぶってことね。今年大学3年生になるってことは伸び盛りだね」
「舞子さ~ん。おむつ替え終わりましたよ」
「ここで待っていたの、バレてる」
「すいません。遅くなって」
舞子はにっこり愛想笑いをしながら、冬月を受け取った。
舞子はもう眠くて温かい冬月を抱いて、1日の終わりを実感していた。自分を完全に信頼している冬月を抱いている時は、柔道のことをすっかり忘れてしまう。さっき、ほんの少し感じた不安も、すっかり忘れてしまった。舞子の第六感は結構当たるのだが、子育ての平和な日々で少し感覚が鈍くなっているのかも知れない。
翌日の練習では、組み合わせを見た感想をオユンとマリアと共有した。勝ち上がりの予想は概ね同じだった。ただ、S大学の合宿で乱取りした人については、もう少し体感的感想を教えて貰った。
それから2人は多くの映像を解析をしていてくれたらしく、第3シードの濱口の山にいるK大学所属、モンゴルからの留学生ナランツェツェグや熊本の1回戦の相手、全中3連覇中の長崎美仁も要注意だと教えてくれた。
未知の選手の情報は不安を誘う。今までは舞子の父誠二が対戦相手を調べていた。そして、予想が当たらない時は、根拠のない「お前なら大丈夫だ」という応援をした。しかし、何も考えなかった時代はそれで良かった。
「ふー」
舞子の大きなため息を涼は、聞き逃さなかった。
「100%の対策も準備も出来ないよ。『人事を尽くして天命を待つ』。舞子が負けて殴る父親もコーチももういないし、自分のためだけに戦えばいいんだよ」
「応援している人のためとか、家族のためとか考えなくていいの?」
「家族のため?スポーツって自己満足のためにやっちゃいけないの?
勝敗にかかわらず『楽しかった』で終われればいいんじゃない?
そもそも応援しているって言ったって、研究所の人は『いいデータが取れた』で満足する気がする」
「涼も変わったね」
「インタビューで『誰に感謝を伝えたいですか?』って聞くのって、おかしいと以前から思っていたから、変わったというわけじゃないよ。それに、勝っても手に入る仕事や名誉は、俺達に要らないからね」
「でも、舞子が勝ったら泣くでしょ?」
「多分ね」
涼はそっぽを向いて赤い顔を隠した。
「じゃあ、私の目標は涼を泣かすことにしようかな?」
「勝手にしろ」
組み合わせが決まって2日後、白萩地区の宿泊施設で「チーム舞子」の対策会議が始まった。今回の参加者は以前とは異なる。まず琉が当日参加できないので外された。柊も大学に進学するので外された。
また、オユンとマリアも当日は応援席にいるので外された。勿論、彼女たちと直前まで練習はするが、作戦の詳細は伝えないことになっている。
実は京から、オユンのスマートフォンに、上村朱里とK大学の選手数名と連絡を取り合っている記録があったとの忠告を受けたのだ。本人は意識していないかも知れないが、相手はただの友情で連絡をしているわけはない。それを考えるとマリアも含めて、この会議から外すべきだとの結論が出たのだ。
そこでこの会議に集まっているのは舞子と涼以外に12名。応援席担当紅羽と鞠斗。医師は陸産婦人科医師。久保埜外科医師。その他スタッフで蹴斗、晴崇、圭。研究員は柔道着を調整するソーイング部部長糸川。テーピング担当湊、マニキュア担当講内、データ収集担当笹木。それに冬月の面倒を見るため保育士越生甘菜。
勿論、桔梗学園が手薄にならない程度に、研究員が応援に行く。九十九カンパニー神奈川支社からも応援団が来ることになっている。桔梗学園の子供達も応援に行きたいと主張したが、研究の一環だからと一蹴された。勿論、桔梗学園の応援席には東城寺一家、榎田一家も座らせないことになっている。
今日の話し合いは、当日コーチ席に座る涼が司会をした。
「当日の日程はこのようになっています」
大型ディスプレイには、大会要項記載の試合進行が映し出された。
「試合前日は蹴斗が運転するドローンで、このメンバーと冬月で会場に向かいます。
自分と舞子は、試合前日の会議に出ます。夕方にマニキュアをお願いします。前日は練習をせず、ストレッチと軽いランニングだけします。
当日、試合前のテーピングが終わったら会場に向かいます。
開会式後、試合会場は一つなので、舞子の試合は開始から1時間以上先です。その間、冬月の授乳を終わらせます。最初の授乳は応援席で行います」
研究員や保育士越生は眉をひそめた。鞠斗が代わりに答えた。
「応援席には正面から見えないようなゾーンを1ヶ所作ります。応援席自体もバリアを張って、桔梗バンドがある者だけが入れる仕組みになっています。舞子は久し振りの試合なので、選手の様子を見て試合勘を取り戻したいそうです」
桔梗学園も外から中が見えないようなバリアが張ってあるが、それの簡易版ができたらしい。当然、舞子や涼の家族も入れないわけだ。ただし、当日は企業席ではないが、舞子の兄、悠太郎が2家族用の席を、別に確保する手筈になっている。
「1回戦目の対戦相手はS大学3年上村朱里、身長180cm、体重75kg、左組。がっぷり組んで大外を仕掛けてきます」
涼は2回戦目以降も対戦相手と、試合時間の予測を淡々と述べていく。
舞子の休憩時間と昼食時間、授乳時間の目安も表にして示していく。
「3回戦が終わると柔の型の披露があります。ここで15分は休めます。準決勝は試合後、10分の休憩があり、決勝です。決勝は8分間の試合。延長戦もあるかも知れません。試合後、すぐ表彰式。その後ドーピングです。試合後すぐは尿があまり出ないので、2時間くらいかかる場合もあります。冬月は申し訳ないですが、先に神奈川支社に戻し、ミルクと入浴させてやってください」
「舞子は、試合に向けて、ミルクの量を多くしたからね」
涼も意外だったが、圭の貧血の話を聞いて、舞子は冬月の授乳量を少しずつ減らし始めたのだ。勿論、完全に辞めるわけではなく、2回に1回はミルクでも大丈夫なようにするのが目標だった。決勝までに毎回授乳をしていたら身体が持たないことも考慮に入れての考えだった。
蹴斗達もその話を聞いて嬉しそうだった。
紅羽からは、「応援の練習は予定通り行われている」という簡単な説明がなされた。
「楽しみにしているよ」
「任せて、舞子の力が出るよう、研究員の皆さんと練習に励んでいるから」
「バリアを張っているけれど試合場から見えるの?」
「そこは蹴斗が調節してくれるらしい」
「蹴斗は、当日は情報収集以外の仕事もしてくれるんだ」
「男性軍には、会場役員の白いポロシャツの上に、企業から来た人に化けるジャケット、法被も用意してあるよ」
涼は、下見の時に手伝ってくれた柊と琉がいないことに、一抹の寂しさを感じた。
鞠斗が最後に口を開いた。
「応援団は新幹線を1両貸切にしたので、それで午後に出発してください。
宿泊は全員、神奈川支社にお願いしました。選手、スタッフ、応援団のすべての弁当も支社から持ってきて貰うことになっています」
「弁当は筍ご飯かな?」
「いや、なんか花見用の松花堂を用意してくれるそうです」
医師と研究員がガッツポーズをしている。医師達には緊張感がない。
「舞子は試合中あんまり食べられないんですが」
涼の言葉に鞠斗は涼しい顔で答えた。
「エネルギーゼリーなども用意してあります」
会の最後に越生が口を切った。
「私はどこに待機していたら良いのでしょうか?」
鞠斗がディスプレイに映像を映し出した。
「当日借りた部屋です。横浜市長経由で大会に圧力を掛けて貰って、『選手授乳室』を確保してあります。試合が始まるまでは、冬月は観客席で舞子に授乳して貰いますが、試合が始まった後は、冬月はその部屋に移動します。ベビーサークルも置いてありますので、いつもと同じようにそこで過ごして貰います」
「試合間隔が狭くなったら、そこが私の控え室になるのね」
「舞子は1回戦後はそこで休んで貰う。だいたい、舞子が観客席まで上がると、色々な人につかまるじゃないか」
「そうなのよね。私もむげに話を断れなくってさ」
テーピング担当の湊が言った。
「テーピングやサポーターのチェックもそこで出来ますね。糸川さん?」
「そう、汗まみれの柔道着もそこで着替えられます。舞子さんは嫌でしょ?毎回、ぐしょぐしょの柔道着を着続けるの」
「えー。そんな贅沢したことないから、分からないです」
「対戦相手によって、少しサイズも変えてあるし」
涼が確信犯的笑いを浮かべて言った。
「糸川さん、それは反則じゃ?」
舞子が慌てて口を挟んだ。
「いいえ?規定の柔道着の縫い目を解いて、少し位置を変えて縫い直しただけです。袖を絞る軽量級の人には、敢えて袖幅を広くしてみましたし、襟の厚みも敢えて薄くしてみました」
「公認の柔道着を使わなければいけないんだよ」
「はい。薄くするには何度も洗いましたし、2回くらい試合に使ったら、破けるくらい薄くしました」
舞子は柔道選手にはない発想に呆れた。
「まあ、この大会にはみんないい柔道着を着てくるからね。使い古しを着る発想はなかった。だから毎回着替えるのね」
「下着も吸水性があるものを用意して、汗も母乳も吸い取ったら、着替えるようにしました」
「うわ、贅沢」
「研究への協力ありがとうございます。後で感想を教えください。新型ポリマーです。通気性があって、濡れても蒸れない」
「オムツみたい」
「ショーツも用意しました。そろそろ生理が始まってもおかしくない頃ですから」
涼は、あくまで舞子を研究材料としてみている彼女たちが、不快ではなかった。それぞれのステージでみんな楽しんでいる。
「ところで、鞠斗この図を見ると、トイレも流しもシャワーまであるんだけど。こんないい部屋良く借りられたね」
蹴斗と鞠斗が顔を見合わせた。
「すべて運び込むんだ。このゾーンは選手以外立ち入り禁止なので、いったん入ったら出入りできないからね」
「モニターも運び込むから、試合の様子もよく見られるよ」
晴崇と圭がニヤニヤしていた。
彼らの笑顔からすると、どうもこれだけでないような気がする。
最近風邪気味で、なかなか話が進みません。(涙)