魔女と子供のはなし
人類の終末の日々、優しい人達が尊敬されることはなくなる、と魔女は子供に言った。すると、ある聴衆は笑って、そんなことありそうもないと言った。
ある聴衆は、笑って言った。
優しい人達は、尊敬される。それはのちの世にあっても変わることがない。
なぜなら、人間の社会は互いが助け合うことによって成り立っている。そして誰もが、愛し合った男女の間に生まれ落ちて育てられる。だから、どんな人だって愛されるのでなければ生きながらえることができない。だから、人は誰だって、注がれた愛情のぶんだけ相手へと感謝する。私的な利益ばかり追求するのではなく他者や社会の幸せに貢献しようとする生き様に対して尊敬をする。つまり、優しい人達は、尊敬される。それは、人間が構成する社会に普遍的な性質だから、変わらない。そんな当たり前の事実が、なぜわからないのか?
すると魔女は、子供に言った。
人類の終末の日々、人々は、感謝することや尊敬することを喜びよりも苦しみだと考えるようになる。栄光よりも屈辱だと考えるようになる。だから人々は、屈辱と苦しみを避けて、尊敬も感謝もしなくなる。
ある聴衆は、笑って言った。
感謝することや尊敬することが苦しみに転じるだなんて、ありそうもない。それは決して起こらない。
なぜなら、人が感謝するのは、愛されたことへの反応にすぎない。尊敬するのは、愛する人への反応にすぎない。つまり、自分の幸せを助けてくれた相手には感謝の感情が湧くし、人々の幸せを助ける人物には敬意が湧く。だから、自分の幸せを助けられて苦しみを感じる人なんて存在しない。優しい心を備えて生まれてきた人達の尊さを前にひざまずく喜びは失われない。愛することの価値を深く知る賢い人達を仰ぐ喜びは失われない。自らを生んだ親に感謝し尊敬することの喜びが変わることはないし、社会の上長に対してもその感情は変わらない。
すると魔女は、子供に言った。
人類の終末の日々、人々は、自分は自分の力で生きているのだと考えるようになる。他者からの愛情や善意に支えられて自分の幸せや生存が維持されているのだとは考えないようになる。
ある聴衆は、笑って言った。
他者からの善意に支えられることなくたった一人の実力によって生存を保てる個人など生じない。
今日私達が至ったこのバビロンの栄華を見よ。私達は野の獣よりも助け合うことによってこの栄華を実現した。私達はますます助け合っているし、その栄華はますます輝きを増している。
世に善意なくして、どうやって人は水を口にするのか? 親に愛を注がれずして、どうして乳児が生きながらえるか?
すると魔女は、子供に言った。
バビロンの栄華はつづかない。バビロンの栄華は今日を頂点として衰えていく定めにある。都市は法を築き、法は終末を約束する。王が今日発布したハンムラビ法典を見るがいい。人類の栄華は今日を最後に終末へと落ちていく。
ある聴衆は、笑って言った。
魔女よ、あなたこそハンムラビ法典を見なさい。
『強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように』
そう明記してある。私達の王は私達とともに私達の哲学と理想を、この宇宙の歴史に永遠に刻み込んだ。この私達の宣言が失われる日は来ないだろう。バビロンはこの理想とともに、今日を契機に永遠の繁栄を楽しむことだろう。
すると魔女は、子供に言った。
愛の美徳を謳った法律の文言は歴史的な文書として永遠に残る。それゆえかえって、愛の美徳そのものは人々の心から永遠に失われる。
ある聴衆は、笑って言った。
では魔女よ、あなたはまさか、私達の王が私達とともに発布した法を誤りだと言うのか?
すると魔女は、子供に言った。
私達人間は、私達人間の運命を変えることができない。人類の終末の日々がやがて来るが、その運命からは誰一人として逃れ出ることができない。都市が築かれ法律が書かれる必然を誰も変えることができない。しかしもし真実を言い伝えるなら、私達は私達の終末を目撃することだけはできるだろう。底なしに無知蒙昧へ落下していく都市市民達の姿を目撃することだけはできるだろう。
ある聴衆は、笑って言った。
私達のバビロンには今や、世界最高の知識と世界最高の知性が集っている。バビロンの市民ほど無知蒙昧から遠ざかった例は、過去にない。知識はますます築かれる。人類の知性はますます高まっていく。遠い天にある星々の明日の位置すら、今の人類にはすべて記述することができる。この都市の市民に、無知蒙昧と何の縁があるというのか? 都市市民達こそは、無知蒙昧と絶縁した人達ではないか。
すると魔女は、子供に言った。
明日の星の位置を知ることによっては、人は賢くはなれない。
今日をさかいに、孤児と寡婦は法律によって助けられることになる。人々は法律を経由して孤児と寡婦を助けていることになる。
そうすると、何が起こるか? 孤児と寡婦は、助けられることを権利だと思うようになる。市民達は、社会の一員としての責任を法律によって果たしたと思うようになる。すがるものなく、一人一人の相手の善意の程度がすべてを決めていた時代は、今日を頂点に終わりを告げた。
見ていなさい。王はやがて、自分が助けた人達の手によって地位と尊厳を剥奪される。人々は、法律の代わりに王を捨て、親に愛を乞わなくなる。愛の尊厳はなくなり、力だけが階級を定義する日々が来る。
ある聴衆は、笑って言った。
私達が自ら私達が敬愛する王をその地位から引きずり下ろすなど、ありえない。いかなる男または女が王の地位を継承するにせよ、バビロンのすべての市民にとって王は父であり母だ。そして、すべての孤児と寡婦は愛に庇護されて守られる。
すると魔女は、子供に言った。
人々が愛を乞わなくなり、王が地位を失うには、なお数千年がかかるかもしれない。しかしせいぜい数千年後に、その日々は来る。
『強者が弱者を虐げないように』書かれた今日の法律はその日、強者が弱者を虐げることを守ることになる。
ある聴衆は、笑って言った。
『強者が弱者を虐げる』ことを守る法など、誰が支持するわけがあるものか。そんなものを支持する人間がいるとすれば、ごく一部のわずかな強者だけだろう。ごく一部の強者達のための法が存在したとしても、それはただちに、圧倒的大多数の善良な市民の実力によって投げ捨てられることだろう。
すると魔女は、子供に言った。
私達のバビロンには今や、世界最高の知識と世界最高の知性が集っている。私達の知性と知識は同時に、世界最高の鋭さを備えた剣や世界最高の硬さを備えた盾を作り出してもいる。バビロンは、バビロンの実力によって守護されている。
そしてその道には、終わりがない。私達の持つ弓はやがて、遠く隔たった何十もの人々を正確に撃ち殺せるようになるだろう。何万もの人々を町ごと焼き殺せる神の矢を私達は作り出すだろう。
そのとき、神の矢を手にした国々には、それを手にしない町からの何万もの声が耳に聞こえなくなっていく。それを手にした一部の強者は、それを手にしない大多数の弱者の声が聞こえても平然と無視するようになっていく。
人間が人間に恨まれることを恐れた時代は、やがて終わる。裕福な人達が貧しい人達の感情を踏み潰して罪に問われない時代が、やがて来る。
ある聴衆は、笑って言った。
そんな恐ろしい非道を、天にいる神が許すはずはない。非道を行える力をもしも手にしたとしても、神の目に怯えて誰もその力を行使できない。
すると魔女は、子供に言った。
人類の終末の日々、人々は天に神がいるとは考えなくなる。
ある聴衆は、笑って言った。
私達人間の誰もが、神の実在を直観している。それは未来永劫普遍的であって、変わらない。
すると魔女は、子供に言った。
人類の終末の日々、人々は天に神がいるとは感じなくなる。
ある聴衆は、笑って言った。
もしも神が存在しないならば、この世界はいかにして始まったというのか?
すると魔女は、子供に言った。
この世界が始まった時代や始めた主体がいるのかもしれない。しかしだからといって、そんな大きな存在が私達人類や個々の人間を愛しているとは限らない。善良な人々の上に幸福を、罪を犯した人々のもとに罰を与えるとは限らない。現代の親の愛や王の愛に対する類推が、天にまで及ぶとは限らない。世界の創造は、勧善懲悪の運命と関係がない。
ある聴衆は、笑って言った。
ではなぜ、人間という存在は発生したのか? それではまるで、人類という存在が誰に愛されることもなく生まれたかのようではないか?
すると魔女は、子供に言った。
人類が存在することは、人類が愛されて生まれたことを約束しない。現代の親の愛に対する類推が、人類の発生にまで及ぶとは限らない。
ある聴衆は、笑って言った。
それではまるで、人類がいつか終末を迎え破滅の中で滅亡していくとしても、悲しむ者などいないのだと言うようなものではないか?
すると魔女は、子供に言った。
人類の終わりを悲しむ人間がいるかもしれないが、だからといって、人類ではない誰かもそれを悲しむとは限らない。私達が生んだ子供達がいつか苦しみの中で滅んでいくとして、私達の悲しみに対する類推は、私達を生んだ者にまで及ぶとは限らない。
ある聴衆は、笑って言った。
では仮に、私達人類が宇宙の片隅に生じた孤児であって、都市や法律を整備しつづけ、やがて人の手によって神の矢を作るにまで至ったとしよう。だからといってなぜ、私達市民が、感謝することや尊敬することを喜びよりも苦しみに感じ、なおかつ優しい人達を尊敬することをしなくなるのか? まったく、ありそうもない。
すると魔女は、子供に言った。
さきほども言ったように、人類の終末の日々、人々は、自分は自分の力で生きているのだと考えるようになる。他者からの愛情や善意に支えられて自分の幸せや生存が維持されているのだとは考えないようになる。すでに、ハンムラビ法典が発布されているからだ。
ある聴衆は、笑って言った。
確かに、ハンムラビ法典はすでに発布され、今日をさかいに、孤児と寡婦は正義にしたがって守られる。しかし、弱者の幸福が愛情よりも法律によって守られるようになったからといって、愛情の価値は少しも減らないし、私達が愛を美徳とする事実も変わらない。私達の愛と正義は今日からますます発展していく。弱者は進んで社会全体に感謝することを楽しむし、社会全体は神や王を頂点とする社会的な上長に感謝することを楽しむ。愛つまり優しさが私達人類にとって永遠の美徳である事実は、揺るがない。私達は、心から尊敬できる対象を心から尊敬する楽しみを永遠に味わいつづけることだろう。
すると魔女は、子供に言った。
人の手によって神の矢が作られるにしたがって、法は、強者が弱者を虐げることを守るように変わる。私達の王が私達の名のもとに今日発布した法律はその日、孤児や寡婦を虐げる不正義のために使われるようになる。
ある聴衆は、笑って言った。
もしも町を単位として焼き払う武器が作られ、わずかな強者の利益のために圧倒的大多数の弱者の幸福が強烈に搾取される時代が来たとしても、私達は私達を愛さないその時代の王を敬愛しようとはせず、不正義によって虐げられる孤児や寡婦を目撃した市民の悲しみは、いかりとなって体制へ向くだろう。
なるほど、市民から体制へのそのいかりは、いわく神の矢によって脅されて屈従を強いられるかもしれない。しかし私達の胸のうちに備わった心の中までも力で脅して支配することはできない。私達は陰に陽に隙を突いて体制の改革のために挑戦し、そのために汗や血を流す愛ある人達を英雄と見なして心から称えずにはいられない。
不正義と非道に満ちた最低最悪の社会体制が実現されてなお、優しい人達が尊敬される現実は変わることがない。
すると魔女は、子供に言った。
人類の終末の日々、人々は、自分は自分の力で生きているのだと考えるようになる。感謝することや尊敬することを喜びよりも苦しみだと考えるようになる。栄光よりも屈辱だと考えるようになる。なぜなら、法律は変質して愛の尊厳はなくなり、力だけが階級を定義する日々が来るからだ。
神の矢が階級を定義する時代が訪れ、生き残るために不正義に屈従した人達だけが生き残る。そのとき、邪悪を正義と呼び、虚偽を事実と呼び、非道を愛情と呼ぶことを受け入れた人達だけが生き残る。口が正直にしか動かない人種は淘汰され、嘘を平然と吐ける人種ほど生き残ることになる。
そのとき、人々は、社会的な上長に対して、感謝をしているだとか、尊敬をしていると言う。
その人達が、社会的な地位が自分よりも貧しいと思った相手や人々に対して、感謝の感情や尊敬の感情をいだくことはない。社会的な上長に対してすら、論理的に見返りを見いだすのでなければ、感謝や尊敬などしない。権力と取り引きをする文脈でしか、彼らや彼女らは、「ありがとう」や「すみません」とは言わない。
感謝を表明すれば、自分のほうが格下だという隙を見せることになるから、「ありがとう」と言えば負けだとすら考える。心の中では誰に対しても頭など下げないことによって、自分の自尊心の平穏を完全に維持する。
表面では権力に対して頭を下げる都市市民にとって、心の中では頭を下げないことこそが、最も大切かつ不可欠な処世術になるのだ。
そうして、都市市民がする尊敬は嫉妬に置き換えられていくから、王権はいつか引きずり下ろされて消えてなくなる。彼ら彼女らが力つまり金銭以外を権威つまり美徳に数えることは起こらなくなる。市民は体制の腐敗に挑戦するよりもむしろ積極的に加担することになる。
だから、人類の終末の日々、優しい人達が尊敬されることはなくなる。
ある聴衆は、笑って言った。
なるほど、状況によっては、権力は人の心の内までも支配しようとするのかもしれない。そこにおいて生き残るために、虚偽を事実と言い不正義を正義と言う必要性に迫られることがあるかもしれない。そんな社会においては表面上、力や金銭だけが美徳だと称される事態に陥るのかもしれない。
しかし、そこまでの逆境に置かれたとしても、愛こそが人間社会の美徳だという真実を人の心が忘れることは起こらない。人間の心というものは、そこまで愚かではないし、そこまで邪悪ではないし、そこまで弱くはない。
すると魔女は、子供に言った。
今日からほんの少しずつ、賢く善良で強い人達から死んでいく。それによってやがていつか、人類の終末の日々が訪れる。そのとき、愛こそが人間社会の美徳だとは少しも感じない人達が、社会の大多数にまで増加する。そのときに至って、人類の運命を変えることは誰にもできない。男達も女達もみな心から、力や金銭こそが美徳だと信じて疑わないようになる。優しい人達こそを尊敬すべきだという普遍的な事実が、ついに忘れられる日が来る。
ある聴衆は、笑って言った。
まったく仮にそんなことがいつか現実になるとして、そんな残念な情報に何の価値があるのか? 時代に流され、真理に盲目に生きることがせいぜいの幸せだという状況になるのではないか? 魔女よ、あなたはなぜ、罪のない子供にそんなことを教えようとするのか? それは悪意でしかありえないのではないか?
すると魔女は、子供に言った。
人類の終末の日々が訪れてなお、偶然に知能に恵まれた子供達や、偶然に良心に恵まれた子供達や、自分の心を守るための優しい嘘に屈することのない強い心に恵まれた子供達は、生まれてくる。賢く善良で強い人達は、限りなく少数に数を減らしつつもなお必ず存在する。
そんな彼ら彼女らは、優しい人達を尊敬する。優しい人達を尊敬することを、当たり前のことだと感じるし、やめないし、やめることができない。
それに対して、その時代の社会は、力と金銭こそが権威である思想を受け入れて逆らわないように要請する。出会う誰もが、優しい彼らの異端の思想をあざ笑う。いたぶって殺しすらする。
そこにおいて、世俗主義と権威主義によって、自尊心がゼロになるまで嘲笑された子供達は、自分の尊厳に不安を感じるかもしれない。自分一人が狂人にすぎないのだと、自らの理性の妥当性に疑念を感じることがあるかもしれない。
しかし、誰一人に認められず死ぬことになっても、愛こそを美徳に数えたあなたの思想は完全に正しい。その証拠に、愚かで邪悪で弱い人達の吐く言葉は論理的な不整合に満ちているが、歴史的な事実はかくも整合した論理によって記述できる。自分に優しい嘘に負けない強い人達は、その時々のためのでまかせに頼る必要がないからだ。
ある聴衆は、笑って言った。
私達のバビロンの末路がそんなみじめなディストピアだとしても、それは何千年ものちのことだろう。
すると魔女は、子供に言った。
何千年ものちのその日は、すぐに来る。