なぜ人は、読解力が落ちるのか。
私の読解力は53万である。そんな人類の叡智の集合体足る最強痴性体である私が、この度読解力とは何なのかという所を考察し、その内容をまとめてきた。愚かな人類は我が明晰たる論述にむせび泣き5000兆円を寄与すべきである。
さて、結論から申し上げると、読解力が低い者に共通しているのは、恐らく「決めつけが激しい」という点ではないだろうか。
読解において最も重要なこと、それは文章、及び作品の内容に対する考察・分析である。そして考察において最も重要なことは、決して自分が出した結論を決めつけないという理性である。
当然であるが、究極的な事を言えば、作者の気持ちや考えというのは読み解けない物である。これは人間の心理・感情・思考を、本当の意味で完璧に把握することはできないという、当然の原理原則から来ている。
すなわち、我々にできる読解はあくまで「推察」以上の領域を出ない。となればだが、当然、その先に決定的な結論を導き出すことは不可能であり、どれほど理路整然とした筋道を立てようと、それは「仮説」の域を出ない物となる。
そしてこと読解においては、その「仮説」とは「解釈」と同義である。
人間は多種多様である。私がここでスッポンポンになったとして、それに対し誰がどのように思うのかと言うのは無限の可能性がある。それこそ我が汚らしい姿に警察を呼ぶ者もいれば、人生を台無しにしてまで己の欲望を満たそうとするその猛々しさに畏敬の念を感じる者もいる(?)。
これと同じくして、解釈とは人により大きく変わってくる物である。そしてどれほどの解釈があろうと、作家の意図とは作家本人が持っている物が絶対であり、そうなれば当然誰も正解を導き出すことは不可能である。
読解力の高い者ほどこの原理をよく理解している、と私は感じる。何事もそうであるが、しっかりとした考察を織りなす者ほどどこか断定的な言い回しをしないものである。
他方で、読解力の低い者ほどなぜか自らの解釈を絶対であると断定し、声高に叫ぶ。例えば私のOCHINCHINは15㎝であるが、この文面はあくまで私が下品であるが故の軽い冗談のつもりで書いた文言である。私がそう言っている以上これ以上の結論は出ないのだが、読解力の低い者はこれに対し、
「嗚呼、この意地汚い男は己のOCHINCHINが日本人の平均よりかは大きい事を理解し、その上でそれを自慢しているのだ。なんとも浅ましい。使いもしない愚息をそのような手段で慰めようとは、彼はきっとどこまでもはしたない異常独身男性に違いない」
というような解釈をする。
困ったことに私が浅ましく意地汚い異常独身男性である点は正解なのだが、しかし、私は先のOCHINCHINの文面にこのような内容は一切描いていない。
そも、日本人のOCHINCHINの平均などどれだけの人が知っているのか。男なら気になって調べた人も多いだろうが、他方、女性であればそもそも知らない人の方が多数派の可能性とてあるだろう。ちなみに私が知り得る限りのデータでは平均は12㎝程度らしい。
ところでだが、先の文面には日本人のナニの平均など一切出ていない。つまるところ、このような読み方をした者は、「文面に書かれていること」ではなく、「自らが持っている知識」を基に私の文面を解釈したのだ。
よくよく読解力の低い者ほど文面に書かれていない事柄を読み解くとは言うが、恐らくはこういうことであろう。この「知識」は他の物に置き換えても良いだろう。例えば経験であったり、あるいは自らの中にある偏見、価値観、思想……。読解力の低い者、あるいは低くなった状態であればあるほど、なぜかそうした自分の頭の中にある何某から解釈を引っ張り出してくることが多いように感じる。
まあそもそもだが、どのようにして私が浅ましい異常独身男性であることを先の者は把握したのかという点が気になる。きっと常日頃から私の日常を観察しているストーカーなのだろう、そう考えるとえも言われる高揚感が私の身を包み、幸福度が高くなったように感じる。ちなみにこれが決めつけである点は言及しないでいただきたい。
さて。先は「読解力の低い者ほど文面に書かれていない事柄を想像する」と書いたが。しかし実のところ、読解において、「文章にて明言されていないことを補完する」という能力は重要となる。
例えばだが、この一連の駄文にて、一番最初に書かれた文章は「私の読解力は53万である。」である。他にも「人類の叡智の集合体」だの「最強痴性体」だの、やたらと大仰な言い回しの物が多いが、これら一連の文面を見ると、あくまで私がこれらの事柄を冗談のつもりで書いていることが読み取れるだろう。
そも、私の〇〇は53万です、とは、某有名漫画に登場する名台詞だ。この文面を見ただけでこの前提知識がある者はその辺りを把握することができ、となれば、やはり質の悪いパロディであることが察せられる。
他にも、5000兆円などのぶっ飛んだ数値や人類最強など規模がクソデカな単語を見るに、やはりこれらもジョークであるというのが理解できるだろう。ハッタリは大きければ大きいほど現実感が無くなる。これが例えば「クラスで一番」だとか「そこそこの年収を貰っている」だとか、絶妙にありそうな文言であればいまいちジョーク感が薄れ反感を覚える内容となっていただろう。何を自慢していやがるのだコイツは、と。先のOCHINCHIN15㎝がまさにその代表例だろう。
他方として、これらはあくまでニュアンスとして醸し出しているだけであり、決して文面にて明らかにしている物ではない。そう、これらの文言は全て「文章に書かれていない事」なのだ。
先述した通りだが、私がこれらを冗談と言った以上、それは冗談と言う結論以外出せない物となっている。が、読解力の低い者は、先の文言に対して「コイツは自分の事を世界最強の生命体とでも思っているようなどこまでも自己中心的でナルシシズムの強い人間である」と解釈する(かもしれない)。
どちらも同じくして文面に書かれていない事を読み取っているわけだが、さて、この差は一体どうして生まれるのだろうか。そしてその答えこそが、私が思うに、「考察力の違い」なのである。
まずだが、最初に53万云々が書かれてカチンと来たとしても、ふと冷静に思い返せば、「普通、常識のある人間がこのような大げさな言い方はしないであろう」と察せられる。そうとなればこれは明らかに冗談であることが推察され、そこまでを導き出せていれば「なーんだ」で終わってしまう。
他方、決め付けてしまう人は、そこで「ふと、冷静に思い返す」という事ができないのだ。
もしかしたら別の解釈があるかもしれない。もしかしたら自分の認識が間違っているのかもしれない。読解力の高い者ほどこの謙虚さがどこかに垣間見え、そして低い者ほどなぜかこの辺りが横暴となる物である。
そして往々にして、衝動的な人間、理性と言うブレーキが働きにくい人間ほどやたらと攻撃的な罵詈雑言を並べる物である。これはそも、人間と言うのは自らに都合が良く、どんな人間もまず真っ先に頭の中に浮かべるのは自分にとって都合の良い結論ばかりであるということ(といっても自尊心の著しく低い者はこの限りではないが)、そして理性の低い者ほど「相手が傷つくかもしれない」と考えるこの一手を取れないということが関係しているのであろう。
これを読んでいる方々も、思い返せば、明らかに異様な解釈をしている者ほど性格に問題があるなとどこかで思っているのではなかろうか。まあ、知識不足などにより解釈の仕方が変わることも往々にしてあるので、読解力が低い=乱暴である、と結論付けるのも早計であるが。
ちなみにだが、知識不足(など)が理由となっているのか、本人の性格に問題があるかは、別の解釈や考察を示してみるとわかりやすくその違いが表れてくる。例えばだが、そうした物を示された時、単なる知識不足が由来であれば「ああ、そうなのか」で済む話であり、謝るなり感謝するなり納得するなり、何かしらのアクションが起こるものだ。他方、本人の性格に問題がある場合、このような人は自らの解釈にしがみつき、他の解釈や考察を認めず一蹴する。
あくまで認めないことが重要であり、そこで「私はこう解釈した」と並べる者に関してはこの限りではない。だって、そうしたオタク語りをしたいと思うのは、我々の本能とも言える生態ではないか。ケンカ腰であればまた話が変わってくるのだが。
最後、これにまつわる私の恩師の言葉を紹介する。
「感情的に文章を読むと、読解力が下がる」
私の恩師は国語の教師であり、高校三年間の私の国語の授業を担っていた(不思議な巡り合わせだが)。彼のこの言葉は今でも私が文章を読む際に頭の片隅に入っており、現在に至るまで非常に役に立っている。
以上を持ってこの考察を終了とする。あくまで私の考察の域を出ない物であり、こうだと決めつけているわけではない点をもう一度明記して終わりとする。
私の駄文に付き合っていただき、誠に感謝する。おちんちんびろ~んwwwwwwwwwwwwwwww
あくまで個人の一意見なので喧嘩しに来ないでね。お姉さんとの約束だよ。