もう、諦めたりしない。
※若干の暴力表現があります。(本当にちょっとだけ)ご注意下さい。
読んでいただきありがとうございます。
財布……入れた。
下着と着替え三着……入れた。
非常食セット……入れた。
いざという時の換金用宝石……入れた。
そして何より、一番大事な身分札……は、既にネックレスにして首から掛け、服の下に隠している。
昨夜作った持ち物リストから抜けが無いのをもう一度確認して、窓枠に足を掛ける。少し前に作って隠して置いた繋ぎ合わせたシーツを手繰りながら慎重に屋敷の外に出る。
一ヵ月程前から、昼間の内に何度か練習していた甲斐あり、物音ひとつ立てることなく無事に地面に到着することが出来た。
時刻は深夜二時を回っている。雇われた門番もそろそろ気が緩む時間帯だろう。大きな音さえ立てなければ、彼らに見つかることはない。
周囲を警戒しつつ、屋敷の裏手に回る。
以前から屋敷を囲う塀の一部、煉瓦が外れることに気付いていたが、敢えて報告することはせずに放置していたのだ。そのお陰で、慎重にずらした煉瓦の隙間から難なく敷地の外に出られた。
脱出した後、穴が発見されないよう煉瓦を元の位置に戻してから、最後にもう一度、屋敷を見上げる。
この世に生を受け十七年。
先日、漸く目標が金額貯まった。
ずっと暮らして来たこの家に、ミリアナが戻ることはもう無い。
さようなら、お父様。
さようなら、お母さま。
さようなら、ユリアナ。
呟いたミリアナは、自分でも気付かない内に笑っていた。いつしか笑うことを忘れた少女の、数年ぶりの笑顔だった。
服についた土を払い、外套に身を包んだミリアナはそれ以降、後ろを振り返ることは無かった。
◆◆◆
とある伯爵家の長女として生まれたミリアナには、美しい妹がいた。名前はユリアナ。
二つ年下の彼女は、父譲りの茶色い髪と瞳を持つ平凡な姉とは反対に、母の血を色濃く受け継いだ金色の髪と紫の瞳をした妖精のように美しい少女だった。
ミリアナの両親は、何かにつけ妹のユリアナを優先した。
ユリアナが生まれる前は、確かにミリアナに愛情を注いでくれていた筈の両親は、気付けばユリアナだけを溺愛し、ミリアナを蔑ろにするようになった。
積極的に虐待することは無かったが、とにかくミリアナに関心が無い。
主である両親の態度は使用人にも伝染する。
結果、ミリアナの味方をする使用人はおらず、それなりに広い屋敷の中で、ひとりぼっちで過ごすことになった。
それでも、ユリアナが小さかった頃はまだ良かった。
たとえ両親の愛情も関心も根こそぎ奪っていった妹でも、ミリアナにとってはたった一人の血の繋がった可愛い妹だ。
嫉妬する心がなかったわけではないが、それでもミリアナはユリアナを愛し可愛がった。
事情が変わってきたのは、ユリアナが物心ついて来た頃――ちょうど、五歳位だっただろうか。
ユリアナがミリアナのドレスを欲しがった。誕生日に買って貰ったばかりの、お気に入りのピンクのドレスだ。
妹に優しいミリアナも、流石に眉を下げた。
普段から毎日のように色々な物を買って貰っているユリアナとは違い、ミリアナの持ち物は少ない。
それにユリアナにドレスを譲ったところで、七歳のミリアナのドレスは五歳のユリアナの身体には大きすぎる。ドレスが着れるようになる頃には、流行から外れてしまっているだろう。
伯爵家は特別裕福でも無かったが、溺愛する末娘にドレスひとつ買ってやれない程困窮しているわけでも無い。
困ったミリアナは、両親に助けを求めた。
しかし返って来た言葉は「ユリアナに譲ってやりなさい」だった。
ミリアナは泣く泣く、ドレスを譲るしかなかった。
地獄が始まったのはそれからだった。
生まれてからずっと優先されてきたユリアナは、両親の愛情を奪うだけでなく、ミリアナの持ち物を奪い取ることに執心し始めた。
「いいなぁ。お姉ちゃん、それちょうだい」
いつしかそれがユリアナの口癖になり、ユリアナの周囲はいつしかかつてミリアナの所有物だった物で溢れていった。両親はそんなユリアナを窘めることは無く、ミリアナは何事にも執着しない性格になった。
成長した今ならわかる。
物にも人にも、思い入れを持たないことで幼いミリアナは自分の心を守ろうとしたのだ。
ユリアナの悪癖は改善するどころか、時間と共にエスカレートしていき、その様子は伯爵家の内情をよく知らない周囲でさえ眉を顰める程だった。
それでも、ミリアナがユリアナを憎むことは無かった。
隣の芝生は青く見えるものだ。他人の持っている物が自分の持ち物よりよく見えることはミリアナにだって経験がある。
だから、出来たばかりのドレスを奪われても、お気に入りのブレスレットを奪われても、新しく雇ったばかりの専属侍女を奪われても、大事に飼っていたペットの金糸雀を奪われても、黙ってユリアナに譲って来た。
だってミリアナはユリアナのお姉ちゃんだから。
「真実の愛を見つけたの。だからお姉様、ライ様をユリアナにちょうだい?」
たった一言で長年の婚約関係にあった幼馴染の伯爵家の次男を奪われた時も、妹が彼のことを好きなら仕方ない、と諦めた。
どうやら自分の認識が事実とは違ったらしいとミリアナが気が付いたのは、三人目の婚約者を奪われた時だった。
元々、両親の間には、ミリアナとユリアナの姉妹しかいない。この国では基本的に男児しか爵位を継げないので、伯爵家の長女であるミリアナが婿を取って家を継ぐ予定だった。
しかし、幼い頃に婿養子として選ばれた近くの領地の伯爵家の次男は、派手で美しいユリアナに迫られると、あっさり陥落した。
(ユリアナはああいう男の人がタイプだったのね。)
ミリアナ自身は、婚約者だった伯爵家の次男のことは嫌いでは無いが、特別好きというわけでもなかった。
彼の両親は平謝りしてくれたが、息子が婿養子に入って伯爵位を継げるのなら、相手がミリアナでもユリアナでも構わない、という本音は透けて見えていた。
普通の貴族家なら、姉の婚約者を寝取るというユリアナのふしだらな行いは問答無用で修道院送りにされてもおかしくないのだが、両親はむしろ無関心を貫いてきたミリアナではなく、溺愛するユリアナが家に残ってくれる、と大喜びだった。
正直言って、当主教育どころか淑女教育もまともに身に着けていないユリアナが伯爵家を継いで大丈夫なのかという不安はあったが、ミリアナとしては、妹が彼のことが好きで二人で家を継ぎたというならそれはそれでいいか、という気持ちだったため、ミリアナは大人しく受け入れた。
ミリアナの婚約者を奪っておきながら、両親はミリアナに新しく婚約者を宛がう動きはなかった。
これはもう、自分が何処の貴族家に嫁に行こうと、平民と結婚しようと、独身で職業婦人を貫こうと、何をしてもいいということなのだろう、とミリアナは考えた。
婚約者と未来の伯爵夫人の座を失った代わりに、自由を得たのだ。
それからのミリアナは、両親もユリアナもいない学校で今まで以上に積極的に人間関係を広げることにした。同じ学校に通う元婚約者は差別意識、選民思想が強く、ミリアナが他の令息や平民と交流するのをよく思わなかったため、表立って交流を持つことは憚られていたのだ。
婚約解消してから半年が経過した頃、同じ学年の令息から告白された。子爵家の嫡男で、元婚約者とはタイプの違う、穏やかで優しい人だった。以前からミリアナのことが気になっていたのだという。
少し悩んで、ミリアナは彼の告白を受け入れることにした。彼となら穏やかな家庭が築けそうだと思ったからだ。互いの両親にも挨拶し、卒業後は彼と一緒に子爵家を支えていくことになった。
一か月後、彼の隣にはユリアナがいた。
「お姉様、エイドリアン様をユリアナにちょうだい?」
「ユリアナ、貴方、ライ様はどうしたの。真実の愛だと言っていたじゃない」
「ああ、あれは間違い。ライ様は真実の愛の相手ではなかったみたい」
「伯爵家はどうするつもりなの?お父様もお母様も貴方が家を継ぐのを喜んでいたのに」
「それなら問題ないわ。エイドリアン様がウチに婿にくればいいのよ」
「………エイドリアン様は子爵家の跡継ぎよ。ウチに婿入りすることは出来ないわ」
「ふふ、それも大丈夫よ。エイドリアン様の弟が家を継いでくれるって。子爵と夫人も伯爵家に婿入り出来るってとっても喜んでらしたわ」
まさか、ミリアナに一言もなく既に子爵夫妻に会って勝手に話を進めているなど思ってもいなかった。
信じられない面持ちで、ユリアナに腕を取られている自分の婚約者に視線を向けるが、彼は俯いたまま最後までミリアナと視線を合わせることは無かった。
ミリアナは胸の中で育っていた筈の彼を慕う気持ちが、急速に枯れていくのを感じた。
結局、ユリアナの希望は今度もまた叶えられた。
(それにしても、ライ様とエイドリアン様は容姿も性格も、全くタイプが違う二人なのにユリアナはどうして彼を好きになったのかしら?)
胸の内にもやもやした気持ちと疑問を抱えながらも、ミリアナは子爵家の彼とは縁が無かったのだと思い前に進むことにした。正直言ってもう貴族の男はこりごりだ。
暫く結婚も恋愛も御免だと思っていたミリアナは、しかし、その三か月後恋に落ちた。
気晴らしにお忍びで街に下りた際、しつこい男に絡まれていたミリアナを助けてくれたのが切っ掛けだった。
相手は平民出身の年上の騎士だ。ミリアナの周りの貴族令息にはいない、がっちりした筋肉の持ち主で、精悍な顔立ちと野性味溢れる雰囲気は近寄りがたいが、実際に話してみると明るく楽しい人だった。自分が元婚約者ふたりにうっすらと抱いていた好意は、せいぜい親愛止まりだったのだと、彼に会ってミリアナは初めて知った。
学校が休みの日や空いた時間に逢瀬を重ね、五回目のデートで告白された。
彼には、ミリアナの家庭環境もこれまでに二回程婚約解消した傷物であることも全て包み隠さず話した。
その上で「結婚を前提に付き合って欲しい。一生大切にする」と言ってくれた。夕日に照らされる中、涙を流して頷いたミリアナに、彼は優しく口付けた。初めてのキスは、涙の味がした。
騎士爵は、騎士を辞めたら返上するものだ。だから彼と結婚するということは、ミリアナが貴族籍を捨てるということだ。それでも彼と結婚出来るのなら平民になっても構わなかった。漸く、愛し愛する人に巡り合えた喜びを噛み締めたミリアナはこの時、間違いなくこれまでの人生で一番幸せだった。
彼と交際を始めて半年が過ぎた。交際は順調だったが、二回も婚約者を奪われたこともあり、積極的に恋人を紹介する気にはなれなかったミリアナは、伯爵家の家族に彼のことを話していなかった。
彼とは学園卒業と同時に結婚し、彼が亡くなった父親から引き継いだ家で二人で暮らす予定だ。
どうせ両親が興味あるのはユリアナだけ。ユリアナも今度の子爵令息と上手くいっているようだし、彼とのことは卒業直前に家族に報告だけすればいいや、と思っていた。
ところが、その予定は呆気なく崩れた。
いつものように週末彼とデートし家の前まで送ってもらうと、門の前にユリアナが立っていたのだ。このところ毎週のように外に出掛けるミリアナを訝しみ、待ち伏せしていたらしい。
「お姉さまのことが心配で」
そう言いながら、瞳を潤ませて彼の手を取った可憐なユリアナの姿は、ミリアナの目には舌なめずりする魔物のように映った。
戸惑う彼と上目遣いで彼に話し掛ける妹の姿に、嫌な予感がした。
予感が的中したのは、それから二ヶ月後のことだった。
約束の時間に彼の家を訪れたものの、返事がない。そういえば、ここの所少し元気が無かった気がする。
心配になったミリアナは、渡されていた合い鍵を使って中に入った。
扉を開け中に入ると、廊下に脱ぎ散らかした服や靴下が点々と散らばっていた。
(綺麗好きなのに、忙しくて掃除出来なかったのかしら。)
そう思えたのは、落ちている服の中に見覚えあるショールを見つけるまでだった。
異国の花が刺繍された、グラデーションの美しい藤色のショールは、ミリアナのお気に入りだった。妹に、奪われる前までは。
ドクン。ドクン。
耳に心臓が移動したようだ。
何処からか聞こえる、はぁはぁと荒い息遣いが自分の物だと気付くのに時間がかかった。
扉の奥から、くぐもった声と何かが軋む音が聞こえる。
(嘘よ。そんな筈ない。私だけ、って言ったもの。一生大切にするって言ったもの……。)
真っ青になりながら、震える手で扉を開けると、最愛の彼は、裸で妹と絡み合っていた。
立ち尽くすミリアナの姿に二人が気付いたのは、盛大に果てた後だった。
赤い唇が弧を描く妹も、青を通り越し紙のように白くなった顔で慌ててユリアナを突き飛ばし駆け寄ってくる彼も、ミリアナにはもう別人にしか見えなかった。
その後のことは殆ど覚えていない。
彼は「薬を盛られた」だの「向こうから誘ってきて断れなかった」だの「脅されて仕方なく」だの言っていたが、ひたすら気持ち悪いとしか思えなかったミリアナは、裸で追いすがる彼を振り払い、走って家まで帰った。結婚するまでは、と彼と身体を繋げることはしなくて良かったと心から思った。
帰るなり我慢できず嘔吐したミリアナはそのまま寝込み、翌朝目が覚めると、一年後には自分の伴侶になる予定だった男は、妹の新しい婚約者に収まっていた。
妹の腹には既に子どもがいるらしい。ミリアナが目撃するより随分前から――恐らくはユリアナに彼を紹介してすぐ、二人は関係を持っていたのだろう。
自分と将来設計を話し合っていたあの時も、手を繋いでデートしていたあの時も、彼は既にユリアナと身体を繋げていたのだと思うと、ミリアナの目にはもう、あんなに愛していた男が汚物にしか思えなかった。
一方的に婚約破棄され怒り狂う元婚約者の子爵令息も、青い顔で必死に自分に視線で縋る元恋人も、謝罪ひとつしない妹も、妹を肯定することしかしない両親も――最早ミリアナにはすべてがどうでも良かった。
これまで歪んだ伯爵家の価値観を押し付けられ生きてきたミリアナは、此処にきて漸く気付いた。
あの時も、あの時も、あの時も。
ユリアナはミリアナの持ち物が本当に欲しかったわけではない。かつてのミリアナの元婚約者たちや元恋人たちもそう。彼らのことを心から好いているわけではない。
ユリアナにとって重要なのは、ミリアナから大切な物を奪う行為そのものなのだ。
それに気がついてしまったら、『問題はあるけれど可愛い妹』だと思っていた少女が醜悪な悪魔にしか見えなくなった。
心がスッと冷えて、固くなっていく。
「おめでとうございます。元気な赤子が生まれるといいですわね」
機械的に告げ部屋に籠もったミリアナは、心に誓った。この地獄のような家から出ることを。
自分を軽んじ妹ばかり溺愛する両親も、姉から奪うことを快感にする妹も、もういらない。ミリアナの人生に必要無い人たちだ。
この日、ミリアナの表情から笑顔が消えた。
◆◆◆
元恋人がユリアナの婚約者となってから数ヶ月。伯爵家を出ようと決めたものの、ミリアナは行き詰まっていた。
元恋人とは口約束だったとはいえ、実質三度も婚約を破棄され(表向きには婚約解消になっているが……)、社会的にも精神的にも傷付けられたミリアナは、もう恋愛は懲り懲りだった。今のミリアナには、この先の自分の人生を男に預けようとは思えなかった。
配偶者のいない女が独りで生きていくには、職が必要だ。この世界、女が職に就くのは簡単ではない。
最も現実的な選択肢は王宮や貴族の屋敷で女官や侍女として勤めることだが、正直言ってミリアナはもう貴族社会とは関わりたくなかった。どんな形であれ、貴族社会と関わりを持つならば、あの両親や妹と顔を合わせなくてはならない機会があるだろう。
それに、どうも最近両親の様子が怪しい。
昔から厳しく教育を受けてきたミリアナと違い、ユリアナは甘やかされ我が儘放題で生きてきた。ミリアナの最初の婚約者を奪った後から、両親はなんとかユリアナに最低限の当主教育を施そうとしているようだったが、これまで好き放題生きてきたユリアナだ。進捗は芳しくないとメイドたちが話しているのを聞いた。
そんな折り、ミリアナは父から久しぶりに声を掛けられた。
「いい年して婚約者もいないのだから、卒業したら家の手伝いをしながら、生まれてくるユリアナの子を世話しろ。いいな?」
一方的にそれだけを冷たく告げて去って行く父親の背中を蹴り飛ばさなかった自分を褒めてやりたい。握り締めた掌を解くと、血が滲んでいた。ぼんやりと窓の外を見ながら考える。
恐らく、両親はユリアナに教育することを諦めたのだ。実際に爵位を継ぐのはユリアナの伴侶だが、ミリアナから奪った恋人は騎士爵はあっても元は平民出。とても領地経営など任せられない。だったら、爵位だけユリアナ夫妻に継がせ、実際の業務は嫁の貰い手も無い姉にすべて任せればいい。
両親の思惑が、手に取るように分かった。
卒業まで一年を切っている。時間はあまり無い。
焦燥に駆られながら、時間を見つけては職を探す日々が始まった。調べてわかったのは、なんのコネも無く市井で働くのは不可能に近い、ということだけだった。
平民、平民、と貴族の多くは馬鹿にするけれど、市井で働く彼らの職だって殆どが世襲制なのだ。親や親戚に弟子入りして仕事するのが当たり前で、まともな紹介状無く若い女が働けるのは娼館くらいだ。
学校には頼めばミリアナを雇ってくれそうな裕福な家の子もいるにはいたが、先日の元恋人の一件ですっかり人間不信になったミリアナは、他人を信用することが出来なくなっていた。
表面上は友人たちとはこれまでと変わらなく過ごしてはいる。唯一変わったのはミリアナが笑わなくなったことだが、友人たちは薄々ミリアナの置かれた環境を察しているため、時間が解決するだろう、とそれについて指摘することもミリアナを遠ざけることもなかった。
しかし、一度芽生えたトラウマはそう簡単には消えない。ミリアナが心を許せるのは、今では学校に住み着いた絶妙に不細工な野良猫くらいだ。
家に連れて帰ろうかと思ったこともあるが、ミリアナが大事にしているとわかれば、ユリアナの病気が始まるに違いない。
おやつをあげるうちに妙に懐いた猫の背中を撫でながら、ミリアナは思案に耽る。
(こうなったら、自分で事業を興すくらいしかなさそうだけれど、それでもお金が必要ね。それに出来るだけ此処から離れた場所まで安全に移動出来るだけのお金も……。)
どれくらい時間が経ったのか、突然ミリアナの耳に罵声が飛び込んできた。気付けば日が落ち掛かっている。
「うるさいっ!子爵令嬢の分際で俺に口答えする気かっ!?」
「ですが、今日こそはいらしていただかないと困ります!またお義母様になんと言われるか……」
「煩いうるさいっ!お前は黙って俺の言うとおりにしていればいいんだ。母上に叱られるのはお前がグズで役立たずだからだ!勉強くらいしか取り柄が無いブスはせいぜい言われた通りに仕事しろ」
(あれは、マシュー侯爵令息とシルベスタ子爵令嬢ね。痴話喧嘩?いえ、それにしては随分一方的な……。)
反射的に茂みに身を隠しながら、目の前の光景に眉を顰める。
(先にいたのは私なのだから別に隠れる必要は無いのだけれど、思わず隠れてしまったわ。)
成る程……。暫く二人の姿を眺めていると、大体の事情が見えてきた。
マシュー侯爵令息といえば、社交界では麗しい容貌に侯爵家の跡取りという地位の高さ、人好きのする性格と三拍子揃った令嬢たちに大変人気あるプレイボーイだ。
たまに学校や夜会で彼を見かけるくらいしか繋がりのないミリアナは、彼を紳士的な人物だとすっかり思い込んでいたが、どうやら相当な猫を被っていたらしい。婚約者のシルベスタ子爵令嬢といるところをあまり見ないと思っていたが、裏でこれほど虐げていたとは……。
出るに出られなくなったミリアナは複雑な心境で息を潜めるしかなかった。
暫く一方的に人格否定するような言葉をぶつけ続けた後、マシュー侯爵令息はシルベスタ子爵令嬢の腹を殴りつけ、満足したのか去っていった。
マシュー侯爵令息の姿が完全に見えなくなったのを確認し、その場にうずくまるシルベスタ子爵令嬢に駆け寄る。
「あの、大丈夫ですか?」
ミリアナが声を駆けると、シルベスタ子爵令嬢は一瞬しまったという顔を浮かべたが、すぐに淑女の仮面を被り微笑みを浮かべた。
「ええ、大丈夫ですわ。なんでもないの」
……強い人だ。けれど、その肩は震え顔色は悪い。
「無理しなくていいから、医務室にいきましょう。お腹、痛むのでしょう」
「……見ていらしたのね」
「ごめんなさい。覗くつもりはなかったの。貴方達は気付いていなかったけど、あそこの茂みで猫と遊んでいたら、その……」
「貴方が謝る必要は無いわ。嫌なものを見せてごめんなさい。医務室も大丈夫ですわ」
考えるより先に、痛みに顔を歪めながら立ち去ろうとする彼女の腕を取り、引き留めていた。
「あの……あの方はいつもああなの?」
口に出すのも憚られ、曖昧に訊ねる。
マシュー侯爵令息が殴りやすい顔ではなく、わざわざ彼女のお腹を殴ったのは、周囲に分からないようにするためだろう。男の力で顔を殴れば、あっという間に腫れ上がり周囲に露呈するだろうが、お腹なら分からない。
貴族の令嬢が肌を見せるのは精々上半身は肘から先、下半身は膝から下くらいで、腹部を見せることなど絶対に無いからだ。
あまりにも卑劣な振る舞いに寒気がする。
「見られてしまったなら隠しても仕方無いですわね。……ええ、そうよ。あの方は気に入らないことや都合の悪いことがあると怒鳴り散らし、最後にはああして暴力を振るうのよ。本当、最低よね。侯爵令息でさえ無ければとっくに婚約破棄を突きつけてやってるのに」
「シルベスタ子爵やマシュー侯爵はこの事をご存知なんですか?いくらなんでも、婚約者に暴力を振るっていることが分かれば、婚約は解消出来るのでは」
以前遠目に見たシルベスタ子爵は、怜悧で少し冷たい印象ではあるが、娘を道具のように扱ったり、欲に目が眩むタイプではないように思ったが……。
「無駄よ。私が何もしていないと思う?もう何度も訴えたし、あらゆる手は尽くしたわ。それでも、この忌々しい婚約はなくならなかった。子爵領から王都へ行くには、侯爵領の街道を通らないといけないの。婚約が無くなれば街道は通さないって圧力をかけられてるのよ。そうなればうちみたいな子爵家は終わり。領民の生活にも影響が出る。私が我慢するしかないのよ」
「ひどい……なんて卑怯な……」
声にならない悲鳴を漏らしたミリアナに、シルベスタ子爵令嬢は自嘲的な笑みを浮かべた。
「向こうの家もわかってるのよ。あの息子に侯爵家を任せたら終わるって。だから私を手放すことは絶対に無いわね。後悔しても遅いけれど……こんなことなら馬鹿のふりしておくんだったわ」
その言葉に、ミリアナの胸は痛んだ。
侯爵令息、それもいずれ爵位を継ぐ嫡男と一介の子爵令嬢ではかなりの身分差がある。だから二人の婚約が結ばれた当初は、玉の輿だと随分話題になっていた。
シルベスタ子爵令嬢は幼い頃から多言語を操り、大人顔負けの知識を持つ神童と有名だった。
早い内から息子の資質を見抜いていたマシュー侯爵は、家を守るため、聡明なシルベスタ子爵令嬢に目を付けたに違いない。
裏の顔を知ってしまったミリアナにも、今更教育しようとしたところで、アレの更正は恐らく無理だろうな、とわかる。
だからといって、自分たちの教育の失敗の結果を、何の非もないよそのご令嬢に押し付けるのか?
方向性は違えど、両親の誤った教育によってもたらされた歪みがあるのはユリアナも同じだ。一方的に理不尽を押し付けられるシルベスタ子爵令嬢の絶望が、ミリアナには痛い程分かった。
……胸に燻っていた怒りに火が着いた。
「ねぇ、ひとつ確認したいのだけど、子爵家からの婚約破棄は無理でも、向こうから申し出があれば、話は別よね?」
「え?えぇ、その場合は問題なく婚約はなくなるでしょうけど、そんなことは有り得ないでしょうね」
「……もし、出来ると言ったら?」
普段は内心を表情には出さないシルベスタ子爵令嬢が、珍しく困惑した表情を浮かべている。
「確実とは言えないけれど、私が考えている方法ならマシュー侯爵令息の方から婚約破棄するように仕向けることは出来るかも知れない。少なくとも、試す価値はあると思う。でも、その代わりに貴方には侯爵令息に捨てられた女という不名誉な称号がついて回るだろうし、新しい婚約者は見つからないかも知れない……。それでも貴方は、あの男と別れたいと思う?」
シルベスタ子爵令嬢の瞳の奥に、小さな希望の光が揺らめいた。
◆◆◆
それから一ヵ月もしない内に、マシュー侯爵令息クリストファーとシルベスタ子爵令嬢アイリーンの婚約は解消されていた。
原因は、クリストファーの心変わり。曰く、『真実の愛を見つけた』ため、侯爵への相談無く、公衆の面前でクリストファーがアイリーンに一方的に婚約破棄を突き付けたのだ。
クリストファーの『真実の愛』のお相手は、ミリアナの妹、ユリアナだ。
前々から馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが、まさか息子がそこまで愚か者だとは思わなかったマシュー侯爵は、話を聞きつけるなり蒼い顔で飛んできて、なんとか婚約破棄を取り消そうと躍起になっていたが、多くの目撃者がいる中での宣言は流石の侯爵も取り消すことが出来なかった。
シルベスタ子爵家は慰謝料を請求しない代わりに、向こう百年、マシュー侯爵領を通る王都へ続く街道を『いついかなる時も、人や物の制限を受けず、自由に無料で通行出来る権利』を得た。百年あれば、浮いた通行料で独自に別の街道を整備することも可能である。
これで、シルベスタ子爵家はマシュー侯爵家に脅されることは無くなった。
「なんと御礼を言っていいか……。本当にありがとう、ミリアナ」
「私は何にもしていないわ。あの時、貴方が決断した結果よ。おめでとう、アイリーン。貴方は自由よ」
涙を零すアイリーンを、そっと抱きしめる。
この数週間で、二人は互いを名前で呼び合う仲になっていた。
ミリアナの言葉は嘘では無い。アイリーンとクリストファーの婚約を破棄するに当たって、ミリアナがしたことといえば、クリストファーに恋焦がれる視線を向けたことくらいだ。
「それにしても……本当に計画通りに行くとは思わなかったわ」
「ふふ、私は上手くいくと思っていたわ。だって、私から奪うためなら、何でもするユリアナだもの」
紅茶を口に含みながら、思い返す。
アイリーンがクリストファーに暴力を受けているのを目撃したあの夕方――ふと、ミリアナは思ったのだ。
妹を上手く使えば、二人の婚約をぶち壊せるのではないか、と。
アイリーンから言質を取った後、一番初めにミリアナがしたのは、ユリアナにある疑念をぶつけることだった。
「ユリアナ、貴方、本当は妊娠なんてしていないんじゃない?」
一向に膨らまない腹に、変わらない食生活と服装。
少し前から、ミリアナはユリアナの妊娠に対して疑念を抱いていた。
「あら、流石にわかってしまいました?そうよ、子供なんていないわ。月の物が少し遅れたのを勘違いしたみたいですの」
予想通りの答えだったが、悪びれないユリアナが浮かべる笑顔はやはり醜悪で、ミリアナは改めて妹へかつて抱いていた家族の情が今はもう一欠片すら残っていないことを再確認した。
それと同時に、最後に見た、かつての恋人の蒼い顔が脳裏に浮かぶ。
「そう。彼は知っているの」
「ええ、先日聞かれたのでお教えしましたわ。あ、だからといって彼がまたお姉様のものになるなんて思わないでくださいね?彼はもう私のものよ。お姉様のものにはならないわ」
「別に要らないわ、あんな人。どうだっていいもの」
それは今後のための布石でもあったし、ミリアナの本音でもあったが、ユリアナが一瞬悔しそうに顔を歪めたのを見逃さなかった。
「強がらなくていいのよ、お姉様。これでもお姉様には可哀想なことしたなーって思ってるんです」
「そんな風に思う必要は無いわ。ユリアナのお陰で彼よりずっと素敵な人を見つけたから。あのまま彼と結婚しなくて済んで御礼を言いたいくらいよ」
これで下準備は完璧だ。後はミリアナの思い人がクリストファーだと思わせるだけで良い。
翌日以降、ミリアナは恋に浮かれた風を装い、ユリアナの耳に入るようにクリストファーへの密かな思いを語り、ユリアナも参加する夜会で物憂げな視線をクリストファーに送った。
ミリアナとユリアナは同じ学校に通ってはいるものの、(入学時はミリアナが伯爵家の継嗣だったため)領地経営科のミリアナと淑女科のユリアナとでは校舎が違う。最初の婚約者を奪われた後、ユリアナも同じ科に転籍してくるかと思われたが、勉強が嫌いなユリアナが淑女科の数倍厳しい領地経営科に転籍することは無かった。
そのお陰で、ミリアナがクリストファーを好きだと装わなければならないのは、ほんの短い時間、限られた場所だけで済んだ。
これまでユリアナが奪ってきた男たちは、一応はミリアナの婚約者や恋人という関係性があった。アイリーンという正式な婚約者がいるクリストファーに一方的に横恋慕しているだけの状態でもユリアナが動くかどうかは賭けであったが、ミリアナとアイリーンは賭けに勝った。
ミリアナの元恋人の一件で、身体を使えばより簡単に男を篭絡出来ることに気が付いたらしいユリアナは、見事な手腕であっという間にクリストファーに取り入り、恋人の座に収まってしまった。シルベスタ子爵家がクリストファーに着けていた密偵の報告によると、出会いから身体を繋げるまで三日も掛からなかったという。
若者を中心に昔より貞操観念は薄くなっているとはいえ、貴族令嬢は普通、結婚まで純潔を守り通すのが一般的だ。貞淑であることの大切さを幼少期から叩き込まれる令嬢たちは、相手が婚約者であろうとそう簡単に身体を許したりしない。純潔でなくなった未婚の令嬢に政略結婚の価値は無いに等しく、大抵は年の離れた男の後妻か妾になるしかないからだ。
ユリアナは多分、深く考えてはいないのだろう。自分と結婚すれば、伯爵位を継げるのだ。伯爵家の跡取りは相手の男が誰であろうと、ユリアナの血さえ引いていれば構わないのだし、問題無いと考えているのは手に取るように分かった。
クリストファーは美しく若いユリアナの身体を知ると、あっという間に溺れた。二人の仲がより進展するように、至る所でいちゃいちゃする二人を見せつけられたミリアナは、 ユリアナの視界に入るようにわざとらしく涙を浮かべたり、その場から走り去ったりを繰り返してやった。
その反応に大層愉悦を覚えたらしいユリアナはクリストファーとの仲を深めていき、数週間後にはすっかり骨抜きになったクリストファーはアイリーンに婚約破棄を突き付けるに至った。
「ねぇ、ミリアナ。逃亡資金が足りないって言っていたわよね。私に良い考えがあるのだけれど」
そう言ってアイリーンから提案されたのは、人助けと資金稼ぎが出来る妙案だった。
クリスの一件でアイリーンとすっかり仲良くなったミリアナは、卒業後は伯爵家を出奔するつもりであること、それが難航していることを話していた。実際にユリアナの悍ましい振る舞いを見たアイリーンは、ミリアナに同情し、知恵を貸してくれていた。
アイリーンの提案は、所謂『別れさせ屋』だった。まだまだ政略結婚が主流の中、アイリーンと同じように婚約の解消を望みながらも、何らかの事情で縛り付けられている令嬢は多い。そういった令嬢を今回と同じように助ける代わりに、謝礼を受け取ればいい、と言うのだ。
当初、ミリアナから妹の話を聞いたアイリーンは、いくらなんでもそんな愚かな令嬢がいるとは信じられなかったらしい。しかし、実際のユリアナは話に聞いていた通りの愚かで、ふしだらで、醜悪な女だった。
次々と男を取り換えているユリアナは既に一部の貴族からは淫蕩の烙印を押されているが、それでも見た目は美しいのでそれなりに人気はある。まともな令息はユリアナと距離を取るだろうが、婚約者のご令嬢が婚約解消を望むような男であれば、きっと引っかかるだろう、と。
成功した時だけ報酬を受け取ることにすれば、依頼主の令嬢も損することは無い。
かくして、ユリアナを使った『別れさせ屋』は密かに開業した。
初めの依頼者は、アイリーンと同じクラスの男爵令嬢。金と身分に物を言わせ強引に結ばれた子爵令息との婚約を破棄したいのだという。
相手の令息はユリアナより身分も低く、容姿も平凡だったことが些か心配であったが、杞憂に終わった。わざとらしくユリアナの前で子爵令息に接触してうっとりして見せると、ユリアナは嬉々として彼と関係を持った。
ユリアナの凄いところは、ミリアナから奪うためであれば、相手の身分や容姿に拘らないところだ。
依頼者の男爵令嬢にはいたく感謝され、約束通り謝礼金も頂いた。
二番目の依頼者は、最初の依頼者の男爵令嬢から紹介されたという伯爵令嬢だった。
これもまた成功し、その後はこちらから客を探さなくても、口コミで依頼が次々舞い込んだ。
次々と依頼を成功させ、卒業する頃には述べ十五人の令嬢を望まない結婚から救い、代わりにミリアナの懐は別人としてやり直すのに充分な資金が貯まった。
僅か一年程の間に、ユリアナはすっかり淫乱の代名詞になっていたが、それでもあの容姿に引っ掛かる男は今後も沢山いるのだろうから、伯爵家の今後についてはなんとかなるだろう。
◆◆◆
「お、マイアちゃんじゃん。今日も別嬪だね。暇なら寄ってってよ!」
「マイアちゃん、今日は良い林檎が入ったから後で届けるわね」
「マイアたま、いっしょにあしょんで~!」
通りを歩くと、町の人から次々声が掛かる。
早いもので、伯爵家を抜け出しこの町に移り住んでからもう一年が経つ。
かつて『別れさせ屋』の客だった令嬢の家の領地に腰を落ち着けたミリアナは、今はマイアと名乗り一人で暮らしている。
"マイア"は数年前起きた大規模な森林火災で焼けた村の生き残りの災害孤児だ。
この国では災害や紛争で戸籍情報が紛失した際、五年以内に本人の申請があれば新しく戸籍を作ることが出来る。アイリーンの勧めでその制度を利用し、在学中に"マイア"の戸籍を作ったのだ。
制度を悪用することに罪悪感はあるものの、伯爵家からの追っ手を交わし、平民として堂々と生きるためには必要なことだった。
店舗兼住居として借りている、猫の絵が描かれた家の扉を開くと、入り口の所で不細工だが愛嬌のある猫が「おかえり」というようににゃーんと鳴いた。かつて学校の裏庭を住処にしていた例の野良猫だ。
伯爵家を出奔したあの夜、屋敷から少し離れたところで待っていたのだ。別れを告げに来たのかと思ったが、ミリアナの後をついて離れず、現在はノワールと名前を与えられ、マイアの相棒として共に暮らしている。
マイアは孤児院で子ども達に文字の読み書きを教える傍ら、町の一角で小さな猫カフェを営んでいる。珈琲や紅茶、フレッシュジュースに軽食を楽しみながら、時間制で猫と好きなだけ触れ合えるという、今までに無いお店だ。
ご飯は美味しく、美人で若い店長と愛らしい猫に癒されると評判は上々で、中々の人気店なのだ。
現在この家に住んでいるのは、カフェの猫も入れて一人と七匹。
そして今日からは、そこに新しくもう一人が加わる。
カランカラン。
扉に付けられたベルが鳴る。
太陽の光を背に立つその人は、この世で一番愛しい人。彼が移り住む形で、今日から同棲を始めるのだ。
長身で厳つい見た目にも関わらず、案外気が弱くて優しい彼とは、孤児院で出逢った。文字の読み書きを教えるマイアと同じように、彼は家具職人として働く傍ら、何かあった時に身を守れるよう、子ども達に護身術を教えている。
毎週のように顔を合わせる内にいつしか心を通じ合わせた二人は、自然に恋人となった。
自分よりずっと美しいユリアナと比べられ、貶められ続けてきたミリアナは自分を冴えない容姿だと思っているが、ミリアナとてユリアナと同じ両親の血を引いているのだ。
色味が地味なだけで顔立ち自体はすっきりと整っており、年若く、美人でスタイルもよく、清楚なマイアは町の男たちから大層人気がある。
これまでの柵から解き放たれ、愛する人や物に囲まれたマイアは、日に日に美しくなっていく。そんなマイアを取られまいと、日々周囲を牽制する心配性の彼からプロポーズされたのは先週のことだ。
来春には町の小さな教会で結婚式を挙げる。
アイリーンとは未だに手紙のやり取りを続けていて、春の結婚式にも呼ぶ予定だ。クリストファーと別れた彼女は、現在は語学力を活かし、王宮の外交部で補佐官として働いている。どうやら同僚の一人といい仲になったようで、吉報を聞ける日も近そうだ。
アイリーンによると、あの後、ある意味生き甲斐としていた姉を失ったユリアナは荒れに荒れ、これまで以上に節操なく男と関係を持ち、子供を身籠もったため中途退学したという。あまりにも沢山の男と関係を持っていたので、子供の父親は不明らしい。
伯爵家にはユリアナに捨てられた男たちや婚約者、恋人を寝取られた女たちから多額の慰謝料を請求され、すっかり虫の息だという。アイリーンの予想では、そう遠くない内に爵位を返上せざるを得ないのでは、ということだ。
伯爵夫妻は今頃になって自分たちの行いの不味さに気が付きミリアナを探し始めたらしいが、これまでユリアナばかり溺愛し、ミリアナに関心を持ってこなかった彼らは、娘の交友関係も分からず、何の手がかりも無く途方に暮れているという。
それを知っても、ミリアナ――今はもうマイアだ――の感情は少しも動かなかった時、漸く本当の意味で自分は自由になれたのだ、と実感した。
奪われることに慣れ、笑顔を失い、何もかも諦めていた少女はもういない。
災害孤児のマイアには、大切な家族の猫たちと最愛の恋人がいて、大好きな仕事と優しい友人たちがいる。
もしもこの先、彼や彼女らが傷付けられ、奪われそうになっても、ミリアナのように黙って諦めることはしない。力の限り、全力で戦って守り抜くだろう。
もう、諦めたりしない。
胸を張って、そう言える。
なんとなーく連載の筆が進まず、あちこち書き散らかしていたものの一つです。本当はもっとライトな感じで短く終わる予定だったのですが、思いの外長くなってしまいました。
コロナ下で大変な中、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。連載の方もそろそろ投稿再開するつもりなので、お時間ある方は覗いて見て下さい。