瞳に映るピエロ
一
白く塗られた顔に、赤く裂けた口。目の周りは青く染まり、鼻には赤い玉が付いていた。周りからは笑われ者にされて、その本人も常に笑っている。 ただ、その笑顔はあくまで作り物であって、仮面の下にある本物の表情はだれにも分からない。
俺はピエロだった。奇抜な化粧で、おどけた態度で、いつだって笑われ者にされた。顔には常に笑顔が張り付いていた。誰もが俺のことをピエロだと信じて疑わなかっただろう。
ただ、俺はピエロを演じていたのだ。奇抜な化粧の下に、おどけた態度の裏に、常に本心を隠していた。
ピエロになることは、自分を隠すには好都合だった。
心の内を知られるのが恐ろしかった。他人の目が怖かった。だからピエロを演じた。
ピエロの姿を見て笑う人はいても、ピエロの素顔を知ろうとする人は一人もいなかった。
そして、いつしかそのピエロを演じる俺を俯瞰するもう一人の俺が現れるようになった。
その俯瞰する俺は、ピエロを演じる俺に、常に哀れみの目を向けていた。派手な見た目とふざけた態度の下に本心を隠すことを軽蔑した。俯瞰する俺もピエロを演じる俺も、どちらも同じ人間であるにも拘わらず。
どちらが本物の俺だったのだろうか。俺には分からなかった。
もしかしたら、どちらの俺も偽物だったのかもしれない。そうであるとしたら、一体本物の俺はどこいたのだろうか。
ピエロを演じることはある種の自己防衛だ。
俺がピエロ演じていると知った人たちは、哀れみの目を俺に向けるのだろうか。それとも、「誰もお前のことなど見ていない」と笑いとばすのだろうか。
どちらも正しい。ただそういう人間が怖いからこそ、俺はピエロを演じていたのだ。
二
向かい風吹かれながら、全ての体重をかけるようにペダルを押し込む。乾いた風が僕の耳を真っ赤に染めた。
腕時計に目をやり時刻を確認する。電車が発車するまであと十五分程だった。
朝日の淡い光に目を細めて川沿いの道を進む。この季節の通学は億劫で仕方がない。
駅の横にある駐輪場に自転車を止めて改札口へと向かう。手先が冷えやすい僕は、手袋をした手をブレザーのポケットに入れた。
いつも通りよっちゃんと改札口で合流し、階段を登っていく。
よっちゃんは中学からの同級生で、高校では僕が唯一素の自分でいられる相手だった。ただ、僕の本当の性格を知っている訳ではない。クラスが違うため、表向きのキャラクターを演じる必要がないだけだ。
それでもいくらか気が楽だった。よっちゃんと話すときだけはありのままの自分でいられるような気がした。
「昨日もめちゃくちゃいじられてたな」
よっちゃんは僕のことをいわゆる「イジられキャラ」だと思っている。間違ってはいない。そして、このことに少なからず思うところがあるということも知らない。むしろ、根っからのそういう人間だと思っている。
「いやー、ほんとね」
僕は笑いながら曖昧に返答した。よっちゃんと僕のクラスでの立ち位置の話をするときは、たいていこういった尻すぼみの会話になってしまう。
「でもほんと真木のツッコミって面白いよな」
その言葉にも愛想笑いで返す。
僕が何かを言われてそれに言い返す。
それが僕の「イジり」の一連の流れだった。ときには本当に傷つくこともあった。それでも、そんな様子は一切見せずに、おどけて、何も考えてないバカに見えるように徹した。つまらない「ボケ」に大きな声で面白おかしく「ツッコミ」を入れた。
そうすることで、ようやく僕は僕でいられた。そのクラスの中では。
僕が言ったことに皆は笑う。悪い奴らではないことは分かる。ときにはただの嫌がらせのような「イジり」もあったが、それでも僕は決して怒らなかった。
中学での仲の良い友人は、僕のことを「優しすぎる」という。僕が怒らないからイジられるのだと。
それは少しだけ違った。僕が怒らないのは、人に嫌われるのが怖かったからだ。嫌われることでその集団から追い出されるのが怖かったからだ。
僕が本当に優しかったら、心の中で相手を汚い言葉で罵倒したり、ときには小声で愚痴をこぼしたりなどはしない。
僕は僕が優しい人間でないことは知っている。ただ、僕の立ち位置で心の底から怒りを覚えないような人間が優しい人間だというのならば、僕はそんな人間にはなりたくなかった。
三
僕が今の立ち位置になって間もないころは、朝学校に来て教室に入ることすら憂鬱だった。理由は一つしかない。
「お、マッキー、今日も寝たまま来たな!」
黒板の前で磯部と話していた神谷がこちらを向いて言った。
マッキーとはこのクラスでの僕の呼び名だ。名前さえもそのままの自分でいられなかった。
目が細いことは、昔は少し気にしていたが、こうして人に言われるようになって、いちいち気にすることが馬鹿らしくなった。
僕はいつも通り笑顔でおどけて見せる。周りにいたクラスメイトは満足気に笑う。これが僕の日常だった。
席に着いてリュックから教科書を取り出す。クリアファイルから今日の朝提出する書類を出し、残りのものを机の中に入れた。
「おはよう」
挨拶と同時に隣の席の有島は机の上にリュックを置く。
「おはよう」
「古典の予習した?」
「昨日の夜、なんとかね」
「ごめん、写させて!」
「仕方ないなあ」
有島は「やった」と小さく呟いて座った。
僕の学校生活での数少ない救いがこの有島だった。
有島はクラスの中心にいるようなタイプではなかったが、自分の考えで動く、数少ない女子だった。クラスの大きな女子グループに属していない点も好感を持てた。なぜなら、そのグループの女子たちのように雑な「イジり」をしてこないからだ。
有島と話すときは、さすがに素の自分とまではいかないが、幾分かは表向きのキャラクターを演じずにすむ。彼女との会話が本当に数少ない救いだった。
「マッキーくんって、不真面目そうなのに案外真面目だよね」
僕は有島の言葉に大袈裟に笑って誤魔化した。有島は僕のことに関してときどき核心をつくような発言をする。その度に僕は少しだけ焦っていた。
「文化祭の出し物考えてきた?」
僕は咄嗟に話をすり替えた。
「うーん、無難にお化けやしきかなあ。マッキーくんは?」
ここで僕はその質問の答えを用意していないことに気がついた。僕が「あー」と言ったきり言い淀んでいると「聞いたくせに考えてないのかよ」と有島は笑った。
僕はまた、大袈裟に笑って誤魔化した。
四
六時間目の学級活動で、文化祭の出し物を決めた。クラス全体で喫茶店開くことになった。
それまでは順調であったが、最後に、神谷がこともあろうに僕が客の前で一発芸をやるよう提案した。さすがに僕もこれだけは回避したいと思ったが、いつものようにおどけた態度をとってしまった。
女子グループのまとめ役である藤井まで面白がってその提案に乗ってきた。どこまで本気なのかは分からないが、僕がやるといえば間違えなくやらせるつもりだろう。
改めて損な役回りだと思う。ただ、僕がそんな役回りを受け入れている部分があることも確かだった。
僕は自分の素が見られるのが怖かった。だからひょうきんな自分を演じて本音を隠した。これは事実だ。
ただ、僕がイジられるようになってからこのキャラクターを演じるようになったのか、それとも、このキャラクターを演じることでイジられるようになったかはもう覚えていない。
どちらにしても、僕はこのままずっと演じ続けなければならなかった。 その演じ続ける僕を客観的に見る僕もいる。その僕は、いつだって偽りの自分を演じる僕を軽蔑していた。
五
文化祭の出し物が決まった次の週から、本格的に文化祭の準備が始まった。 結局、何とか一発芸はやりたくないという旨は伝えられたが、どこまで本気でとられているかは分からない。
「マッキー、一発芸ちゃんと考えとけよ!」
神谷は嬉しそうに言う。
ただイジっているだけなのか、それとも本気でやらせる気なのかは分からない。僕はいつも通りおどけ、少しだけ嫌がる素振りを見せた。
準備期間が始まって二日が経つが、既に本番が憂鬱で仕方なかった。何とか何も起こらないまま終わるよう、ずっと願っていた。
「マッキーくん、はい」
有島は袋に入ったペンを僕に渡すと、新聞が敷かれた床に膝をついた。
僕と有島は、看板を作る係になった。もう二人同じ係がいるが、字を書くのは僕と有島の担当だった。僕としてはありがたい人選だった。
「字上手いね有島」
「でしょ、こういう太いペンはちゃんと書き方があるから」
「へえ」
「横線は細く、縦線は太くするの」
「なるほどお」
僕が素直に感心していた。
「じゃあマッキーくんは鉛筆で下書きして。鉛筆の字はきれいだから」
「鉛筆の字は」は余計だろと思いながら了承した。ただ、そういう有島のざっくばらんなところも、有島らしさだと思う。
「マッキーくんっていつもそんな感じなの?」
模造紙に鉛筆で薄く字を書く僕の横で、有島は足を伸ばして座っている。 また不意をつかれた。有島にどんな意図があるかは分からないが、何かを探るような質問であるような気がした。
「そんな感じって?」
「そんな感じ。なんというか、いつも明るくて、皆に同じように接する感じ」「そんな感じに見えてるのか」
「うん。昔からそうなの?」
「うーん。まあ」
有島は「ふーん」とだけ言って、急に静かになった。
昨日の作業中にも思ったが、有島との会話には無駄な過程がない。有島が話してたがっていた内容が終わると、それ以上有島は話を引き伸ばそうとしなかった。だから短い会話が途切れ途切れで続く。
僕が下書きを終えると、今度は有島がペンを握る。後ろで体育座りをしながらぼうっと眺めていたら、有島が字を書くのをやめて顔を少しこちらに向けた。
「嫌なことは嫌って言ってもいいと思うよ」
有島の表情はよく見えなかった。ただ、そんなことよりも、今、僕がどんな表情をしているかということのほうが気になった。
看板が出来上がった後は、それぞれ他のグループの作り物や教室の装飾を手伝った。
あの後の有島との会話は取り留めのないものばかりであったが、どうしてもあの一言が僕の心には引っかかっていた。
有島は僕がどういった人間なのか気づいているのだろうか。このクラスでの僕しか知らない人間が僕を心配することなど、今まで一度もなかった。誰もが僕は根っからのそういう人間だと思っていた。
その分、少し焦りはしたが嬉しかった。この教室の中でも味方ができたような気がした。
ただ、僕は期待しすぎても良いことはないということを知っている。僕は今まで、自分の内面を知られて得したことは一度もない。だからこそ、今の僕がいるのだ。
有島が僕にとって害があるかどうかの話ではない。僕がただ、そう考えられずにはいられないのだ。
もっと簡単に考えられれば、と、いつも思う。
六
今日ほど学校に来るのが億劫だった日はないかもしれない。休むことも考えたが、僕の変な意地がそれを許さなかった。
廊下はいつもより賑やかで、あちらこちらに装飾が施されていた。この光景は嫌いではなかったが、できれば第三者の目線で見ていたかった。
教室に入ると、既にほとんどの準備が終わっていた。
僕は今日一日、喫茶店のウエイターとして働くことになる。文化祭を一緒に楽しむような友達もいないので、他の人の分の仕事も引き受けてしまった。そういったことを断ることができないのも僕の悪いところだ。
ただ、そんなことはどうだっていい。今日僕は、一発芸をやらされなければそれでいいのだ。
僕で笑うことができるのはこのクラスだけだ。内輪での笑いが外で通用しないことなど目に見えている。もともと精神的に強い方でもないのだ。
「マッキー!期待してるぞ!」
ニヤニヤしている神谷の横には藤井もいた。いつも通りの対応をしたが、嫌な予感しかしなかった。久々に人をぶん殴ってやりたくなった。
教室の隅で携帯を見ながら心を落ち着ける。今までにもこのような危機に陥ったことはあったが、なんとか回避してきた。今日だってきっと大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
「マッキーくん」
ふと顔をあげると、ウエイトレスの格好をした有島がいた。
「似合う?」
「うん」
「軽い」
有島はわざとらしく怒る素振りを見せた。
「マッキーくん今日ずっとここにいるんだってね」
「まあね。有島は?」
「私も。特に行きたいクラスもないし」
有島らしいと思った。それに、有島がいてくれればいくらか気も楽になるはずだ。少しだけ心が落ち着いた。
文化祭が始まる時刻になると、予想以上に他のクラスの生徒や保護者が来た。外には列ができる程で、喫茶店というありがちな出し物の人気の根強さを知った。
昼時になると更に客が増えた。僕も有島も教室内を走り回っていた。
ただ、僕は少しだけ楽しんでいた。何も考えなくてすむし、単純にウエイターの仕事にやりがいを感じた。大学生になったら飲食店バイトをしようと思うほどだった。
有島も有島で、ウエイトレスを楽しんでいた。おそらくあの格好を気に入っているのだ。何回も鏡を見て自分の姿を確認していた。
何度も鏡を見る有島を見て、つい吹き出してしまった。
「今笑ったでしょ」
「笑ってない、笑ってないよ」
「笑ってるじゃん」と僕を小突いて有島は仕事に戻っていった。
思ったよりも時間が早く過ぎていった。喫茶店は常に忙しく、一発芸などやる余裕はなかった。僕は心から安堵した。それに、ウエイターの仕事も楽しかったので、今日はもう言うことはない。神谷や藤井も、朝に絡んできた後は特に干渉してくることもなかった。あいつらも文化祭を楽しみたかったのだろう。僕の一発芸はただのイジりだったのだ。
一通りの仕事を終え、机を積み上げて作った控え室に入ると、有島が机に突っ伏していた。相当疲れたのだろう。
「おつかれ」
有島は僕の声に反応して顔をあげた。
「ああ、マッキーくん。おつかれ」
有島は気だるそうにそれだけ言って、また机に突っ伏した。僕は顔を綻ばせる。
僕も机に腰を下ろして伸びをした。自然と声も出た。僕も僕で五、六時間動きまわっていたのだ。
「マッキーくん、めっちゃ働いてたよね」
有島は突っ伏したまま言った。
「うん、でも楽しかったかも」
「へえ、Mじゃん」
「そうかもね」
有島は「ふふ」とだけ言ってまた静かになった。
沈黙が続く。ただその沈黙は、決して息苦しいものではなく、そこに最初からあったような、本当に何気ないものだった。
そんな沈黙が、今は何よりも心地よかった。
天井を見あげて目を閉じる。その心地よい沈黙にいつまでも身を浸していたかった。
七
日曜日にクラスで打ち上げがあったが、有島に行くかどうか探りを入れたところ、行く気がなさそうだったので僕も行くのをやめた。
次の日、有島は学校を休んだ。働きすぎて体調を崩したのかと心配したが、火曜日には何食わなぬ顔で登校してきた。
「働きすぎ?」
「まあね、そんなところ」
有島はあくびをしながら席に着く。
その日、有島は病み上がりだからなのか、少し元気がなかった。元気になるまでそっとしておこうと思ったが、有島は次の日もその次の日も学校を休んだ。
結局、有島がその週に学校に来たのは火曜日だけだった。インフルエンザか何かかと思ったが、先生の口からは体調不良としか聞かされていない。
有島の身に何かあったのかと本気で心配し始めた矢先、また次の週、何食わぬ顔で登校してきた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫じゃなかった。インフルエンザで死にかけたよ」
マスクをした有島はだるそうに席に着いた。
その日、有島は、授業以外は机に突っ伏しているかどこかに出かけているかだった。
そんな有島に、僕は違和感を覚えたが、きっと体調が良くなれば元に戻るだろうと、気付かぬふりをした。
八
僕の予想とは裏腹に、有島は少しずつ学校を休むようになっていった。
そして、有島と僕の関係性は変わった。
有島が明らかに僕との会話を避けるようになったのだ。
朝も登校時刻ぎりぎりに来るようになり、休み時間も教室に姿を見せなかった。
いざ話しかけようすると、僕を避けるようにどこかへ行ってしまう。
僕には何が起きているか分からなかった。
何か有島を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。僕は有島のことが気になって仕方がなかった。
いつもの僕を演じるのもいっぱいいっぱいだった。神谷からも「マッキー意味分からない」と言われることが増えた。
ただ、僕はそれどころではなかった。
九
それから一ヶ月が経っても変化はなかった。未だに僕は有島とちゃんと話すことができてないない。
有島は相変わらず休みがちで、来たとしても、やはり僕との会話をあからさまに避けた。
僕自身も、もう自信がなくなっていた。今有島に話しかけたところで、かつてのように話すことができるとは思えない。
有島と話すことがなくなり、改めて有島が心の支えになっていたことに気づく。今ほど偽りの自分を演じるのを苦しく思ったことはなかった。
白い息は一瞬だけ現れてすぐに消えた。冬の雨はあまり好きではなかった。冬というだけでただでさえ気分が沈むのに、余計に気が重くなる。
革靴に雨が染み込み靴下が濡れた。言葉にならない気持ち悪さが僕を蝕んだ。
傘が当たらないようによっちゃんと並んで歩く。有島との関係性が変わってしまってから、学校へ行くのが億劫になってしまった。
「今、真木のクラスやばいんでしょ?」
よっちゃんはそういったゴシップじみた話が好きだった。ただ、信憑性が低いものばかりなのでいつも話半分で聞いていた。
「やばいって?なにが?」
「なんか藤井たちがやってるって」
根拠はないが嫌な予感がした。要領を得ないよっちゃんの言葉に苛つきを覚えた。
「何かって、何よ」
「いや、一人の女子が藤井に目を付けられたって」
僕は絶句した。嫌な予感はほぼ的中した。確信はないが、どうしても話が繋がってしまう。
その後の話は何もかも頭に入ってこなかった。まるで、体の自由がきかない夢の中のようだった。かろうじて相槌は打っていたが、雨の音だけが頭の中に響き渡った。
よっちゃんの話を聞いてから、有島が学校に来る頻度はどんどん減っていった。週に二回来れば多い方で、ときには週に一回も来ないこともあった。 よっちゃんの話は正しかったのだ。少し前に藤井と何人かの女子が有島を囲んでいるのを見た。
でも、原因が何かは分からなかった。有島は藤井やその周りの女子と関わることはなかったはずだ。有島から何かあのグループに干渉するとも思えない。
それに、もう一つ分からないことがある。藤井たちに嫌がらせをされているとして、なぜ僕を避けたのだろうか。有島にとって、僕も藤井側の人間に見えたというのだろうか。
そこまで考えて、自分が馬鹿らしくなってしまった。
よっちゃんの話を聞いてからも、僕は今まで通りの僕のままで居続けた。くだらないやり取りを毎日続けていた。
そんな自分が有島にとって特別な人間なわけがない。周りにいる大衆の一人にすぎないのだ。
電気を付けず、ベッドの上で天井を見つめる。最近こうしている時間が増えた。
有島を助ける方法を探したが一向に見つからない。
ベッドを思い切り拳で叩く。気がつくと涙が溢れていた。布団を握りしめて声を押し殺す。
僕はもう分かっていた。有島を助ける方法が見つからないのではない。いくらでも方法はある。ただ、有島を助けようにも、僕が有島のようになってしまうのが怖かったのだ。
有島のようにならないために、僕は僕を押し殺して生きてきたのだ。
そんな自分が情けなくて仕方がなかった。そこまで思っても、僕は動くことができなかった。
どうしてこんなにも僕は弱いのだろうか。心の底から消えてなくなってしまいたかった。
十
朝学校に来ると、一週間ぶりに有島が登校していた。机の周りには藤井を中心に何人も集まっていた。
「お、マッキーじゃん!」
藤井が僕に気づくと、教室内の目線が僕に集まった。藤井が僕に近づいてくる。
「マッキーも薄情だよね。有島さんが私たちに文句を言ったから一発芸やらずにすんだのに」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。藤井の言葉に頭が真っ白になった。
「有島さんがこうなってるの、ほとんどマッキーのせいだよ」
話が全て繋がった。文化祭の日、僕が一発芸をやらずにすんだのは、決して忙しいからなどという理由でなかった。
今思えば、神谷や藤井なら、いくら僕が忙しくても代わりに他のやつにウエイターをやらせて、僕に一発芸をさせることくらいはする。
僕が一発芸やらずにすんだのは、有島が神谷や藤井に、僕にそういった役をやらせるのをやめるように言っていたからだったのだ。
頭を思い切り殴られたような気分だった。
有島が今までいじめられていた理由は僕を助けたからだったということだ。 それなのに、僕はのうのうと今まで通りに生活してきたのだ。
有島と目が合った。有島の目は、文化祭の前と寸分も違わなかった。
「マッキーもいい迷惑だよな!マッキーそういうの大好きなのに」
神谷は悪びれずに言った。おそらく神谷は本気でそう思っている。
僕は何も言い返せなかった。
「なんだ、やっぱりマッキーは一発芸やりたかったんじゃん。それなのに有島さんが『真木くんは本当は嫌がってると思うよ』とか言うんだよ」
「ひどいよねえ」と藤井が周りに呼びかけると、次々と周りも同調した。
「マッキー、有島さんに迷惑だったって言ってやれよ。いつもツッコミでさ!」
再び神谷が横槍を入れると、教室に笑いが起こった。
マッキーのツッコミ面白いもんな、いけいけ、言ってやれ、有島さんにマッキーのこと分かって貰わないと、仲良くなるチャンスだよ、そうだよ、有島さん少し浮いてたし、マッキー、はやく──。
全ての声が鮮明に聞こえてくる。皆僕を見ている。十や二十ではきかない獰猛な猛獣たちの目が光っている。
今にも噛み殺されてしまいそうな恐怖心に煽られる。足の震えが止まらない。
なぜこうなってしまったのか。問うまでもない。僕がずっと偽りの自分を演じてきたからだ。そして、有島はそれに気がついていた。
猛獣たちの中心で、有島だけが人間の目をしていた。全く変わらない、いつも通りの有島だった。
なぜ有島がそんなに強くいられるのかが分からなかった。有島に見透かされ、助けられた僕はあまりにも弱かった。
教室の声が遠くに聞こえる。僕の目にはもう有島しか映っていなかった。有島は真っ直ぐとこっちを見据えている。
今まで僕がやっていたことは全て間違いだったのだろうか。だとしたら、僕は──。
『なあ、有島。俺、どうすれば良かったんだろ─?』
「マッキー早くー」
神谷の一声によって現実に引き戻された。再び喧騒が教室を包み込んだ。
「そんなことできるわけねえだろ。馬鹿じゃねえのお前ら……」
膝から崩れ落ち、床に額を擦り付けて、声を上げて泣いた。
『ごめん、有島』
その日、初めてこのクラスの中で本心をさらけ出した。
十一
僕と有島は、一時限目を受ける前に早退した。僕が泣き崩れたのを見つけた先生が、僕を職員室へ連れて行った。
僕は、そこで何を聞かれても「大丈夫です」としか言わなかった。半ば呆れた先生は、保健室に寄って今日は帰るように言った。
授業中に荷物を取りに行ったときには、有島はもう居なくなっていた。
その日は適当に理由をつけて母親を言いくるめた。そこから一週間、僕は学校に行かなかった。
学校に行かなくなってから何日目かに、有島が転校することを担任から電話で聞かされた。有島の母親が、もうこの学校に娘を行かせたくないと強く言っていたらしい。
クラスの皆が僕のことを心配しているということも聞いた。本当だとしたら、偽物の僕が作り上げた信頼が皆をそう思わせたのだろう。皮肉以外の何者でもなかった。
僕は結局、有島のために何もすることができなかった。有島は僕の弱さを見抜いて救おうとしてくれたのに。最後まで何一つ力になることができなかった。
十二
これ以上休むことはできないと思い、一週間と三日が経ってから、やっとの思いでリュックを開いた。
すると、教科書の一番上に、模造紙の切れ端が置いてあった。
『最後のは良かったヨ』
有島の字だった。僕は猛烈に有島と話したくなった。何も考えずに携帯で有島に電話をかけた。もうそこには今までの僕はいなかった。
電話に出る確証などなかったが、三コール目が鳴り終わると同時にあちらの声が聞こえた。
「───」
「マッキーくん?どうしたの」
「───」
「何それ、変なの」
有島の声の向こうには、電車の音が聞こえた。
「───」
「うん、おばあちゃんの家から通うの」
「───」
「私はもう大丈夫だけどね、お母さんがね。お母さん、一人で私を育ててくれたから心配で仕方がないの」
「───」
「だからマッキーくんは悪くないよ。私もごめんね。びっくりしたでしょ」
「───」
「だって、私もそうだもん。マッキーくんとは種類は違うけど。似たようなもんだよ」
「───」
「凄くないよ。分からない方がおかしいと思うけどね」
「───」
「というか、マッキーくんってそんな喋り方なんだね、声もいつもより低いし。別人みたい」
「───」
「うん、全然違う。二重人格みたい。マッキーくんって厨二病だったの?」
「───」
「嘘だって。ごめんごめん」
「───」
「でも、マッキーくんのことずっとピエロみたいだなって思ってた」
「───」
「うん。それ。白塗りの」
「───」
「だってさ、すっごい派手な見た目でいっつもおどけて、みんなに笑われて、でも素顔は全然見えないんだもん」
「───」
「まあ派手な見た目は例えだけどさ」
「───」
「私は厨二病じゃないもん。でも当たってるでしょ?」
「───」
「ほらね、やっぱり。私と一緒」
「───」
「そうなるね。それだと私は面白くないピエロだね」
「───」
「そう?まあマッキーくんと話してるときはほとんど素だったと思うよ。文化祭のときとか」
「───」
「だからもういいって。謝りすぎ」
「───」
「うん、楽しかった」
「───」
「うん、気に入ってた。ああいうの着てみたかったし」
「───」
「遅いよ、言うのが。そういうのはあの場でさっと言えないと」
「───」
「なんで今泣くの。あの日散々泣いてたじゃん」
「───」
「あれ結構良かったよ。素のマッキーくんを見られた感じ」
「───」
「そうかもね。あのときは確かにピエロじゃなかった」
「───」
「はい、何でしょう」
「───」
画面の向こう側で息を呑む音がした。少しだけ間を置いて、有島は言った。
「うん、私も」
「───」
「だから謝るな!同時に謝ったら雰囲気ぶち壊しだよ」
「───」
「強くないよ。マッキーくんと同じ。建前を盾に本音を隠してるだけ」
「───」
「それがいいと思うよ。そっちのマッキーくんの方がいいし」
「───」
「大丈夫だよ。私が保証するから」
「───」
「うん。でも話せて良かった」
「───」
「きっと、ね」
「───」
「だから泣くなバカ。もう戻って来ちゃダメだよ」
「───」
「うん、バイバイ。ピエロくん」
有島の声を聞き終え、通話終了のボタンを押した。
涙が溢れ出る瞳の奥には、もうピエロは映っていなかった。