死地へと渡る
4 死地へと渡る
翌日は、天がクイ達の気持ちを汲み取ったかのような、鈍い曇天模様だった。
一晩悩んでも、ろくな考えは浮かばなかった。時間は待ってくれず、むしろ迎えに来た勢いで、その時が迫ってきた。
クイ達は半ば強引に外へと引き出された。ガルは渋い顔をしているが、今のところ従っている。
「コランは? あいつ、やっぱり来るだろうか」 と、ゴウライがしんみりと言った。
昨夜、部屋を出たあと、コランは皆の前に姿を見せなかった。このまま逃げ出してしまっていれば、それはそれで良いとクイは思った。ここに来れば、真っ先に死地に挑む事になるのだから……。
ゴウライは我慢できず、暴れ出すかもしれない。そうなったらもう、出たところ勝負だ。もしかしたら、気を回し過ぎで、これ以上の備えなどないのかもしれない。
そう思っていたが、雲行きが怪しくなってきた。
岩山を望むことができる高台に巨大な天幕があり、園主がそこに入ったとジロにより告げられた。天幕の周りを囲んでいる近習たちは、背が高く、がっしりしている。燈都などでは従枝という科人が側遣えをするが、ここにいるのはただの科人のようである。
園主は、そこからこの儀式を見物するという。そう聞かされた後は、いつものゴウライではなくなっていた。やはり、野暴といえども、そこに主がいて、期待していると聞かされれば、噛み付けなくなるのだろうか。
カコをはじめ、郷の科人達も引き出されて来た。みな、ぼんやりとした顔をしている。死に挑むのは勿論嫌だが、主のため、と聞かされれば、思考が止まる。諦め切ってしまったわけではないだろうが、頑迷に反抗する気は失せてしまうようだ。
「そろそろ、始めようと思うのですが」 と、ジロが声をかけてきた。
クイは、はっとした。
自分達の儀式であるのに、わざわざこちらに問いかけてくる。それはつまり、このまま郷の者達を見殺しにするということで良いのかと、確認してきているのだ。
このヤロウ、あとで髭を一本づつ抜いてやると、クイは憎々しく思った。
カコが顔を上げ、あ、と声を上げた。
「あの人……! クイちゃんたちの……」
指を指された先を見るまでもない。クイは眼を閉じ、額に皺を寄せた。
郷の者達はざわめいている。自分達より先に、誰かが山を登っているのが見える。すでに問題の箇所に到達しようとしている。
「おぉ。コラン殿は、やる気になったのですな」 と、ジロが感心したような声を上げた。と、同時にぱっと前方へ飛んだ。
ゴウライが我慢できず、岩塊のような拳を振り下ろしたのだ。うまく避けられてしまい、ただ拳が地にめり込んだ。
意外と身のこなしが鋭い。効果の程は疑わしいが、彼を人質にすることも、これで難しいと分かった。
「何だ、お前は―――」
急いで避けたので、さすがに身なりに気を遣う余裕はなく、ジロの顔を隠していた布が外れていた。
「―――狗人、なのか?」ゴウライは訝しそうに言った。
「その汚らわしい名で、私を呼ばないで頂きたい」 と、ジロは不快感を示した。
「しかし、その姿は……」
ジロの素顔が露になったが、彼は无人ではなかった。かといって、狗人ほど、獣に近い風貌ではない。元は狗人であったかもしれないが、体毛は短く刈り込まれ、牙も先が削られ鈍くしてある。
また、狗人は通常獣のように四足で駆けるのだが、それも二足歩行に矯正していたようだ。狗の利点を殺してまで、无人の姿に寄せていたのだろうが、今のジロの目付きは獣のように鋭く、情を感じさせない。口吻が突き出すようになっており、禍々しい印象を覚える。
「私はもはや、狗などではない。主の導きにより、獣から一段上の存在へと成ったのです」
狗人もまた、主により生き方を変えられた科人である。俊敏な獣のように振舞うことで、性能だけでなく、その性根を野生の混成に近づけてきた。そうして得た身体能力で、主の狩りを手助けし、狗として主のために働けることに疑問を持たない、それが狗人であるはずだった。
ジロはその狗人の本性を押さえ、无人に近しい姿となったという。知性を取り戻しつつあることで、そう導いてくれた主への畏敬の念が強まっているようである。
皮肉なことだが、それで強者に従うという狗の性質は、返って濃くなっているのかもしれない。
ゴウライも負けずに威嚇する。
「コランが落ちそうになったら、お前を放り投げて下敷きにしてやる」
「いえいえ、彼は落ちませんよ。きっとやり遂げる。そうでしょう?」
自分の爪がもっと長かったら、あいつの顔面に百本の線を入れてやるのにと、クイは思った。
「彼はやる気になっています。皆で、見守りましょう」
「そんなの、嫌よ」 と言って、クイは前に出た。
「おっと。これ以上邪魔立てすると、あの老女から先に挑む事になりますよ」 と、ジロは天幕の側を指差した。
ヒイテの老女、キンヤが引き出されてきた。やはり、他にも奥の手を隠していたようだ。
しわがれた低い声で、そんな必要はない、とガルが言った。
「ほぅ? 見捨てるというのですか? あの憐れな老女を」
「違う。あんな役に立ちそうにない者を、使う必要はない」
「というと?」
「俺たちも挑む。それは、構わないだろうな?」
「コラン様だけではなく、皆もそのあとで、ということですか」
「そうだ、それが良い」 と言って、ゴウライも頷いた。
「ゴウライ……、ガル……。貴方たち……」
ガルとゴウライは頷き合い、コランのいる所へと向かおうとした。
「待って、私も」 と、クイは短い手を精一杯伸ばした。
「いいや、待っていろ――――」 と、ゴウライは大きな手のひらを見せてきた。それで視界が閉ざされかける。そのまま、拒絶されるかと思ったが。
「―――と言っても、話を聞かない奴ばかりだものな、俺たち」
ゴウライは、クイを制止するためではなく、迎え入れるために、手を差し出していた。片手でぐっとクイの胴を掴み、持ち上げた。
「お前も行くな?」
「うんっ」 と、クイは言って、笑った。見た目に釣り合った、弾ける様な笑みだった。
「だな。独りは、寂しいものな」
ゴウライは言って、器用に苦笑してみせた。
「独りはいけねぇ。置いてけぼりはいけねぇ。それは俺が、よぉく、知っている」
「ゴウライ、貴方……」
「心配すんな。俺が一緒だ。いざとなったら、俺の肉で守ってやる」
*
クイ達が固唾を呑んで見守る中、コランは足を踏み出した。幾つかの綱の中から、ピンと張った一本を選び、足の裏を乗せる。
その先には何も無い中空だというのに、まるで躊躇いが無いかのように見える。風巻に振り回された経験があるから、多少の高さには慣れているのかもしれないが、コランの肝の太さに、クイ達はハラハラしっぱなしだ。
「え、それで行くの?」
さらにクイたちの心胆を寒からしめる事に、コランは綱にぶら下がるという手段ではなく、その上を伝い歩いていこうとしていた。つまり、綱渡りである。
「変なところで気位が高いんだから……。でも、あれだと、ちょっとでも姿勢を崩せば……」
クイは眼を下にやり、靄の掛かった遥かな地上までの距離を見て、ゾッとした。
「あいつ、見ている私達の心臓を止める気かしら」
心配を余所に、コランは着々と前へ進んで行く。足の裏をずりずりと擦りながら、両手を広げて左右の均衡を取っている。
コランの体重が乗って、綱はピンと張っている。幸い、それで切れてしまう事はないようだ。
「……ニゴテを、縒ってあるのかもしれないな」 と、ガルが呟いた。
え、とクイはその横顔を凝視したが、ガルは前方に集中していた。
せめて風が吹かない事を、ただただ祈った。何故かコランは風に弱い。ちょっとしたそよ風でも、この状態だと命取りになる。
「調子に乗るなよぉ……。油断すると、落っこちるぞ」 と、クイは小声で言った。大声を出すと、その所為で姿勢を崩してしまいそうに思える。囁き声が精一杯だった。
と、その時。コランの上半身が急に反り返った。
「うわ……!」 と、クイは手を顔に当てた。
しばらく待って、何事も続かないので、そっと指を広げて、眼を開ける。
風が吹き抜け、コランはその煽りを受けたようだ。気の素の興味を引かなかったようで、風は近くを通り過ぎて行っただけで済んだ。
「ふぅぅぅ……」
ゴウライも息を潜めており、ため息さえも、そっと吐いていた。
ガルは、と見ると、腕を組んで、じっとコランを見つめている。何度も腕を組み替えているところを見ると、心配で落ち着かないのだろう。
誰も声を立てない、静寂の時間が過ぎた。そんな中、着実にコランは前進を続けている。
―――あと少し。
もうここまで来ればいける。姿勢を崩しても、飛びさえすれば、向こう側に届く。そう言う距離まで、コランは到達した。
―――いける。いける。クイは、心の中で叫んでいた。掌を開いて、握りこんでいた汗を擦った。
クイは、そっと高台の天幕を窺った。向こうの望みどおりに事が運んでいるのは癪だが、これで文句は出ないだろう。
その時、天幕の方を見ていたのはクイだけだった。だから、その入り口の布が捲り上げられていた事に気付いたのも、クイだけだ。
「え……?」
そこから、何か細くて鋭い物が、物凄い勢いで飛び出して来た。
その投げつけられた何かが、槍であると分かったのは、視線を戻し、コランの背に突き刺さっている所を見てからだ。
誰もが眼を疑った。もう少し、なのである。間もなく渡り終え、再び地の上に立てる。そういう所で、急に槍が飛んできて、そしてコランの背に突き刺さったのだ。
幾つもの悲鳴が上がった。
そんな状態でじっとしていられるはずもなく、コランの体がぐらつく。
「落ちる!」
誰かの叫びが起因であるかのように、コランの姿勢が致命的に崩れた。
しかし彼は、最後の力を振り絞るようにして、綱を蹴って飛んだ。万全であれば、それで着地できたであろうが、今は無理だった。
飛距離は十分だったが、コランの足は地に付かない。辛うじて胸の辺りで縁にぶつかる。そのまま落ちて行きそうになる。コランの腕が伸び、縁を摑む。それで何とか、落下してしまうのを防いだ。
ただ、それで安心はできない。槍はコランの胸を打ち抜いている。すぐに力尽きてしまうのは眼に見えている。
「ゴウライっ!」 と、ガルが叫んだ。
見ると、彼はすでに行動を起こしている。
綱を弛ませ、輪を作り、そこに腕を入れて摑んでいる。
「ガル? 一体、何を――――」
構わずに、ガルは何かを目で測っている。
「よし、ゴウライ。あの剣でこの綱を切ってくれ」
「き、切るって、しかし、おまえ」
「良い! お前なら切れる!」
ガルはそう言って、飛び出す姿勢を取った。
「ちょっと、貴方まで落ち―――」
言いかけた所で、クイは眼を見張った。
ガルは、何だか、楽しそうな顔をしているではないか。
「いけるのね? よし、ゴウライ、やって!」
「なんだか知らんが……。おぉう!」
ゴウライは、渡士から奪った剣を取り出し、綱へと打ちつけた。




