クイ
1 クイ
遥か昔、昂の地は彼従という種族が支配していた。科人の多くは、彼従らを主と呼んで、絶対服従の関係にあった。
その領土・真統領の各地には、園主が治める園が設けられている。科人はそこで様々な形で奉仕しており、生産された物は燈都へと運ばれる。
燈都は彼従を統べる者・シン・トーがいる場所である。多数の区が連結し広大な都会が続くが、その賑わいもどこまでも広がっているわけではない。中心を離れるに連れ建物の密集具合は薄れていき、整備された区画が途切れると、その先には原生の森が広がっている。
燈都にいれば日々の食は保証されており、この時代の彼従にとっては必ずしも必要のない場所となっている。たまに都会の喧騒を離れ静かに時を過ごしたいと願う者や、娯楽のための狩りを敢行する者以外には、顧みられていない場所である。
混成の増殖が監理されている街中と異なり、そこでは多種多様な混成が自然のままに生きている。
牙や爪など生来の武器を育ててこなかった科人は、大抵の種で殺し合いの力は弱い。科人よりも巨大な混成は数多くおり、格好の餌と見られることが多い。中でも太古より変わらぬ姿と強靭な力を持つ太獣に襲われたならば、非力な无人では為す術がない。
恐怖そのものである太獣、その例をあげるならば、やはり、もっとも恐ろしいとされるキドンであろう。
硬い体毛に覆われ、見上げるような巨体を持ち、二足ながらも速力を誇る。そのうえ、決して獲物を逃さないという意思を感じさせる無数の牙、科人の骨など軽く噛み砕ける強靭な顎をもち、かつては彼従と死闘を繰り広げたともいわれる。
他にも、オスカブは複数の鋭利な角を持ち、小さな獣を突き刺したままで平気でいるという。シデンという大山猫は、まるでそこに存在しないかのように静かに動き、接近に気づいたときには、もう死が確定していると言われる。科人に近い姿をしながら、獰猛かつ強靭、さらには狡猾なテオエンもまた、科人を狙っている。
その危険に満ちた深い森の中を、燈都から遠ざかるようにして、巨大なものが移動している。
長い毛に覆われた皮膚は分厚く、どんな獣の牙でも深く貫けそうにない。その太い足は科人の背丈ほどもあり、蹴られれば吹き飛ばされ、踏まれれば平らな残骸に成り果てる。
多少の樹木など雑草と同然になぎ倒して進み、同属が何度も踏み均したせいか、独自の道ができている。
かつてはオリモスという太獣の一種として怖れられていたが、今では飼い慣らされ、促と呼ばれる混成である。
この促の背には、荒縄で荷が括り付けられている。その上には人が入れるほどの幌もかけられている。
その側に幼子がいる。
高所からの見晴らしが珍しいのか、興奮している。手触りのよさそうな絹の服を着ているが、少しだぶついており、袖から指だけが出ている。その短い手を精一杯伸ばして花を掴もうとした所で、促が揺れて姿勢を崩しそうになった。
「そんなにはしゃぐと落ちるぞ、クイさんよ」 と、笑いを含んだ声がかけられる。
促の前に立ち、手綱を引いている男の名はイゴと言い、渡士という職に付いている。
渡士の役目は、各地の園で得られた収穫物を回収して、燈都へと運ぶことである。促を制御する術を教えてもらっているとはいえ、その旅路はまだまだ危険に満ちている。促に頼らず、何か遭った時にすぐ死んでしまわないように、渡士自身も屈強な者でないと務まらない。
「はしゃいでいません。この枝が邪魔だっただけです」 と、クイと呼ばれた幼子がむきになって言い返した。
科人の中には、主の寵愛を受ける佳属という種があり、童人と呼ばれる一族は、一生の大半を愛らしい幼子の姿でいる。クイもまた、いたいけな見た目とは裏腹に、それなりの歳月を過ごしてきている。
広い世界を旅する渡士だけあって、イゴは物知りでもある。いきなり幼子が成人(大人のこと)のような口ぶりで話し始めても、それがありえないことではないと承知していた。
「はいはい。じゃあ、掻っ攫われないでくださいよ」 と、イゴは言う。
はっとなって、クイは首を竦めて、緑に覆われた空を見上げる。
鳥類は彼従により尊重すべき混成とされている。巨大な鳥も数多くおり、幼子程度ならば攫んでしまえるものもいる。鳥を傷つけることは許されないので、目を付けられれば厄介なことになる。
会話するように短い鳴き声は聞こえるが、今のところ、厄介そうな大きさのものはいない。
「脅かさないでよ」 と、クイは頬を膨らませた。
「今は空が塞がれているから、まぁ、大丈夫だ。ただ、たまに邪魔な枝がないときなど、急降下してきやがる。荷に穴を空けられたこともあり、油断はできない」
クイはもう一度樹冠に目を凝らし、首を振った。
「まさか華属に手を出そうなんて、不遜な輩がいるとは思えないけど」
佳属の中にも階層があり、クイたち童人は華属に属し、他の科人よりも優遇されている。
「奴らには区別がつきませんよ。彼従なら、ともかくね」
「むぅ……。日差しがきついわね。日に焼けてしまわないように、幌の中にいた方が良いかもね」
まだここら辺は背の高い木々が多く、その心配は無かったが、イゴは笑って言う。
「昼寝をしておくといい。奴らが出る前に」
そう言われて、クイは鼻息を鳴らした。
この森に入る前、クイには別の連れがいた。そのヨリという女は、追っ手をまくために無理をしてしまった。
たまたま行き逢ったコランに強引に命じて、ヨリを近くの園まで運ばせた。命に別状はなかったが、同行できる状態ではないとクイは見た。そっと離れていこうとするコランの手を掴み、一緒に旅をしてくれと頼み込んだ。
園の外を少人数で行くことに懲りたヨリは、得体の知れないコランだけでは不安で、せめて渡士の旅に同行させてもらうようにと懇願した。
そんな折、運よく最寄りの園に立ち寄っていたのが、イゴである。
曰くありげなクイの依頼を、イゴは拒まなかった。こうした不測の荷も、幾つもこなしてきたらしい。
ただ、一つ懸念があると出発前に言っていた。
「この先には、ビドが増えている」
園の外にも、野に生きる科人はいる。主に従うことを受け入れないくせに、文化的な暮らしを真似したがる。そうした者たちはビドと呼ばれ、蔑まれている。
ビドたちは无人たちだけだと付け上がり、時に徒党を組んで襲ってくる。燈都へと向かう荷物が狙われることがある。
イゴは歴戦の強者であり、ビドが多少群れて襲ってきた所で物ともしない。ところが、この先にいるビドの群れには、厄介な存在が加わっているという。
「へぇ、渡士でも怖いものがあるのね」 と、クイは興味を持って聞いた。
イゴは、むっとした顔をした。
「ビドなぞが、幾ら群れてこようと物の数ではない。だが聞いた話によると、新たに加わった仲間が侮れないらしい」 と、イゴはまだ短い髭をしごきながら答えた。
イゴはこの役に付いてまだ短いようだが、自信に満ち溢れている。鍛えられた肉体をしている上に、促を二頭も従えている。そのせいか、彼は自分が恐れているという事を認めたがらない。
「仲間、ということは、飼い慣らした獣じゃないのね。科人なの?」
「おそらく。逃げ帰って来た奴らによると、そいつは言葉を話し、ビドと意思疎通ができていた。熊のような巨体といえば、ふつうの科人ではない。闘人か、その成れの果て、野暴だろう」
「野暴?」 と、聴きなれない言葉をクイは聞き返した。闘人は、クイら童人と同じく佳属であり、その中でも華属と呼ばれる部類に入る。屈強な体を活かし、争闘を見世物として主を楽しませる。
「何らかの理由で、闘人が野に放たれることがある。放逐されたあと、野生で増えてしまうと、躾が為されておらず、大抵が周囲に迷惑を掛ける厄介者となる」
「うわ。私、闘人の奉闘を見たことがあるけど、科人とは思えない迫力だったわ。あれが、襲ってくるの? 大丈夫かしら……」
「なに、心配はいらない。俺は前にもビドを打ち払ってやったことがある。この顔を見れば、手出ししてはならない相手だと思い出してくれるさ」
「だったら、良いのだけど」
「……お嬢さん。その物言いは、どうにかならないか」
「え、そう? 気になる?」
「いくら貴女が童人で、佳属の一員だとしても、俺にも渡士としての誇りがある。燈都でのことならともかく、この旅の途中では、俺のことも少しは尊重してくれ」
「渡士風情が、えらそうね。主に言いつけてやろうかしら」
ここで引けないと思ったのか、イゴは声を強張らせていう。
「あぁ、するが良い。できるものなら、な」
「何ですって」 と、クイは凄んだ。外見は幼子でしかないが、その厳しい声の調子は、成人の女を怒らせてしまったかのような迫力があった。
イゴは頬を引きつらせて、無理やり余裕のある振りをした。
「お前、童人であることは確かだろうが、今もそうなのか」
「今、何て言ったの?」
「あぁ、ならば、言ってやろう。主の遣いだか何だか知らないが、それは本当か? 園の外を旅するのに、お前のような非力な者が選ばれるものか? 寵愛されているというなら、なおさらだ。遣いというのは、嘘じゃないのか」
「疑うの? 私が、誰に仕えて、誰に愛でられているか、知ってのこと?」
「う……、それは」
「その私が、主のために、自ら骨を折っているのに、それほどの大事があるというのに、協力を惜しむどころか、私の言を疑うと?」
「い、いや……そこまで、不遜ではないが」 と、イゴは大汗を掻いた。
「なら、黙って従いなさい。私たちを、無事に運びなさい」
「あいつも、か」
「あいつも、よ。いくらぼうっとした无人に見えても、私の連れなんだからね。丁重に運びなさい」
「……分かりましたよ。ただ、ビドが出たら、俺の働きを見てくださいよ」
「ええ。貴方が勇敢だというならば、見せてもらいましょう」
イゴはしぶしぶと言った内心を隠さず、頷いた。