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古嵐探譚  作者: 更紗 悟
序章
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序章

     序章


 暗い森の中を、息を切らして走る者がいる。その女の胸には、幼子が抱えられていた。

 足の運びは怪しく、何度も木の根に引っかかり、転げそうになる。表情は険しく、今にも意識を失いそうにも見えるが、その両手だけは力強く、幼子を抱きしめている。

 比較的木の密度が薄くなっており、月の光がまばらに地面を照らしていた。女はそこを通り抜け、再び暗がりに入り込む直前、振り返った。

 息苦しさにより、大きく口を開きたい所であろうが、我慢して息を潜める。泣きそうな顔で、今来た方向に眼を凝らしていると――――。

 ガサッと、葉を揺らす音が聞こえた。

 少し離れたところで、何かが茂みの側を駆け抜け、枝を引っ掛けたようである。女の後を追って来ている何かがいる、ということだ。

 そして、確実に追い付かれるとも感じたのだろう。ただでさえ血の気の薄い女の顔が、さらに歪んで蒼白になった。

 破滅的な展開を想像したのだろうが、それでも、女はただ待つことを選ばなかった。気丈にも振り返り、少しでも離れようとした。


 女が走り出して、さほど経たずして、何かが暗がりから飛び出してきた。四肢を地に付いて、頭は低い位置にある。小回りの利きそうな軽やかな動きをしている。

 それが一瞬立ち止まり、顔を上げた。何かを嗅ぎ取ったのか、女の立ち去った方向に眼を向ける。飛び跳ねるような勢いで、茂みへと駆け込んで行った。



 女は走り続けている。

 目隠しされているも同然のこの暗闇の中、転ばないのが奇跡に思える。

 何度か胸元に抱えた幼子に眼をやった。その都度、失われかけていた眼の光が蘇る。追われる恐怖よりも、何か使命感のようなものが、女を動かしているようである。

 女は少しでも距離を稼ごうとした。ところが、木の根に足を引っ掛けて、大きく姿勢を崩した。

 勢いがついており止まらない。前へと吹っ飛んでいく中、女は自分の身よりも、腕の中の幼子を守ろうとした。

 激しく転がり、体のあちこちを(したた)かに打ち付けて、女の体は止まった。


 女は動き出したが、立ち上がれない。動こうとする度に、うめき声をあげて苦しんでいた。片腕も動かなくなっており、幼子を持ち上げられていない。

 額に血を(したた)らせながら、女は幼子を見つめる。意識はないが、女が(かば)ったおかげで、傷は負っていないようだ。

「―――ごめんなさい。ここまでのようです」

 申し訳無さそうに、女は囁いた。

 まだ動けることは動けるが、幼子を抱えていくことはもう無理だった。

「時間を稼ぎます。その間に、貴方だけでも―――」

 女は何かを探すように、あたりを見回した。幼子だけでも隠せる場所を、求めているのであろう。

 あっと声が漏れた。その視線の先に、人影らしき輪郭がある。大木にもたれ掛かるようにして、誰かが座しているようである。

 助けが得られるかも、という期待に満ちた表情で、女は影に向かって声をかけようとした。だが――――。

「あぁ、なんてことを」 と、女は嘆きの声を上げた。

 這って近づいてみて、勘違いに気付いた。

 そこにあったのは、 科人(かじん)(人間のこと)の姿を模して作られた石像。生きた混成(まなり)(生物のこと)ではなく、ただの凝物(ぎょう)(無生物)であった。

 それは科人の中でもありふれた无人(ム・ジ)を模してあった。

 科人を統べる存在・彼従(ヒイト)が着る垂衣(すい)に似たものを被り、腰のところで紐で括ってある。紋が縫い込まれていたようであるが、今は古ぼけてはっきりしない。下は裳ではなく袴であるが、大分古びている。体は細かい凹凸まで再現できていて、こんな暗い所で出くわせば、そこに生きた男がいると思えてしまうほどだった。

「これだから、ビドは……。彼従でなくて科人などを崇めて、それでどうなると言うの。猿真似したんだろうけど、不敬にも程があるわ」

 憎々しげに像を睨みつけたあと、女は怒気を払うかのように首を振った。

 さらに近づき、石像の周囲を(あらた)める。すると、石像の背後に木の(うろ)があることに気付いた。ちょうど、幼子がすっぽり入り、石像が目隠ししてくれそうである。

「……仕方がない。曲がりなりにも、崇められるに足る何かがあったのよね。ならば、お願いします。その力で、どうか、この子を守ってください――――」

 女はそう言って幼子を洞に押し込み、僅かながら頭を下げた。


 それから、女は気力を振り絞り、その場を離れようとする。足を引き摺り、滴り落ちた血の痕も残っている。だが女はその痕跡を隠そうとしなかった。

 追っ手は獣ではないが、異常に鼻が利く。わざと血痕を残しながら動く事で、自分の方に引き寄せることができるかもしれない。そうして、幼子が見つけられる可能性を低くしようとしたのだろう。



 しばらくして、軽やかで忙しい足音が近付いてきた。地すれすれに吐き掛けられる荒々しい息遣いは、狼などのそれと似ている。

 立ち止まり、鼻を地面に近付けて匂いを探る。血の跡と、足を引き摺って移動した痕跡にすぐに気付いたようだ。

 ここで獲物は姿勢を崩し、傷を負った。まだ遠くに行っておらず、追えばすぐ追い付ける、と推測するのは容易だ。並みの獣であるならば、それで女の思惑に乗り、匂いを追ったことだろう。だが、こいつは違った。


 相当の怪我を負ったと思われる。もうさほど遠くには行けない、と女にも分かっただろう。自分の残り時間を悟れば、せめて幼子だけでも隠したい、と思うはずだ。そして、ここには、ちょうど眼をそらすのに適当な物がある。

 科人の像のことだ。

 人影があれば、なるべく関わるまいとするかもしれない。そうすれば見逃してくれると、女は期待したことだろう。

 だが、人影を恐れず近寄れるならば話は別だ。この影からは、混成の匂いはしない。その上、身動き一つしないとならば、これは凝物だとすぐに分かる。

 しかも、この凝物の後ろから、微かな息遣いがあるではないか。

「みィ、つけ、たぁ……」

 そいつは、声を出して言った。それから、前足を地から離して、背を伸ばした。

 追って来ていたのは、狼ではなかった。科人の一種で、狗人(ク・ジ)と呼ばれる混成である。

 口吻が全般的に前に突き出ており、牙が並んで見える。短い四肢は筋肉質で、爪は鋭く硬化している。直立した今、顔は前面を向いている。剛毛に覆われているが、表情ははっきりと表れており、今は残忍な笑みを浮かべていた。


 無造作に近づき、首を横にして、石像の背後を窺う。

 突如、狗人は飛び退った。動かないと見なした物が、予想に反して動いたから、驚いたのである。

 石像と思われたものが、むくりと身を起し、立ち上がった。

 狗人はそれを凝視していた。自分の眼が信じられないのだろう。何もしないのに、凝物が混成のように動くはずはない。だが、多少ぎこちなく感じるが、動きは科人のそれである。

 科人と凝物を取り違えてしまったのだろうか。勘違いだとすれば、迂闊すぎた。

 牙を剥いて、姿勢を低くして、狗人は臨戦態勢を取った。

 科人だとしても問題はない。何にせよ、目の前に障害があるならば、暴力で排除する。そう気持ちを切り替えたようである。

 ところが、その相手は、全く動じる様子を見せない。威嚇に対して、身構える気もないようである。

 違和感が増すにつれ、恐怖も膨れ上がってきたのだろう。我慢し切れなくなった狗人は、口をがばりと開き、男に飛び掛った。

 狙われた喉もとを庇おうとしたのか、男は無造作に腕を前に突き出した。その動きは遅く、狗人の牙が突き立てられる。

「……ぐぅ」 と、苦悶の声が上がった。

 苦しそうなのは、噛み付いた狗人の方であった。

 ―――硬い。硬すぎる、と言わんばかりの表情だ。

 どれだけ鍛えてあっても、噛み付いた先に肉の弾力があるのが混成である。柔らかさと堅さを兼ね備えなければ、柔軟に動けないものだから。

 それなのに、こいつは何だ? 岩でも噛んでしまったかのようだ。

 さらには、痛がるどころか、牙を外そうとする素振りも見せない。

 おもむろに男は、腕をぐいと持ち上げた。牙が食い込んだままの狗人の体も、その動きに伴って浮かされてしまう。狗人が逃れようとする前に、男は素早く腕を振り下ろした。

 容赦なく地面に叩きつけられ、狗人はあっさりと意識を失った。



 男は狗人を見下ろしている。上手く狗人の意識を絶てたようで、しばらく動きそうにない。

 前腕を抱え、無事な方の手で(さす)っていた。狗人の牙はかなり深く食い込んでいたけれども、そう難儀にしている風ではない。すぐに擦るのを止め、ぶらりと手を下げた。もう痛みがある様子はなく、また、不具合も無い様だった。

 男は振り返り、洞に押し込まれている幼子を見下ろした。

 しばらく黙考した後、無言で踵を返した。明らかに、幼子など見て見なかった振りをして、立ち去ろうとしていた。

「―――ちょっと」

 突然、女の声で叱責された。

「まさか、このまま見て見ぬふりをするの?」

 男は振り返り、自分を咎めた声の主を探した。

 はっきりとした物言いは、成熟した女のそれであった。けれども、周囲に他に人影はない。立ち去った女も戻ってきていない。一応は、狗人がまだ意識を取り戻していない事も確認する。

 視線をさ迷わせた挙げ句、再び幼子を見やる。その見た目からすれば、まだしっかりと話せるかどうかという年頃のはすだが……。

「いえ、私よ」と、幼子が喋った。

「こんなか弱い子を置いていくの? そんな薄情なこと、できないわよね?」

 にっこりと、幼子が笑った。

 男は、不思議な物を見るように、じっと幼子を見つめていた。


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