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〈断崖〉からみおろす眺望は、例えるものもないほど美しい。
滔々と流れる川。
群れをなして飛ぶ鳥たち。
複雑怪奇な、それでいて調和あるたたずまいをみせる木々の色合いの玄妙さ。
これがすべてザイドモール家の領地だというのだから、驚くほかない。
とはいえ、現状では断崖を降りるだけで一苦労しなくてはならない。断崖からみわたせる地域を開発できるのは、遠い未来のことになるだろう。そんな日が来るとしての話だが。
ひとしきり崖際の風光を味わってから、風のゆるい場所まで降りて昼食をとった。今日の昼食は豪勢である。姫と姫付き侍女のマリンカが、手ずから昼食を取り分けてくれた。
今日の姫はごきげんである。
この一年ほどで、姫はこどもから娘へと変貌を遂げた。たしか今十三歳と聞いた覚えがあるが、この年齢は女性にとって特別な成長期なのだろうか。今までは考えたこともなかった。
はじめて会ったあの日も、姫は〈断崖〉に来た帰りだったという。それ以来、ここに来るのは四度目だが、いつもレカンは護衛についている。
最初のうちは館のなかでもずいぶんうさんくさい視線を浴びせられたが、筆頭騎士であるエザクがレカンに剣を教わりはじめ、やがてほとんどの騎士や従卒がレカンを師と仰ぐようになってからは、レカンが護衛につけば安心だという空気が広がった。
昼食が終わったあと、姫はもう一度〈断崖〉の縁に立った。
なぜかレカンは、その横顔に寂しさをみた。
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その三日後、館では祝いがあった。
ルビアナフェル姫が十四歳の誕生日を迎えたのだ。
貴族女性にとり、十四歳は特別な誕生日だ。
その日を境に、おとなになったとみなされる。
婚姻も可能となる。
さらに一か月のち、レカンは、二日間本館への出入りを禁じられた。ということは、他の貴族家からの客があるのだ。
これ幸いと遠出をしたレカンは、恐ろしく強い青点を感知した。
魔獣だ。
強大な魔獣だ。
普段なら近づかないような山奥なので、たぶん放置しても危険はない。しかしこの魔獣は町や村に近づいてくるかもしれず、また、町や村の人が魔獣の棲む場所に近づくこともあるかもしれない。
山陰からそっと接近した。
まだ〈立体知覚〉の範囲外なので、残された右目で魔獣をじっくりながめる。身長が二十歩を超え、体高が十歩を超える巨大な怪物だ。
体躯は小山のようにそそり立っており、背中は槍のようなとげに覆われている。
身を低くして、盛り上がった土を遮蔽物としてなおも接近すると、やっと〈立体知覚〉の範囲に巨獣を収めることができた。
頭部は小さく、目は三つある。三つの目がある魔獣ははじめてみた。額にある三つめの目は異様に大きく、下側の二つの目とは別に動いている。六本の足は、体の大きさに比べれば小さい。たぶん移動速度は速くないだろう。
巨獣は、仕留めた獲物を喰っている。
そのようすをみながら、レカンは迷っていた。
(このままではこの魔獣の攻撃方法についても弱点についてもわからない)(危険だが)(仕掛けてみるか)(それとも)(撤退するか)
じっと魔獣の気配を感じ取ってみる。
(だめだな)(これは)(挑むのは無謀だ)
レカンが撤退を決めた、ちょうどそのとき、巨獣の額の目がレカンのほうを向いた。土の塊が遮蔽しているにもかかわらず、巨獣の目はまっすぐレカンのほうを向いている。そして巨獣は獲物をかじるのをやめ、ぶるぶると身を震わせた。
レカンは悪寒に襲われ、物音が立つのも構わず後ろに飛びすさった。
巨獣は、背中の槍のようなとげを射出した。何十本ものとげが、すさまじい勢いで盛り上がった土を突き崩し、レカンに襲いかかった。
だがその直前、レカンは高く跳躍して呪文を唱えていた。
「〈風よ〉!」
たちまち風が巻き起こり、レカンを上空に運ぶ。〈突風〉の能力だ。
その足すれすれをとげが通過し、後ろの木々をなぎはらっていった。恐ろしい破壊力である。
「〈風よ〉! 〈風よ〉! 〈風よ〉! 〈風よ〉!」
続けざまにレカンは〈突風〉を発動した。
〈突風〉は、自分の動きを加速したり、相手の動きを阻害したりする能力であり、空を飛ぶ能力ではない。だが今はなりふりをかまってはいられない。体内の魔力を根こそぎつぎ込んででも、距離を取る必要がある。
レカンは空を飛びながら、首をひねって右目で怪物をみた。怪物が息を吸っている。何かの予備動作だ。
「〈風よ〉!」
今度は、上から下にたたきつける風を起こした。
地上に向かって虚空を移動するレカンの頭上を怪物の魔法攻撃が通り過ぎる。
(冷気?)(こいつは冷気のブレスを吐くのか!)
地上に降り立ったレカンは、そのまま怪物に背を向けて走りはじめた。すでに怪物との距離は百歩を超えている。問題なく逃げきれるだろう。
だが、その考えは甘かった。
背後で木々がへし折れる音がする。大規模な自然災害のような音だ。
ちらりと振り返ってみると、体を丸めて恐ろしい勢いで転がってくる怪物の姿がみえた。
「〈風よ〉!」
風の魔法に後押しをさせて、レカンは激走した。木々の枝が、顔や手を傷つけるが、そんなことにかまってはいられない。
ずいぶん長く走ったあと、怪物が転がる音が急に遠ざかった。あんな巨体が筋肉の力だけであんなにも高速で転がれるわけがなく、たぶん魔力で転がっていたのだ。つまり燃料切れだろう。
だが、燃料切れはレカンも同じだ。
充分に安全な距離まで逃げると、レカンはへたり込んだ。そして呼吸が整うと、〈収納〉から小型の魔石を六個ほど取り出して魔力を吸った。
それからふと思いついて、ザイドモール家から支給された魔法薬を取り出して飲んだ。
ひどい味だった。喉の奥にからまるえぐみが、いつまでも残っている。こんなものを平気で飲んでいるのだとしたら、この世界の人間は味覚がおかしい。
それほどいやな思いをして飲んだのに、顔や手の擦り傷は消えない。こちらの世界の魔法薬は効き目が遅いのだろうか。ずいぶん長いあいだ待ってみたが、いっこうに効果が現れないので、もとの世界の下級治癒薬を飲んだ。たちまち傷が治りはじめた。即座に傷が消えるというわけにはいかないが、明日になればほとんどないも同然になるだろう。もちろん、左目はつぶれたままだ。つぶれた直後に上級治癒薬を飲めば治っただろうが、当時はそんな物を買う金はなかった。
そうしているあいだにも、〈生命感知〉で怪物の動きはみはっている。
ザイドモール領に来ることがないか、しばらくみはっていたら、夜明けごろに帰着することになった。
本館の正面に馬車が止まっている。馬はいない。厩舎にいるのだろう。
ひどく豪華な馬車だった。
その豪華さに、なぜか不吉さを感じた。