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フィンケル迷宮を出たレカンは、王都に入った。
目指すはワズロフ家の屋敷だ。そこで食事を取り、一泊してからマシャジャインに行く。ノーマが心配だ。留守のあいだにヤックルベンドが何かを仕掛けてきていないか確認しておかなければならない。
雑踏のなかを歩きながら、ずっと自分がみたものの意味を考えていた。
主のない迷宮。
迷宮の不自然な状態。
〈命名 ジェリコ〉という文字の意味。
命名とは、どういう行為か。
密偵ニルフトは、こう言っていた。
「レカン様。この世界では神々に認められた正当な改名をするのでなければ、加護を失うばかりか、神々の怒りを買うこともあります。名を変えるというのは、よほどのことです」
この世界では、名づけるという行為には、それだけの重みがあるのだ。
その重みのある出来事が、あそこで起きた。
ある仮説がレカンのなかでまとまりつつあった。
荒唐無稽といえばそうにちがいないが、これをなした存在は、いずれにせよ常識でははかれない人間だ。
たぶん、そうだ。
そうにちがいない。
レカンの直感は、その結論が正しいことをほとんど確信していた。
「レカン様?」
名を呼ばれて立ち止まった。
頭巾をかぶった二人の男が、通り過ぎる人を避けながら、こちらに近づいてくる。
どことなくみおぼえのある男たちだ。
「これはこれは、レカン様。レカン様も王都にお越しだったのですね」
「うん?」
「お久しぶりにございます。薬師シザムにございます」
「薬師マシュラムにございます」
「もしかして、スカラベル導師の弟子だったか?」
「はい! お会いできてうれしゅうございます」
「元気そうで何よりだ。スカラベルも元気にしているか?」
「はい。もうそれは大変にお元気で。レカン様。失礼ですが、お目が」
「ああ。迷宮で神薬を手に入れてな。両目がみえるようになった」
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
「ああ」
マシュラムはあたりをみまわすようなしぐさをして、レカンにさらに近寄り、小さな声で言った。
「今、シーラ様が導師様のもとにご滞在中でございますが、ご存じですか」
「いや、知らん。ああ、だが、訪ねると言ってたな。そうか。今、来てるのか」
「はい。五日前から」
「導師様は大変な上機嫌で、用事はできるだけ断って、シーラ様とお話を楽しんでおられます。そして」
シザムは言葉をそこで切って、口に手を当て、ごく小さな声で続きをしゃべった。
「毎晩お互いに〈浄化〉を掛け合っておられます」
「はは。それはいい。うん。それはいいな」
「レカン様もお越しになりませんか。導師様はきっと喜ばれます」
「ああ。ちょうどシーラに会いたいと思ってたんだ。案内してもらえるか」
マシュラムは用事を済ませに行くと言って別れ、シザムがレカンを案内した。
スカラベルは年輪を刻んだ顔にやわらかな笑みを浮かべ、レカンを歓迎した。
みるからに体調はよい。そして、若返ってみえる。肌は健康で血色がよく、そして何より動作がしなやかでよどみがない。相変わらず頭頂部には髪がないが。
シーラはそこにいた。
心なしか、前に会ったときより元気であるようにみえる。
いや、実際にそうなのだろう。あれからシーラは自分に〈浄化〉をかけ続けているはずだ。
しばらく三人で楽しく話した。後ろに何人も弟子たちが立って話を聞いてるが、なぜかあまり気にならなかった。最初に話題になったのは、もちろんレカンの左目のことだ。レカンはどこの迷宮でとは言わず、迷宮の主を倒したら神薬が出た、と言った。
スカラベルは、王宮に約束があるからと出かけた。その出際に、シーラがこう言った。
「スカラベル。あたしはこれからレカンと行くところがある。今夜は帰らないかもしれない」
「え? それは残念です。師よ、明日はここに来てくださるのでしょうか」
「確約はできないね。でも、王都を離れる前に一度はあいさつに来るよ」
「それを聞いて安心いたしました。では行ってまいります。あ、師兄。結婚式にはお呼びくださるのでしょうな」
「その呼び方はやめてくれ。あんたは王都を離れられないんじゃなかったか?」
「万難を排して参ります」
「そんな無理はしなくていいが、わかった。あんたに招待状を出すように、マシャジャイン侯爵に言っておく。招待状は一枚でいいんだな?」
「できますれば、私と、アーマミールに。それと、私には二人ほど付き添いが付くと思います」
「わかった。たぶん大丈夫だ」
スカラベルをみおくったあと、シーラとレカンはスカラベルの屋敷を出た。
シーラはすたすたと歩いてゆく。
レカンは黙ってそのあとを追った。
やがて静かな住宅街のなかの一軒の家の門をシーラはくぐった。
レカンは、身をかがめながらあとに続いた。
「おや。お帰りなさいませ」
庭の掃除をしていた老人がシーラにあいさつした。
「ああ。今日は客がいるんだ。掃除が終わったら、どっかでうまいもんでも食べな。それから、すまないけど、今夜は宿にでも泊まるか、実家に帰るかしてもらいたいんだ」
そう言って、大銀貨一枚を老人に与えた。
「ありがとうございます。それじゃ、土産を買って、孫の顔をみてきます」
「ああ」
シーラが二階に上がったので、レカンはついて行った。
二階の奥の部屋に入ると、シーラはレカンに椅子を勧め、棚からゴブレットとワインを出して、レカンにワインをつぎ、自分にもついだ。
「再会を祝して、ジョー・ジョード」
「ジョー・ジョード」
ワインが喉を滑り落ち、レカンの全身に活力を与えた。
「ふうっ。うまい」
「そりゃよかった」
「聞きたいことが山ほどある」
「なんか、そんな感じだね」
何から質問しようかと思いつつ、レカンはゴブレットのワインをくゆらせ、飲み込んだ。そして自分でおかわりをついだ。
「スカラベルは、うれしそうだったな」
「ああ。そりゃあもう、喜んでくれた」
「あんたもうれしそうだったな」
「こんなに楽しい思いをしながら人とくっちゃべって何日も過ごすなんて、何年ぶりかねえ」
「何百年ぶりの間違いだろう」
「おだまり。そう言うあんたも、楽しそうに話すスカラベルをみる目は優しかったし、うれしそうだったよ」
「ああ。あれはいいやつだ。そして、たいしたやつだ。あいつの体が元気になって、よかった。しかも今回、心も元気になったようだな。何よりだ」
「そういえば、あたしも結婚式には呼んでもらえるんだろうね」
さすがのレカンも目をみひらいて驚いた。
「呼んだら来てくれるのか?」
「スカラベルに招待状を送るっていうのに、あたしを招待しないって法はないだろう。行くさ」
来て大丈夫なのかと思ったが、シーラのことだ、何とかなるのだろう。
「では、ヴォーカのあんたの隠れ家に、招待状を届ける。あんたに来てもらえれば、こんなにうれしいことはない」
「人並みのことが言えるようになってきたんだね。結構、結構」