7
7
十階層に踏み入ってみると、レカンの〈生命感知〉には、一つだけ青い光点が映った。ごく小さな光点だ。さほど大きくもない部屋の一番奥に、その光点はあった。
レカンは前に進んだ。
ごつごつした岩の床だ。壁もごつごつしており、天井も同様である。
ひょっとして壁から闇精が染み出してくるかもしれないと、多少の警戒はしたが、ずっと奥のほうに進んでも、何も起きなかった。
ここまでは下に下りるほど敵が強くなり、多くなったから、この階層でも手応えだけはあるだろうと思っていた。しかしこれでは拍子抜けである。
レカンはただ一体の敵の二十歩ほど手前で立ち止まり、〈立体知覚〉と〈魔力感知〉で相手を探った。
人間型の魔獣だ。
こどもほどの大きさだろう。
今は膝を抱え込むようにして座り込んでいて、顔もうつむいているので、正確な容姿はわからないが、強者の気配はまったくしない。やせ細った体にぼろのようなものをまとっている。
魔力もごくわずかしか持たない。
取るに足りない敵だ。
「〈図化〉」
魔法を発動させて、この階層の構造を探った。
「なにっ?」
下に続く階段がない。
ということは、ここが最下層なのだろう。
それとも、この一体の弱々しい敵を倒したら、さらなる下層への階段が現れるのだろうか。
(まさか、な)
(大迷宮でもあるまいに)
本当に十階層で終わりなのだ。
なんという手応えのない迷宮だろうか。
となれば、さっさと目の前の敵を倒して迷宮を出るだけだ。
レカンが一歩を踏み出したとき、魔獣が顔を上げた。
骸骨のような顔だった。
ぞくっ、と寒気がして、レカンは足を止めた。
戦いのなかで磨き続けたレカンの勘が、不用意に進むなと告げている。
薄暗がりのなかで目をこらせば、骸骨というわけではなく、骸骨のようにやせ細ってはいるが、肉はついている。というより、骸骨に干からびた肉をべたべたと張り付けたような顔をしている。
その魔獣が立ち上がった。
老人が立ち上がるような、のろのろとした動作だ。
立った姿もひょろひょろしていて、軽く風を吹かせたら、それだけで倒れて体中の骨が折れてしまうように思える。
ぼろだと思っていたものはぼろではなかった。
肉だ。
ただれた肉が骨に張り付いて、ぶらぶらと揺れているのだ。
みれば、全身の骨にまとわりつく肉は、すべて腐りきっているかのように、ぬめぬめしていて、おぞましい色をしている。
頭部からは、髪の残骸のようなものが垂れ下がっている。
水草を腐らせたような髪だ。
不快な臭いが漂ってくる。
レカンは、踏み出しかけた右脚を後ろに引いた。
(腐肉王か?)
妖魔系幽鬼族の最上位に腐肉王という魔獣がいることは、知識として知っていた。その容姿についてはよく知らないが、何となく、これがそうなのではないかと思った。
レカンは腰に吊った〈妖魔斬り〉を抜いた。ようやくこの剣の出番だ。
「〈展開〉!」
〈ウォルカンの盾〉を展開して胸元に構えた。
そして一歩を踏み出した。
腐肉王が右手を上げ、人さし指をちょこんと動かした。
すると黒い稲妻のようなものが生じ、レカンに襲いかかった。
その黒い稲妻は、〈インテュアドロの首飾り〉の障壁に阻まれ、大きな爆発を起こした。
レカンは驚いた。
こんな強力な魔法攻撃ができるような魔力は持っていなかったはずだ。
(いや。もしかすると)
(とてつもなく効率のいい魔法が使えるやつなのかもしれん)
(それにしてもこの魔力量ではたいしたことはできんはずだが)
腐肉王は、右手を少し下げ、首を左にかしげた。
自分の攻撃が防がれたことが不思議なのだろうか。
その表情は、少し笑っているようにもみえた。
レカンは素早く前進して、腐肉王の眼前に迫り、〈妖魔斬り〉を振りおろした。
腐肉王が消えた。
レカンは、振り返った。
部屋の中央に腐肉王がいた。
(転移だと!)
(しかし魔力を練る気配などなかった)
白炎狼でさえ、ごく一瞬ではあるが魔力を練ってから転移していた。しかも転移を行ったときには、そこにはっきり魔力の残滓を感じた。
ところが今腐肉王が転移したとき、魔力を練るような時間はなかったし、転移したとき魔力の残滓も感じ取れなかった。
(この迷宮の魔獣は魔法でなければ倒せなかった)
(こいつもそうなのかもしれん)
「〈縮小〉」
レカンは、〈ウォルカンの盾〉を手甲に戻すと、油断なく〈妖魔斬り〉を構えたまま左手を突き出し、魔力を練った。
「〈炎槍〉!」
太く青白い炎の槍が腐肉王を襲った。
腐肉王を倒すはずの爆発は起きなかった。
腐肉王は何事もなかったかのように、そこにそのまま立っている。
その曲がった骨の右手の人さし指の前に、ぐるぐると渦を巻く魔力の塊がある。
レカンが放った魔法攻撃を、腐肉王はあっさりと吸い取り、自らの制御下に置いてしまったのだ。
ずっと昔、シーラから聞いた言葉がレカンの脳裏によみがえった。
《呪文なしで、しかもすっと呼吸するように魔法を使うやつは、普通の人間じゃない。それは、存在そのもののありようが魔法的な基盤に立っているやつだ。本質の世界で生きているやつだ。もしもそんなやつに出遭ったら、レカン、逃げるんだ、すぐ。たとえ相手がごく小さな魔力しか持っていないとしてもだ。そいつはあんたとは格がちがう。あんたの弱点は、まばたき一つのあいだにみぬかれて、殺されるか、もっとひどい目に遭わされるさ》
今レカンの目の前にいる敵は、そもそも人間ではない。だが、この腐肉王こそ、シーラの言った〈存在そのもののありようが魔法的な基盤に立っているやつ〉なのではないのか。
レカンの背筋に寒気が走った。