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達人級の〈隠蔽〉であっても、明るい場所でじっとみつめられれば、そこに何かいるということはわかるという。そして、一度相手がそう思えば、その相手には〈隠蔽〉が効かなくなる。
また、じっとしていれば〈隠蔽〉は解けにくいが、移動すれば弱まってしまう。まして、声を発したり、剣や魔法で攻撃をしたりしようものなら、たちまち〈隠蔽〉は解けてしまう。
レカンは達人級の使い手とはいえないが、今は夜である。そして見張りの者たちは、みな北の塔のほうに向いていて、その意識も北の塔に向けられている。この状況でなら、見張りに気づかれずに北の塔に侵入できる可能性は高い。
ゆっくり、ゆっくりと、レカンは前進する。
遊歩道が終わった。〈コールの恵み〉はここでいったん地下に潜り、北の塔などに引き込まれるほか、城の敷地のなかにめぐらされた石造りの小川を流れ、いくつもの小さな池を潤して、ユーフォニアの町に流れ込んでいくのだ。
ありがたいことに風が吹いていて、木々の木の葉がざわめいている。〈コールの恵み〉は水音を立て続けている。だからレカンの押し殺した足音は、見張りたちの耳には入らないようだ。
ゆっくり、ゆっくりと、人の少ない場所に移動する。
〈立体知覚〉が北の塔に届く位置まで来た。
静止状態で〈白魔の足環〉を発動させたときの移動距離は、もう充分に把握している。だが、多少の誤差は覚悟しておくべきだ。飛ぶ先には荷物や家具がないほうがいい。
やがて、空っぽの倉庫のような場所に行き当たった。
(ようし)
(ここだ)
(もう少し前に進まんといかんな)
近くにいる見張りが、ほんの少し首をめぐらせば、レカンはみつかってしまうだろう。
わずか五歩ほどの距離を、ひどく時間をかけて移動した。
ここでいい、という地点までくると、停止して、ふうっと息をはいた。
(さて、やるか)
(みつかるかもしれんが)
(そのときはそのときのことだ)
右腕を折り曲げ、貴王熊の外套の袖で口を覆った。
あらかじめ拾っておいた石を後ろに投げた。
がさっ、と音がする。
「誰だ!」
見張りが声をあげるのに合わせ、小声で呪文を唱えた。
「〈ゾルアス・クルト・ヴェンダ〉」
レカンは北の塔のなかに転移した。
体を覆っていた魔力が消えている。〈白魔の足環〉を使うと、〈隠蔽〉は解けてしまうようだ。
(無事に跳べたか)
(魔法障壁は越えられると思っていたが)
(実験したことはなかったからな)
(やはり始原の恩寵品は優秀だ)
石造りの塔のなかであり、この部屋には窓もないから、真っ暗だ。
〈立体知覚〉で周囲を探りながら、戸口のほうに進む。
扉を軽く押すが、引っかかって開かない。
〈立体知覚〉でよく確認してみれば、施錠してある。といっても、扉の取っ手に棒を差し込んだだけの簡単な施錠だ。
「〈移動〉」
鍵を外し、扉を開けて前に進む。
一階と二階に人がいるようだ。
二階にいる十人ほどは、ひとかたまりになっている。
同じ部屋にいるのだろう。会議をしているのかもしれない。そのなかに二人の魔力持ちもいる。つまりルビアナフェルは二階にいる。
階段を探して歩き始めた。すると何段目かを上ったところで少し石段が沈む感じがして、ぎいっ、と大きな音がした。
(うおっ?)
(驚かせてくれる)
(石造りの階段なのに)
(どうして木がきしむような音がするんだ?)
(だがこのまま歩くのは悪手だな)
「〈浮遊〉〈移動〉」
宙をただよって階段の上空を漂い、二階についた。
着地して、歩き始める。
(うん?)
(一人こちらにやって来ている)
レカンは立ち止まった。
石の回廊に、小さな明かり取りの窓から星明かりが差し込んでいる。
相手はまっすぐにレカンのいる場所に向かって来る。
(こいつは驚いた)
(まるで迷宮深層の冒険者のような気配を感じる)
(いったい何者だ?)
手燭を持っている。揺らぎのない光だ。魔道具だろう。
その明かりに照らされて、レカンの姿が浮かび上がる。
レカンは動かない。隠れようともしない。
相手が持つ手燭の光が、レカンの右目を刺した。
八歩ほどの距離を残して、その男は止まった。
「まさか本当に侵入者だったとはな。どうやって入ってきた?」
威厳に満ちた張りのある声だ。四十歳前後だろうか。
「断りもなく夜分に来て、すまん。オレの名はレカン。冒険者だ。ここにオレの知り合いがいると聞いて、安否を確かめに来た」
「なに? 知り合いとは誰だ」
「ザイドモール家のルビアナフェル姫。ここでは次期領主殿の正妃と聞いた」
逆光でよくみえないが、相手の顔に驚きが浮かんだような気がした。
「知り合い、と言ったな?」
「ああ」
「では、北神の御方様も、お前をご存じなのだな?」
「それがルビアナフェル姫のことなら、そうだ」
「マリンカ殿はどうか」
「そういえばマリンカも一緒に来たんだったな。もちろんマリンカもオレを知っている」
「そうか。では、ここで待ってもらえるか」
「わかった」
しばらくして、男が戻ってきた。後ろに魔力のある人間を連れている。女だ。
男の持つ手燭がレカンの姿を浮かび上がらせると、その女は両手で口をふさぐようなしぐさをした。
「嘘。本当に、レカン。御方様の祈りが……通じた」
懐かしい声だった。
「マリンカか。久しぶりだ」
「久しぶりです、レカン。まさか本当にあなたが来てくださるとは。ノッドレイン様。この人はまちがいなく、レカンです。御方様が待ち望んでいた人です」
「待ち望んでいた? どういう意味ですかな、マリンカ殿」
「それは御方様にお聞きくださいませ。今はとにかく、レカンを御方様のもとに」
(待ち望んでいただと?)
(ルビアナフェルがオレを待っていたというのか)
レカンは、マリンカに先導されて、ルビアナフェル姫が待つという部屋に歩いていった。