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何の前兆もなく、戦いは始まった。
大剛鬼が繰り出してきた右手の一撃を、あやうくレカンはかわしそこねるところだった。その一撃が、あまりにも素早く、あまりにも自然に繰り出されたからである。右手の指を軽くまげて、斜め上から軽く振り下ろすような攻撃を、レカンは完全にはかわしそこねた。
鋭い刃物で斬るような痛みが頬に走った。それにかまわずレカンは、両手でにぎった剣で大剛鬼の右腕を払おうとしたが、そのときには大剛鬼は右腕を引いており、かわりに左足を振り上げて攻撃してきた。
レカンはさらに大きく下がるしかない。左頬から流れ出た血が宙に三筋の糸を引く。
大剛鬼は、左腕のこぶしを胸元に打ち込んできた。レカンは剣の柄でそのこぶしを打ち落として大剛鬼の首筋に斬りつけようとしたが、大剛鬼のこぶしを完全に殺すことはできず、こぶしはそのままレカンの右脇腹をかすった。レカンは左に跳んで逃げた。
爪がかすっただけの左頬が鋭く切り裂かれている。大剛鬼の爪は、尋常な硬度ではない。右のあばら骨が何本か折れた。だがこの程度なら動きはさほど妨げられないだろう。
考えるまもなく大剛鬼の右足がすさまじい音を立てて振り回され、レカンの左胸に迫る。その攻撃をなかば予測していたレカンは、大剛鬼の右足のすねに、愛剣をたたきつけた。
硬い物を打ち合わせたような音がして、火花が散った。
何とか大剛鬼の足を打ち返すことはできたが、レカンの両手はしびれを感じていた。
大剛鬼の左足が攻撃の予兆をみせた。だがそれはみせかけだけのことで、右手の指を開き上から振り下ろすようにたたきつけてきた。レカンは愛剣を左下から右上に切り上げて防御した。
大剛鬼は左手の指を開いて真横からなぎ払ってきた。レカンは再び左に飛びすさったが、外套の裾がはためいて、大剛鬼の爪を受けた。
着地点からさらに左に飛びながら、レカンは右目をみひらいた。
物理攻撃にも魔法攻撃にも驚異的な防御力をほこる外套の裾が、斬り裂かれている。
この大剛鬼の爪には、何か秘密がある。そういえば、手で攻撃するとき、こぶしを握りしめての攻撃は一度だけで、あとは指を立てて攻撃してきた。つまり爪で攻撃してきた。爪の攻撃こそが、この大剛鬼の得意技なのだ。
いずれにしても、この外套を斬り裂いてしまうような攻撃をまともに受けたら甚大な痛手を負う。受けた場所によっては死ぬ。
それから何合かレカンと大剛鬼は打ち合った。襲いかかる大剛鬼の腕に、レカンは愛剣を打ち込んでいった。大剛鬼の腕に幾筋もの傷がつき、血が流れている。だが大剛鬼は痛みを感じているようすもないし、動きがおとろえる気配もない。
大剛鬼の左腕をレカンがかわした。そのときはためいた外套のすそを、大剛鬼は左手でつかみ、レカンに右手で攻撃しようとしたが、レカンは体を沈めながら右足で大剛鬼の左足を蹴り飛ばして相手の体勢をくずした。
だが大剛鬼は素早く体勢を立て直し、右手のこぶしを突き出した。そのこぶしはレカンの腹を直撃した。レカンは後ろに飛びすさって衝撃を殺したが、少なくない損傷を受けた。
大きく吹き飛ばされたレカンを、大剛鬼が追う。レカンの後ろは壁である。〈立体知覚〉で正確に壁の位置を把握していたレカンは、左足を軸足にして右足で後ろの壁を蹴り、反動で前に飛び出した。剣を突きの形にかまえ、全身の体重を乗せて。
大剛鬼は腕を交差させて剣を受けた。剣は深々と大剛鬼の左腕を貫通し、右腕に刺さった。
大剛鬼は、後ろに倒れ込んで、突進してきた勢いのまま、足から滑り込んだ。しぜん、レカンは大剛鬼の体の上に持ち上げられる。
大剛鬼の右足がレカンの腹を深く蹴り飛ばす。レカンは上空に跳ね上げられ、剣は大剛鬼の腕からするりと抜けた。
空中で体をひねってレカンは両足で着地し、そのままためを作って突進しようとしたが、一足早く壁を蹴って大剛鬼が頭からレカンに迫っていた。
レカンは愛剣を振り下ろす。
愛剣は大剛鬼の首筋を左後ろからとらえたが、これは首を切り落とす攻撃ではない。たたきつけた剣の勢いを利用してレカンは中空に飛び上がり、大剛鬼は突進した勢いのまま、反対側の壁際まで突き進んだ。
レカンと大剛鬼は、十五歩ほど離れて対峙した。そしてそれぞれ呼吸を調えている。わずかな時間休憩をしたら、再び両者は互いに必殺の攻撃をぶつけ合う。どちらが強いか、その結論を出すために。
レカンは後悔していた。〈ザナの守護石〉を装備しておくべきだった。今からではどうしようもない。片手を〈収納〉に突っ込んで守護石を取り出し、首にかけるのを、この強敵が待ってくれるわけはない。一瞬の隙をみせただけで、こちらの首が刈り取られる。十五歩の距離など、あってないようなものだ。
あることに気づいた。外套の左の裾に穴が空いていない。先ほど大剛鬼はここをつかんで強く引いた。なのに爪による穴がない。
つまりあの爪は、いつもいつもあの驚異的な威力を持つのではないのだ。ここぞというとき、たぶん大剛鬼自身の意志を受けて、あの威力は発揮されるのだ。要するに、あれは一種の技能による威力なのだ。
(まてよ)(オレも技能を持っているじゃないか)(きわめて有用な技能を)
レカンは両手で剣をかまえ、油断なく敵をにらみつけながら、はっきりとした言葉で呪文を唱えた。
「〈移動〉」
〈移動〉により、〈収納〉から〈ザナの守護石〉が引き出され、黒いシャツのポケットに入った。
大剛鬼は少し目を細めてレカンをみつめている。レカンはごく微弱な魔力を使って魔法を使っているが、それがどんな魔法なのか、大剛鬼にはわからないはずである。大剛鬼は、レカンをみつめながら、気力を練っている。強い攻撃を準備しているのだ。それはこの魔獣の全身全霊をかけた、最強の攻撃だろう。
「〈移動〉」
もう一度呪文を唱えた。ポケットのふたを閉めたのである。
何かが変わったという感触は少しもない。だが、たった今、〈守護石〉の持つ絶大な効果が、レカンの攻撃に付与されるようになったはずである。
大剛鬼が突進してきた。
レカンも突進して迎え撃つ。
大剛鬼は両手を高く振り上げた。すべての指は、鉤爪のように曲がっている。今あの十本の指は、鋼鉄をもたやすく斬り裂く威力を持っているだろう。
レカンは右にも左にも逃げなかった。
突進してくる大剛鬼の頭上から、渾身の力をこめて愛剣を振り下ろした。
一瞬のあいだに、いくつかのことが起きた。
レカンの愛剣は、大剛鬼の頭の角を斬り裂き、顔にめりこみ、口に達する位置まで食い込んだ。
そして、真っ二つに折れた。
大剛鬼が振り下ろしてきた両手の爪は、いかなる執念によるものか、そのままレカンの首筋を、両側から襲った。
死にながらも突進してくる大剛鬼の体に押されてあおむけに倒れ込みながら、レカンは、首筋に敵の爪が食い込むのを感じ、自分が死ぬことを知った。