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レカンがザイドモール家に滞在して、一年が過ぎようとしている。
この土地で暮らす上で最大の難関であった言葉も、ずいぶん学習できていた。もっとも、レカンは流暢に話しているつもりでも、周りからみればまだまだたどたどしい。ただし、この世界の教育水準は低く、ちゃんとした話ができる人間のほうが少ないのだから、格別目立ちもしない。字はきたないし語彙もまだまだ少ないが、一応読み書きもできる。
庭の隅にある小さな小屋が、レカンの住居だ。
レカンの睡眠時間は短い。今朝も夜明け前に起き出して森を走り、小型の魔獣を二匹仕留めた。
そのあと騎士エザクに剣の稽古をつけた。最近では屋敷の騎士と従卒全員が指導を乞うようになり、レカンの小屋の前はちょっとした修業場となっている。
朝食のあとに姫の部屋に行くように言われた。
「おはよう、レカン」
「おはようございます、ルビー」
ルビアナフェル姫の斜め後ろに立つ侍女頭のグリアが、わずかに鋭い目をしたが、こればかりはしかたがない。
姫は自分のことを、ルビーと呼ぶように言う。ルビアナフェル姫と呼ぶことも、お嬢様と呼ぶことも決して許さない。これはレカンに対してだけそうなのであって、この館で姫のことをルビーという愛称で呼び捨てにする者は、父親である当主のほかは、王都の騎士団に在籍している兄だけだ。それなのに姫は、レカンがルビーと呼ぶことにこだわった。グリアが何と言って言い聞かせても意見を変えなかった。だからしかたがないのだ。しかたがないのだけれど、レカンが姫のことを愛称で呼ぶとき、グリアはきつい視線をレカンに送る。
とはいえ、姫が自分を愛称で呼ばせるのは、グリアか、側付き侍女のマリンカだけがそばにいるときに限られている。他の者の前では、レカンにこの呼びかけを強要しないのである。
「私の狼さん、お願いがあるのだけれども」
レカンは右手の指をきれいにそろえて左胸に当てた。了解の印である。
姫は異国情緒たっぷりのこのしぐさを、ひどく気に入っている。
「〈断崖〉に行きたいの。守ってくださいな」
「イェール。エザクの指示があれば、オレは従う」
「お父様にお許しを頂いてあるから大丈夫よ。エザクにはこれから言うわ。それでね、レカン。今日はお仕着せではなくて、あなた自身の服を着てほしいの。あの素敵な外套もね」
レカンは再び右手を左胸に当てた。奇妙な指示ではあるが、人目につかない森の奥に行くのだから、どんな格好をしていても、そう問題になることはないだろう。
小屋に帰ったレカンは、貸し与えられているお仕着せの服を脱いで、自分の服を着た。見栄えのしない黒いベストは、千々岩蜘蛛の糸でできた逸品で、驚異的な魔力防御の性能を持つ。汚れてもとの色がわからなくなったズボンも、希少素材を混ぜ込んで優れた職人が仕上げたものだ。
しばらく小屋の外で素振りをしていると、騎士エザクがやってきた。
「レカン。仕事だ。お嬢さまの馬車を護衛する。すぐに出られるか?」
「わかった。すぐ出る」
小屋に入って、隅に吊ってある外套を羽織った。この外套を着ると、大きな安心感に包まれる。しばらく着ていなかったためか、少しごわごわした手触りだ。この外套は貴王熊の皮でできている。物理防御にも魔法防御にも優れている。しかも、襟の奧に縫い込んだ宝玉には〈自動修復〉の付与がある。
外套をまとって出たレカンをみて、騎士エザクは眉をひそめた。どうみても貴族家の護衛にはみえないのだから、無理もない。だが、この外套を着ることは、姫の希望なのだ。
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〈断崖〉までの道のりを、馬車の後ろについて歩きながら、レカンは考えごとをしていた。
(そろそろ潮時だろうな)
ザイドモール家の居心地は悪くない。悪くないどころか、とてもいい。みるからに異邦人であるレカンを受け入れてくれている。
それが当たり前でないことは、町や村に降りたときにわかった。町や村でレカンは、注目され、怪しまれ、避けられる存在だ。領主に雇われた護衛の剣士だという噂が広がってからは、いくぶん視線の温度も上がったが、それでも好意的な応対をされることはない。
だが、せっかくみしらぬ国に来たのだ。田舎の小さな領主家でくすぶっているのは、性に合わない。みたことのないものをみたい。戦ったことのない強者と戦いたい。富と力を得たい。ザイドモール家での暮らしは平穏すぎる。
それに、ボウドがどこかにいるかもしれない。会ってどうなるというものでもないが、二年ほど相棒として旅をともにしたボウドのことを、レカンは気に入っていた。ボウドと一緒なら、どんな強敵とも戦える。危険な冒険もできる。
この世界にも迷宮があるという。迷宮の魔獣は魔石を残すほか、時折珍しい宝物を落とすという。ぜひ迷宮には行ってみたい。地上のさまざまな魔獣とも戦ってみたい。
いつか、もといた世界に戻れるかもしれない。そのときに備えて、たっぷりの土産を手にしておかねばならない。
そんなことを考えているうちに、〈生命感知〉に魔獣が引っかかった。先頭を馬で行くエザクに追いつき、指の合図で一行を離れることに了解を得てから、レカンは外套の裾をばさりとひるがえして森に走り込んだ。
いた。
蜘蛛猿だ。なかなか大型である。人間と同じほどの背丈がある。蜘蛛猿もこの大きさになると、樹上ではなく地上を移動するようになる。樹上にいるときは六本の手足にあまり機能の差がないが、地上では四本を足とし、二本を腕とする。この腕は非常に強力で、人間の頭など、軽く握りつぶしてしまう。
蜘蛛猿が威嚇の雄叫びを上げようとしたので、ナイフを放って喉をつぶした。そして近寄りざまに首を斬り飛ばし、右胸を深く裂いた。
噴き出す血が収まるのを待って魔石を取り出し、ぼろ布で拭いてから〈収納〉にしまい込んだ。
確かめてみたのだが、この世界でも、生きている魔獣から魔石を取ることができない。魔石は魔獣が死んだ瞬間に生成されるものだからである。たいていは、胸のなかの心臓と対の位置に生成されるが、多少は種族差や個体差がある。
この世界でも魔石は珍重される。強大な魔獣が残す強力な魔石は、目をむくような高額で取引されるという。
この世界での魔石の利用法を教えてもらった。
まず、魔法使いが大きな魔法を使うときに魔石を利用するという。これは、もとの世界でも普通に行われていたし、レカン自身も利用している。ただし、魔石から直接魔力を吸うというのが当たり前なのかどうかは確認できていない。
次に、神官が秘儀を行うときに使うという。具体的に何をどうするのかは、まだよくわからない。
また、この世界では、魔石を魔道具の燃料とするという。
魔道具というのが何なのか、まだ詳しいことはわかっていない。この館にも光を発する魔道具があるとはいうが、みたことはない。いずれにしても、もとの世界にはなかったものであり、持って帰れば、まちがいなく金になる。
そして、魔法薬を作るときに使うという。これはもとの世界と同じだ。ただし、この用途に使うのは、ほかに使えないような、小さくて弱い魔石だという。
魔道具を作る職人を魔道具技師というが、ザイドモール家の領地に魔道具技師はいないようだ。魔法薬を作る薬師はいる。レカンは、得た魔石の半分ほどをエザクに差し出しているが、ザイドモール家は、家臣たちが得た魔石をそのまま薬師に届けているようだ。薬師は無料で魔石を得る代わりに、できた魔法薬のうちの半分ほどと、売上のいくばくかをザイドモール家に納めているという。
もとの世界では、付与師と呼ばれる職業があり、付与師は魔石の魔力を使って宝玉や装身具に有用な機能を付与した。この世界には、どうも付与師がいないのではないかと思われる。ということは、レカンが持っている物品のうち、付与のついた品は、あまりみせないほうがよい。
行列に戻ったレカンは、エザクと目で合図をかわすと、馬車の後ろに収まった。魔獣が出たときには、姫の目や耳に入らない距離でレカンが始末する。それがすっかり習慣になっている。
この一年ばかり、レカンの仕事は当主か姫が外出するときの護衛である。ただし、それはもっぱら森や村に行くときに限られ、他家の貴族の目にとまるような場所には、レカンを連れて行かない。理由を説明されたことはないが、そのほうがザイドモール家にとってもレカン自身にとっても無難だと、レカンは納得している。