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第三十階層に踏み込む直前、レカンは〈ザナの守護石〉を装着しようかと思った。ルビアナフェル姫と宝玉を交換し合って手に入れたこの守護石は、装着者の攻撃力を格段に引き上げてくれる。
だが、やめた。
守護石の付加なしで戦ってみたかったのだ。手ごわい敵であれば、その時点で装着すればよい。
このときレカンの心には油断があった。
もとの世界の迷宮では、階層ボスと戦いはじめたら部屋は閉ざされ、ボスか挑戦者全員のどちらかが死ぬまでどこにも行けなかった。ところがこの世界の迷宮ではそうではない。大型魔獣と戦っていても、いくらでも逃げることができたし、階段に入れば魔獣は追ってこない。だから最下層も似たようなものだろうと考えていたのである。
愛剣を〈収納〉から取り出す。銀色の指輪は何日か前からはめたままだ。
第三十階層に足を踏み入れた瞬間、〈生命感知〉の情報が頭のなかに映った。
そこには、何もない。魔獣も、人間も、まったく何も映っていない。レカンは〈生命感知〉の範囲を移動した。
いた。
強力な魔獣が一体いた。
ほかにはいないのだろうか。
階層の隅々まで探索してみたが、やはりこの一箇所だけだ。魔獣を示す青い大きな光点が、この階層にはただ一箇所だけある。
そうではないかと思っていた。というのは、便覧によると、最下層には、猿鬼族第一階位の魔獣である大剛鬼がいて、これがこの迷宮の主であるという。
主というのは複数だとは考えにくいので、最下層には大剛鬼がただ一匹だけおり、ほかの魔獣はいないのかもしれない、と考えていたのである。
それにしても、情報が少ない。便覧には、ほかの魔獣については、攻撃方法や弱点などが書いてあるが、この最下層の魔獣についてはそれがない。そればかりか、「倒した際の再出現までの期間は不明」とあるから、誰かがこの階層にたどりついて大剛鬼を目撃したことはあるのだろうが、勝った者はいないのかもしれない。
だが、地図がある。チェイニーからもらった地図には、第三十階層の各部屋の配置と出入り口の位置も、きちんと記されている。探索が相当進まなければ、こんなものは作れない。
(まてよ)(これを倒してもかまわんのだろうな)
チェイニーは何と言っていたろうか。
迷宮の主を倒すと、迷宮のすべての魔獣が消滅し、主が再出現するまでほかの魔獣も出現しない。そのため、迷宮を管理する貴族は、主を殺すことをいやがる、と言っていた。
しかしまた、主の討伐は名誉ある行為なので、表向きは禁止できない、とも言っていた。
(殺してかまわんということだな)
いずれにしても、ここまで来て引き返すつもりもない。レカンは確かな足取りで、次々と部屋を移動して、階層の中央に進んだ。
近づくにつれて、背筋がぞくぞくする。体中が予感しているのだ。この先に、かつてない強大な敵がいると。
レカンの足取りはゆるまない。
一歩一歩、敵に近づいてゆく。
やがて敵が〈立体知覚〉の範囲に入った。〈立体知覚〉に映る敵は、意外に小さな身体をしている。人間か、と思わせるシルエットをしている。
部屋の入り口に立ち止まった。この部屋には出入り口が一つしかない。
今や敵の姿は肉眼にみえている。
敵はあおむけに寝転んで、ぐうぐうといびきをかいている。
レカンは、部屋のなかに足を踏み入れた。
敵はまだ寝ている。
〈魔力感知〉で調べてみたが、さほど強い魔力の持ち主ではない。
筋骨隆々としたおとなの戦士といっても通用する外見だ。しかしよくみれば、やはり人とはちがう。一番のちがいは頭部だ。頭部からは何十本という角が四方八方に向けて伸びている。額の上の二本の角は格別に大きく、ぐねりとねじ曲がりながら、その凶暴な先端は前に向かって突き出している。
下半身は毛深い。いかにも獣らしい毛深さだ。
だが上半身は、黄金色のうぶ毛がびっしりと生えているものの、強靱な筋肉は隠れることもなく現れている。
鋼鉄をねじり合わせたような上半身だ。いったいどれほどの力があり、どれほどの硬さがあるだろう。
まだ大剛鬼は寝ている。
「起きろ」
レカンが声をかけると、いびきがぴたりとやんだ。
次の瞬間、大剛鬼は立ち上がっていた。
予備動作もなく、むだな動きも停滞もなく、すっと起き上がった。あまりにもしなやかに立ち上がったために、いつ立ったかが記憶に残らないほどだ。
対峙してみると、両者の身長は、ほぼひとしい。ただし、頭部から突き出した角を入れて身長がひとしいのであって、それを除けばレカンのほうがわずかに高い。肩幅は大剛鬼のほうが広い。胸の厚みも、比べものにならないほど、大剛鬼がまさっている。体重を比べたら、相当に大剛鬼が重いだろう。
顔はやはり人間とは似ても似つかない獣の顔だ。だがもしかすると、人によってはレカンより人間にみえる、と言うかもしれない。
命をかけた戦いの予感に、レカンの全身がふるえた。
大剛鬼が、両の目を細めてみせた。
笑ったのだ。