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あれは二十五年前のことだった。
新米の暗殺者だったニルフトは、ボルドリン家の使節団に紛れ込んでマシャジャインの町に行った。ワズロフ家に慶事があり、祝いの使者が出されたのだ。
ワズロフ家の本館に入ることができる機会など、めったにあるものではない。この機会にワズロフ家本館の警備態勢を調べてくるよう、ボルドリン家の支配者であるカッサンドラは命じた。
べつにワズロフ家に敵対する意志があったわけではない。敵であろうが味方であろうが、何かのときには忍び込めるようにしておくのは、貴族として珍しいことではない。
ボルドリン家の使節団を迎える騎士たちの先頭にいたのが、ジンガー・タウエルだ。事前にワズロフ家の主立った人物は調べてあったから、もちろんその名は知っていた。
ジンガーの視線を浴びたとき、ニルフトは思わず全身が縮み上がった。
(俺の正体を知られた!)
間違いなく気づいている。自分が密偵であり、暗殺者であると。そう感じた。
怖くて恐くて、その夜は宿舎のベッドで震えていた。
そしてウーヅが帰ってこなかった。
ウーヅはニルフトの先輩であり師匠だ。ニルフトに密偵のわざと暗殺のわざを仕込んでくれた人だ。
あの鬼のように強く、悪魔のようにずるがしこいウーヅが失敗し、つかまったのだ。うまくすれば自殺できたろうが、そうでなければ地獄を味わっているはずだ。
もちろん、他家を訪れた際には、建物の配置を覚えたり、外からみてわかる程度の間取りを把握することは誰でも行う。しかしそうした探索にはおのずから許される範囲というものがあり、案内もされていない建物のなかに侵入したのがみつかれば、相応の報いを受けることになる。その建物に重要人物がいたりすれば、暗殺しようとしたと疑われてもしかたがない。
使節団の代表者は真っ青になって、ぶるぶる震えていた。
どんなとがめがあるかと思っていたら、何事もなく帰らせてもらえた。
話を聞いたカッサンドラも震え上がった。そしていつ問責の使者が来るかとおびえていたが、結局そんなものは来なかった。ワズロフ家にとっては、わざわざ罪を問うほどの出来事ではなかったのだ。
それからというもの、ニルフトは極度に臆病になった。そしてわざをみがいた。人にみられないように隠れるわざを。
そんなニルフトを、なぜかカッサンドラは気に入り、重用した。いつしか、たかが密偵で暗殺者の身分であるにもかかわらず、ニルフトはカッサンドラの側近のような立場になってしまった。カッサンドラがボルドリン家内の誰かに指示を出すとき伝令に立つのはニルフトであったし、家内の者たちも、カッサンドラに言葉を届けたいときにはニルフトをあてにした。
ニルフトは、〈隠蔽〉の魔法を習い覚え、毒針による暗殺術を教わり、この二つの技術を磨きに磨いた。カッサンドラに頼み込んで魔法を五発ためておける杖を手に入れ、ささやくような小声で確実に発動する訓練を積んだ。誰にも気づかれずに侵入し脱出する技術を鍛えあげた。
最近になってようやく自分のわざに自信が持てるようになり、ジンガーの記憶にうなされることもなくなってきた。
ここヴォーカに到着し、ゴンクール家に迎えられ、頃よしとみてドプスを暗殺したが、まったく簡単な仕事だった。巡回の兵士はいたが、それだけだ。〈隠蔽〉の魔法を使う必要さえなかった。物陰に隠れて巡回をやり過ごし、音が立たないよう蝶番に油を流し込んでドアを開き、音をさせないようベッドに忍び寄り、平白蛇の毒を塗った針を標的に突き立てる。それで終わりだった。
ニルフトは複数の毒をいつも持っているが、使うのは決まって平白蛇の毒だ。この毒は、ほかの毒のように一瞬で相手を殺すことはできないが、針に塗ったままでも長い時間変質せず、効果を失わないという利点がある。そして何よりありふれた毒なので足がつきにくい。
カッサンドラは、どこで手に入れたのか、今回女王毒を用意してくれたが、あれは珍しすぎて、調べればどこからどこに流れたものかわかる可能性がある。そんな危険なものは使わない。平白蛇の毒には解毒剤もあるが、待ち構えていて解毒するのでなくては間に合わない。そして効き目はすぐに現れるから、出会い頭の敵を倒すのにも役に立つ。何かの間違いで自分自身がこの毒に冒されたときには、常に携帯している解毒剤で助かる。こんなに便利な毒はほかにないと、ニルフトは思っている。
ドプスが死んだ以上、もうニルフトの仕事は終わりだ。思わぬ成り行きでゴンクール家の親族会議がのぞけることになったから、プラド・ゴンクールがしたり顔でガイプスを後継者と定め、後見人を決めるのをながめて帰ればいい。報告すれば、カッサンドラはさぞ楽しんでくれるだろう。
ところがその親族会議の部屋に、やつが現れた。ジンガー・タウエルが。あのときと同じ忌まわしい鎧姿で。ニルフトは、あまりの衝撃に、しばらく身動きすることもできなかった。
そのあとは、少々奇妙なことが起きた。当主のプラドが、ボルドリン家の一行に部屋を出るよう命じたのだ。これはおかしなことだった。陪席を許さないのなら、最初からそうすればよかった。執事のカンネルという人物は、この家で唯一の要注意人物というべき相手で、そういう手順を誤るような人間ではないはずなのだ。
だが、もっけの幸いである。ニルフトは、あの恐ろしい騎士の目が光るこの部屋から、そそくさと退出しようとした。
ところが、騎士カロダン・ホイストが、大変なことをしでかしてくれた。
こともあろうに、騎士ジンガー・タウエルが、ワズロフ家の騎士でもないのにワズロフ家の紋章がついた鎧を着ている偽者だと非難したのだ。




