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狼は眠らない  作者: 支援BIS
第35話 ゴンクール家の後継者
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4


「思いきって原稿を整理し書き直されてはいかがかのう」

 そうラクルスに提案されたのは、一の月の二十六日のことだ。

 そのことは、いわれるまでもなく、これまで何百回となく心をよぎった。

 しかし、踏み切れなかった。

 読みやすい文章に直すことはできる。順番を変え、重複を削除し、用語をわかりやすくし、文脈を整え、首尾一貫した文章に直すことはできる。さらに、舌足らずの部分を書き足し、別の草稿でふれていた事例や結論を差し込み、ノーマが直接父から教えられたことを下敷きにして、欠けたものを書き足して、全体をきちんと整えることはできる。それができにくい研究もあるが、ほとんどのものはそうできるし、結論が出ていない部分ははっきりとそう書けばよいだけのことだ。

 だが、それをすれば、微妙な表現のなかに込められた父の葛藤やアイデアの萌芽が消し飛んでしまう。

 父サースフリーは真の天才だった。経験と技術が個々ばらばらに所有されていた世界に体系的な薬草学を打ち立てたのだ。そのようなことは誰にもできない。

 ノーマは偉そうに薬草学を語ることができる。しかしそれはすべて父が何もないところから紡ぎ上げた知の大系なのだ。あとからみて、あれはこうだね、これはこうだねと分析したり批評したりすることはできる。だがそれを生み出したものこそ真の開拓者だ。

 サースフリーは、文章は達者ではなかった。だがそれだけに、残した研究の一語一語一節一節には、天才ならではの奇抜な発想がこもっている。

 それを読みやすい文章に直すということは、その着想のきらめきをそぎ落とすということにほかならない。

 もちろん、文章そのものの先にあるもの、言葉と言葉のあいだにあるもの、そんなひらめきを読み取れる者は百人に一人だ。そのうえ、そのひらめきを実際の論理としてくみ取り、展開の基盤として生かせる者は、千人に一人だ。そのほかの人間にとって、サースフリーの文章は、ただの読みにくい文章だ。ああ、しかし。

 その読みにくさにこそ、現れようとしている何ものかがある。天才のひらめきが捉えた真実の断片がある。それを削り落とすということは、不世出の研究者サースフリーを殺すことではないのか。

 サースフリーから教えを受け、小さなころからサースフリーの考え方、動き方、ものの発想のしかたをみてきた自分には、サースフリーの言葉を翻訳する能力がある。サースフリーの言いたかったことを言葉にするだけの蓄積がある。だがそれは、神と人との対話を人間の側に引きずり落とすことと何がちがうのか。

 そう考えれば考えるほど、サースフリーの文章に手を入れることはためらわれた。その言葉を一字一句たがえずに後世に伝えることこそ自分の使命であると考えてきた。あまりにわかりにくい部分や誤解を招きかねない叙述については、解説を巻末に加えて補えばいいと考えていた。

 だがその一方で、それではいけないのではないか、とも思ってきた。

 わかるように書かねば、サースフリーの偉大さも伝わらない。せっかく本になるという千載一遇の機会を神がお与えくださったのだ。一人でも多くの人が理解できるような本にすべきではないのか。

 そうした迷いのなかにいたノーマの心に、ラクルスの投じた石は、大きな波紋を描いた。


5


「何か悩んでいるのかね、ノーマ殿」

「ああ、これは失礼。ちょっと考え事をしていました」

 一の月の三十一日、ノーマはゴンクール家に往診に来ていた。

 ゴンクール家からは定期的に往診の依頼がある。エダの〈回復〉に要望があったのは二回だけで、あとは以前と同じノーマへの往診依頼だ。エダは冒険者としての仕事が多く、ノーマも最近はめったに会えない。

 ゴンクール家の当主とはおだやかな関係を取り戻したようにみえる。プラドは跡継ぎの孫をレカンに斬殺されたのだから、レカンをゴンクール家に連れて来たノーマになにがしか複雑な思いがないわけはない。だが、プラドも執事のカンネルも、表面上はノーマに以前通り丁寧に接している。使用人たちの態度にも棘を感じない。

 不思議なことに、そんなゴンクール家で過ごす時間は、ノーマにとって心安らぐ時間となっている。

「実は」

 細かなことは伏せて、ノーマは悩みをプラドに打ち明けた。こんなことははじめてである。

 話を聞いたプラドは、静かに茶を口に運びながら、何かを考えているようだったが、やがて口を開いた。

「ノーマ殿」

 おや、とノーマは思った。

 今まで、丁寧ではあるけれど他人行儀な空気をプラドには感じていた。しかしノーマの側には、どんないきさつがあったにせよ、プラドは母の父であり自分の祖父であるという思いがあり、プラドが健康に長生きしてくれるよう祈っていた。

 だが、今、自分の名を呼んだ声には、いつもの冷徹さではなく、何か優しげな、何か踏み込むような響きを感じた。もしかすると、プラドは今、孫娘に何かを語ろうとしているのかもしれない。

「マシュカ・ペーレとタニダの話を知っておるかな?」

「マシュカ・ペーレ? いえ。家名も名も知りません」

 顔に上品な笑いを浮かべ、プラドはノーマに古い歴史の話をした。

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― 新着の感想 ―
[一言] 翻訳の難しさと似たものがありそうですね。
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