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「それで、どうなったのかな」
「クライトンじいさんの脅しが効いたのかニチソンさん、すぐに謝ってきたんです。そりゃもう、こっちがびっくりするぐらいの低姿勢で。そのあとも、やたらあたいにつきまとって、べたべたお世辞を並べ立てて」
「はははは。商人の鑑というべきかな」
「ノーマさんでもげんなりすると思いますよ。あそこまでみえすいた手のひら返しをされると」
「それにしても、そのクライトンさんか? その人は、うまいことをニチソンさんに言ってくれたね。もしかして、エダ。君の仕込みかい?」
「仕込んだというほどじゃないけど、目で合図しました」
「ははは。それは愉快。うーん。あのエダが腹芸を使いこなすようになるとは。人間はわずかなあいだに成長するものなんだなあ」
「わずかなあいだといえば、この前あたいがヴォーカを出たときにはノーマさん施療所にいたのに、帰ってきたらいないから、びっくりです。ラクルス様に聞いたら、ゴンクール屋敷に移ったっていうし、もう何がなんだか」
「ははは。そういえば、ゴンクール家から使いが来たのは、ちょうどエダがこの町を出発した日だったね。その話はあとでゆっくりさせてもらうよ」
エダとノーマの会話を、静かにジンガーがみまもっている。
エダは、ノーマがいて、ジンガーがいる、この空気が好きだ。それは、こうして茶を飲みながらくつろぐ場所が、施療所からゴンクール家に移った今も変わらない。
「では、告発とやらはしなかったんだね?」
「しました」
「おやおや」
「ニチソンさんのやりかたは、ちょっと目に余ります。協会長に直接告発しました。協会長のほうは、契約違反の件より、あたいにただで〈回復〉をさせようとしたことを重くみてたみたいですね。領主様に報告するって言ってました」
「領主様からはゴンクール家にも通達がきているよ。君の扱いについてのね」
「あたいの?」
「薬聖様がらみだよ。冒険者エダに不当な扱いをすべからずという通達さ。貴族家全部と神殿に出したみたいだけど、冒険者協会にも似たような連絡があったんだろうね。ニチソンさんのことはバンタロイ領主様には何か言ったかい?」
「いえ。バンタロイ領主様は、今回の護衛依頼のこととは何の関係もありませんから」
「それでいい。バンタロイ領主様まで巻き込んではいけない。それでは虎の威を借る狐になってしまうし、不必要な借りを作ることになりかねない」
少しのあいだ沈黙が流れた。
「ニチソンさんの考えもわかるんです」
「ほう?」
「ヴォーカの野菜はすごくおいしくて安いです。バンタロイに比べると」
「うん。そうだね」
「それに、今この町には大勢の冒険者が集まっているので、いい肉がたくさん安く手に入ります」
「そういえばそうだね」
「ある程度の量をバンタロイに持っていけば、いい商売になります。でも野菜はかさばりますから、まともに護衛をつけたら利益がなくなってしまうと思うんです」
「ほう。それはその通りだろうね」
「ニチソンさんは最近外から来た商人ですから、そこに目をつけてうまい商売が成り立たないか試してみてると思うんです。今回はたまたま魔獣の襲撃があったから痛い目をみたけど、そうでなかったら、あの護衛で足りるじゃないか、ってことになったと思うんです」
「なるほど、なるほど」
「そしていつか冒険者たちが、取り返しのつかない被害を受けることになります。そうならないように、今回は厳しくしなきゃいけなかったんです」
「恐れ入った。そこまで考えていたとはね」
「それと、今回、野菜と肉がおもでしたけど、たぶんほんとは、毛皮や薬草をもっとたくさん仕入れたかったんです。でも思ったほど集まらなかったようで、そのへんも護衛を減らしたのと関係あるかもしれません。これはクライトンさんの受け売りですけど」
「なるほどね」
ドアを静かにノックする音がした。
「どうぞ」
顔をのぞかしたのは、執事のカンネルだ。
「ノーマ様。ラクルス師がご到着されました」
「ああ、もうそんな時間か。こちらに通っていただきなさい」
「はい」
すぐ後ろに控えていた筆写師のラクルスが部屋に入ってくる。弟子のパームが荷物を持ってあとに続く。
「ノーマ様。お邪魔します」
「こんにちは、ラクルス殿。パーム殿も」
「エダ殿もおいででしたか」
「こんにちは。ラクルス様」
「そのような仰々しい言い方はやめていただきたいものじゃ」
「じゃあ、ラクルス殿」
「エダ殿は素直でいらっしゃる」
「いやいや。最近くせ者でね。まあ、まずは座ってください」
それから二人は座り、茶が運ばれてきて、しばらく談笑した。
そのあとラクルスの質問にノーマが答える時間となった。
「ここの部分は、〈しかるうえ〉ではなく、〈しかしながら〉としたほうがよいのではと思いましてな」
「ふむふむ。ああ、そうですね。そのように直してください」
「承知しました」
「ラクルス殿。いつも言うように、そのような文章上のことはあなたのご一存でどのようにでも直していただければよいのです」
「いやいや。文字面だけを追っておると、そこにこめられた深い内容をみおとしてしまうことがありますからの。ご面倒でもいちいち確認させていただきたい」
「もちろん私のほうに異存はありません。よい本に仕上がることが私の、そして父の願いです」
「それからこちらの文章なのですがな」
ラクルスは、神官アーマミールが派遣してきた筆写師である。筆写師のなかでも、文章家と呼ばれる専門職だ。
学者が書いた本を刊行するとして、直筆の原稿を、本の形に調える必要がある。というのは、学者は専門領域のことにはくわしくても、文章にたけているとは限らない。わかりにくい言い回しや、誤字や脱字、文意の混乱や、用語の不統一など、原稿にはさまざまな問題があるものなのである。
そしてまた、手書きの原稿と、筆写師が調える本とは、書式体裁の上でもさまざまなちがいがある。
章番号を記す位置や形式。あるいは改行した場合の処理。どこからどこまでを見開きに収めるか。引用文の場合、出典の著者名や書名は、どの位置にどの大きさで記すかなど、本には本としての決まりがある。
それにその本の格式や対象とする読み手によって言葉遣いがちがう。この言葉遣いの専門家を修辞家というが、ラクルスは修辞家としての技能知識も備えている。
そのほか人名の間違いや年号の間違い、事実誤認なども含め、原稿を本にするにあたり、確認すべきことは多い。
特に学問の専門書を本にする場合、原稿から原本を作成する人は、博覧強記で多方面の知識を有し、かつ本の書式にも長じている必要がある。
原稿から原本を作る際には、大幅な修正があるものなのである。
逆に文章家によって調えられた原本から写本を作る場合、何一つ変えることは許されない。どのページに何文字をどのような配置で収めるかということまで含めて、忠実に原本に従わねばならないのだ。もしも間違いをみつけたとしても、勝手に直してはいけない。気がついたことは巻末に署名入りで書き記す。当然、写本から作られた写本には、巻末の注記が増えることになる。
原本から写本を作る人には、文章家とはちがう能力が求められる。それは、美しく格調高い文字を書くという能力である。インクをつけてどこからどこまで字を書くか、どの文字は強く書くか、どの文字を飾り文字にするかなど、本を本として仕上げるための知識とセンスと技術が要求される。この作業の専門家は、筆耕家と呼ばれる。
ラクルスは文章家の大家だ。ここヴォーカに来るには、弟子二人を連れ、馬車たっぷり一台分の資料を持参した。ノーマの診療所を宿舎としてヴォーカに滞在しているのだが、もうすっかりノーマの父の遺稿に夢中で、寸暇をおしんで作業に励んでいる。
ほどなく質問は終わり、ラクルスはここゴンクール屋敷から馬車で診療所に帰っていった。
毎日決まった時間に馬車を迎えに差し向けているのである。
ノーマはぽつりとつぶやいた。
「レカンはどうしてるかなあ」
「きっと、いそいそツボルト迷宮を攻略してますよ。もう百階層は越えたかも」
「はははは。いくらなんでもそれはないだろう。ジンガーはどう思う?」
「そうですな。レカン殿のことですから、もう五十階層に到達しているかもしれません」
実はこの日、つまり二の月の二十三日には、レカンは百六階層を突破している。