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狼は眠らない  作者: 支援BIS
間話2
280/702

学士サンドラ

1


 〈リーコネン地区〉というのは、ヴォーカの町の北西部にある住宅街の通称だ。

 ここは中流階級の人々が住む閑静な区域で、街路に植えられたリーコネンの樹がいつのまにか愛称になった。

 そのリーコネン地区のなかほどにある、あるこじんまりした住宅を、十年ほど前に一人の女性が購入した。もともと高名な筆写師が建てた家で、小さいが趣味のよい庭があり、一人で悠々と暮らすのに向いた造りになっている。

 この家を購入した女性は、かなりの年配ではあるが、立ち姿はかくしゃくとしており、言葉遣いは少しくだけているものの、高い学識を備えている。

 越してきてしばらくは、近所の住人たちも、ここにそんな女性が住むようになったことを知らなかった。

 この女性のことが周りに知られるようになったのは、隣家での一つの事件がきっかけだった。

 当時十二歳だった隣家の長男のボンフルが、二階のベランダから転落して、庭石で頭を打ったのだ。

 母親のリカーヌが半狂乱のようになって騒ぎ立て、父親のジャストンは、施療師を呼びに使用人を走らせながら、もうこの子は助からないだろうと思っていた。

 そこにこの女性が現れて、中赤ポーションを差し出したのである。

 リカーヌは、ひったくるようにして中赤ポーションを受け取り、瀕死の息子に振りかけた。頭からどくどくと血を流していた息子は、奇跡のように回復し、到着した施療師が診察したときには、まったくどこにも異常がなかった。

 中赤ポーションには、大銀貨二枚という標準価格が定まっているが、それは迷宮都市で買える最低金額ということであり、一般の都市で買おうとすれば、十倍から六十倍ほどの値がついてしまう。しかも、どこの店にもポーションが店頭に並ぶことなどなく、買おうとして買えるものではないのだ。

 お礼を申し出るジャストンに、サンドラと名乗ったその女性は、赤ポーションは迷宮都市を訪れたときに研究用に買ったものの一つであり、引っ越しのあいさつ代わりにもらっておいてほしいと、実に豪儀な申し出をした。

 中流階級向けの人材派遣をなりわいとしているジャストンは、駆け引きに慣れている。そのジャストンの目からみて、サンドラは、本気で対価を求めていないようにみえた。

 すっかり感心したジャストンは、何かお役に立てることがあれば何なりと申し出てもらいたい、とサンドラに言った。

 サンドラは、ざっくばらんな調子で、では通いのメイドを雇いたいので、よい店を紹介してほしい、と言った。

 自分がまさにそういう店を営んでいるので、ご希望通りのメイドを派遣させてもらうと言ったジャストンに、サンドラは一風変わった条件を告げた。

 年齢も容姿も経験も問わない。物静かでおとなしい人がよい。

 仕事は掃除と庭の世話と洗濯である。

 二日か三日に一度くらいの頻度で通って、半刻か四半刻ほどの時間で仕事を済ませてほしい。

 自分は、調査のためにしばしば遠出し、家に帰らない日のほうが多い。合い鍵を預けるので、不在のときも仕事をしてほしい。

 入ってはいけない部屋はない。開けられては困る戸棚や引き出しには鍵をかけておく。広げた書類や資料には手をふれないでほしい。

 お茶は自分で淹れるのが好きなので、淹れてもらう必要はない。

 食事は自分で準備するので、作ってもらう必要はない。メイドの食事は出さないので、自宅か外で済ませてほしい。

 自分は、ほこりがたまっていても気にならないたちなので、掃除は神経質にならなくてよい。家に風を通しに来るつもりで、気楽に通ってほしい。

 こういう条件を述べて、サンドラは、これは当座の給金にと、一個の大きな魔石をジャストンに渡した。

 はじめジャストンは、これを固辞した。もともとメイドの給金は自分で負担する気だったのである。しかし、しばらく押し問答をしたあと、その魔石を受け取った。

 あまり魔石などみたことはなかったが、とても見事な魔石だと思ったので、しばらく手元に置いてながめてみたくなったのである。後日、充分な金額のお釣りを渡せばいいと思っていた。

 のちに魔石を扱う商人にこれをみせ、いくらの値がつくかを聞いて仰天することになる。

 最初は若いメイドを差し向けたのだが、結婚してやめてしまったため、次は年配のメイドを派遣した。そのメイドは現在も続いている。

 メイドからの報告で知ったのだが、サンドラの家は、どの部屋も本と資料と奇妙な物品であふれかえっているという。本などという高価なものをこれほどたくさん持っているのだから、サンドラは資産が豊かであるにちがいない。

 不思議なことに、サンドラはほとんど家の調理器具を使わない。たまに買って来た食べ物のごみなどがあり、ごくたまにスープを作って飲むこともあるらしいが、何を食べて生きているのか謎の人であるという。

 遠出をしていることが多いようだ。帰宅しているときも、日中は外出していることが多いが、逆に夜中にはゆらぎのない光、つまり魔法による灯光がついているのが、よくみられる。魔石に不自由しない経済状態であり、研究熱心なのだと推測される。ごくまれに、十日間ほど昼も夜も家にいることもある。不思議なことに、家に入ったり出たりするところをみかけた人は、驚くほど少ない。

 〈学士サンドラ〉という呼び方は、実はジャストンが始めたものである。近隣の人たちに、学士のサンドラさんは、という言い方をしていたのが、いつのまにか通称として定着した。

 ボンフル少年は、何度か礼を言いに学士サンドラを訪ねるうちに、すっかり仲良くなってしまった。サンドラは、自分から進んで人と関わろうとはしないが、来る者に対しては冷淡ではない。

 サンドラの話は、時にボンフル少年が興味を持つことについての高度な研究内容をやさしくかみ砕いたものであり、時に歴史の実話や秘話であり、時に異国の歌や物語であり、ボンフル少年の心を強く捉えた。

 やがてボンフル少年は、サンドラを先生と呼ぶようになり、サンドラが帰宅しているとみるや、さっそく押しかけて話を聞かせてもらうのを楽しみとするようになった。サンドラは、高級な茶葉と、同じく高級な菓子をメイドに買わせたが、菓子の多くはボンフル少年の腹に収まったのである。

 今やボンフル少年は二十二歳となり、父の店を取り仕切り始めた。父親は、息子の成長に目を細めつつ、そろそろ引退を考え始めている。

 サンドラがこの家に越してきてから六年目に、ジャストンの妻のリカーヌが、原因不明の高熱を出して衰弱し、施療師の治療も効かず危篤状態となったのだが、そのとき見舞いに来たサンドラは、病人と二人きりにさせてくれと言い、その通りにすると、リカーヌは危篤状態を脱し、快方に向かっていた。

 このことは秘密にしておくようにと、サンドラはジャストンに頼んだ。ジャストンは、秘密を守ることを誓った。

 そんなわけで、サンドラは、ジャストンとその一家にとり、大切な隣人であり、恩人である。どうも、近隣の家のいくつかは、サンドラから何かの恩義を受けているふしがある。

 サンドラは、およそ近所づきあいということをしない人だし、そもそも外出先で人と会うことがない。だから、サンドラの名と顔をともに知っているひとは、本当に少ない。

 それでも、リーコネン地区には、サンドラのことを悪く言う人はいない。

 ところで、リーコネン地区からちょうど町の反対側にある、荒廃した建物が並ぶ地域の奥に、シーラという名の薬師がいた。薬効の高い薬を作る人物として、知る人ぞ知る薬師であったが、人付き合いは極端に悪く、実のところ、シーラの顔を知っている人は、あまりいない。

 そのシーラのもとに、〈薬聖〉スカラベル導師が訪ねてきて、師匠と呼んで礼を尽くしたことは、今、町中で評判となっているところである。もっともシーラはどこかで隠棲生活を送っているようで、会えた人はいないとも聞く。

 もしも薬師シーラの顔を知っている人が、学士サンドラの顔をみたら、二人は同一人物だと言うかもしれない。

 けれど薬師シーラはぼろぼろのきたならしい服を着ていたが、学士サンドラは上品で清潔な服を着ている。住んでいる場所もちがい、まとう空気もずいぶんちがう。

 結局人間は人間を顔だけでみるのではなく、社会的階層や、服や立ち居振る舞いや、暮らしている場所や周りとの接し方など、生きているようすの全体からみるのだから、学士サンドラが実は薬師シーラだなどと思いつく人などいないだろう。

 もしもそんな人がいても、ここ十年間のサンドラの暮らしぶりと、シーラの暮らしぶりを比べれば、二人がまったくの別人であることは明らかだ。同じ町のなかとはいっても、二人の住まいは遠い。昼シーラの家にいて、夜サンドラの家にいることなど不可能だ。人は同時に二か所にいることはできないのだ。

 今日も学士サンドラは、何かの研究をしている。

 それが何の研究であるのか、誰も知らない。

「間話2 学士サンドラ」完/次回「第28話 ラフィンの岩棚亭」

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― 新着の感想 ―
シーラなら分身くらい出来そうなんだよなぁ…… <ヤックルベントのコピー人形>とか探せば出てきそう
[一言] 私も〈交換〉をおぼえて遠いところで第二の人生を送ってみたい。
[一言] 昨晩から読み始め、深く楽しませて貰っています。 その続きがまだ後300頁以上あり、その楽しみがこれ迄の300頁近くと同じか、それ以上あるのでは無いかと思う今の瞬間がとても幸せです。 これから…
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