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レカンとノーマは離れに帰り、居間に入った。
寝室や浴室は分かれているが、居間は共用なのである。
ノーマは奥側のソファーに座ったが、レカンも同じ側のソファーに座った。
これは、迎賓館を背にするのでなく前にしたかったからだ。
別段背にしたからといって、〈生命感知〉や〈立体知覚〉に支障があるわけではないが、感覚的には前側のものを探知するほうがしっくりくる。
「あんたも飲むか」
棚の酒と銀色のタンブラーを取り出しながら、ノーマに訊いた。
「ああ。頂こう」
レカンは二つのタンブラーに琥珀色の蒸留酒をそそいだ。
しばらく二人は無言で酒の味と香りを楽しんだ。
棚には、豆菓子や、燻製肉や、干し魚など、つまみが趣味よく取りそろえられている。レカンが食べたものは補充され、新しい種類のつまみが追加されている。この屋敷の使用人がよく訓練されていることがうかがわれる。
「驚いたなあ。こんなことになろうとは、思ってもみなかった」
「あんたにとっては望ましい話じゃないのか?」
「夢のような話だよ。まだどうなるかは本当のところわからないが、父の著書が本として取りまとめられて後世に残る。そのことは、どんな形にせよ実現するだろう」
「すでに王都の神殿には本があるようだぞ」
「それも驚きだった。まさか侯爵が、あんなことを」
この場合、侯爵とは、ノーマからいえば伯父にあたる前マシャジャイン侯爵ゴドフリー・ワズロフのことだ。
「ケレス神殿に本を献納したというが、それは簡単にできることなのか?」
「庶民の学者が本を神殿に奉納するのと、貴族が奉納するのは、ちょっとちがう」
「ほう」
「貴族が神殿に献本するとなれば、中身の紙も上等でなければならないし、文字は美しいものでなくてはならない。つまり一流の筆写師の手によるものでなければならない」
「なるほど」
「表紙の革も上質のものであり、文字の刻印や金箔もきちんとしたものでなくてはならないし、製本もちゃんとしたものでなくてはならない。まあ、それなりに金のかかったものになるだろう」
「本を作るのも馬鹿にならんのだな」
「本当に豪華な本は、驚くほど金がかかる。それに貴族家が神殿に本を献納するとなれば、献金もそれなりの額を添えるだろう」
「神殿への献本は、何のためにするんだ」
「これだけのことができました、と神々に宣言し、報謝するためさ。研究というのは世界の神秘を解き明かしてゆくことだからね。貴族が神殿に本を献ずるのは、自分の領地で文化が進んでいることを示す行為でもある。武力だけでは貴族としての品格は示せないからね」
「やたら豪華な本を献納する貴族がいそうだな」
「装丁ばかりが豪華で中身のない本を献納すれば、逆に嘲笑されてしまうよ。表立っては言わないけれどね」
「では、あんたの伯父は、あんたの父親の著作を内容のあるものと認めたわけだ」
「意外だった。びっくりしたよ。だけどそれにもまして驚いたのは、前侯爵がアーマミール様に、あれは弟のサースフリーが書いたものだと言ったことだ。そんなことをあの侯爵が言うとは、はっきり言って信じられないよ。だが、アーマミール様が嘘を言うわけがない。弟だって?」
「あんたの父親にとって、ゴドフリーはどんな兄だったんだ」
「兄なんかではなかった。ゴドフリー様だったよ」
「あんたの父親は、ゴドフリーを憎んだりきらったりしていたか?」
「え? いや。そんなことはなかったな。むしろ」
「むしろ?」
「普通に話しかけていた」
ノーマの父サースフリーは、ゴドフリーにとって、母親のちがう弟だ。幼いころから一緒の屋敷に住んでいたのだろうか。たぶんそうだ。
サースフリーの母親は身分が低かったため、ゴドフリーは表立ってはサースフリーを弟として遇することはできなかった。
だが、冷たい態度の奥で、ゴドフリーは年の離れた弟に、どんな感情を持っていたのだろうか。
「あんたの父親が死んだとき」
「え?」
「ゴドフリーはジンガーに手紙をよこして、こう言ってきたそうだ。弟の仇は必ず取る、お前はノーマを守れ、とな」
ノーマは横を向いてレカンのほうをみた。その目は驚愕にみひらかれていた。
「あんたは前に言ったな。侯爵家などというものは家と領地を守る機械のようなものであり、侯爵その人といえど歯車でしかないと。ゴドフリーは侯爵という名の機械だった。だが、あんたの父親が死んだときの言葉は、熱い血が通う人間の言葉だったとオレは思う」
ノーマは、言葉を失ってしまったかのように、ただレカンをみつめている。
「そしてゴドフリーは弟の仇を討ち、杖を取り返してジンガーに送り届けた」
「この杖は、侯爵が取り返してくれたのか」
「あんたの母親の杖をあんたのもとに届けた。そこにゴドフリーのあんたに対する気持ちが込められている」
「気持ち?」
「あんたとあんたの父親が、マシャジャインを出てヴォーカに戻るとき、侯爵は言ったそうだな。財産は持ち出せないと」
「そうだ。私の目の前で、侯爵はそう言ったよ」
「だが、本と研究成果と資料は残さず持ち出せたんだろう。多種多様な薬草や木も運べた。そうしたものをここまで運ぶには、相当の金もかかったはずだ」
「うん。それは私も不思議に思っていた。ものすごい荷車の数だったよ」
「こうは考えられないか。財産は持ち出せないというのは建前だ。親族たちにはそう説明したんだろう。だがゴドフリーは、あんたの父親が必要なものは、何でも持っていかせてやりたかったんだ」
「そんな。そんなことが」
「ジンガーというのは、侯爵家ではどんな立場だったんだ?」
「最も序列の高い騎士だった。だからジンガーが母につけられたということは、母が侯爵家でいかに重くみられていたかを示しているね」
「その母親が死んで、あんたとあんたの父親がこの町に来るとき、ジンガーがつけられた。これはどういうことなんだ」
「わからない。正直私にはわからないんだ。ただ、周りからみれば、明らかな降格だ。それもひどい降格だ。私には侯爵家内部の噂話などわからないけど、ジンガーにひどい失敗があったか、新侯爵となったゴドフリー様にひどくきらわれるようなことをしたのではないかと、周りは思っただろうね」
「あんたの母親は、亡くなる直前にジンガーに言ったそうだ。夫と娘を頼むと」
「えっ」
「それを知ったゴドフリーは、ジンガーに言った。弟はもとの町に戻るから、お前は二人について行って守れと」
「君はどうしてそんなことを。いや、答えは一つしかない。ジンガーに聞いたんだね」
「これはオレの推測にすぎんが、たぶんジンガーは侯爵家から受けた公式な命と、ゴドフリーの個人的な願いとのあいだで苦しんだ」
「侯爵の……個人的な、願い」
「ゴドフリーの遺言により、侯爵家からジンガーに慰労金が届けられた。ジンガーは侯爵家に騎士の身分を返した。これで名実共に施療所の世話係になれたと笑っていたよ」
「レカン」
「うん?」
「父は、ゴドフリー前侯爵から、伯父から、愛されていたんだろうか」
「愛されていたとオレは思う。あんたの父親も、あんたもな」
「私も?」
「ゴドフリーは、最も信頼する騎士をあんたとあんたの父親につけた。父親が死んだら、あんたを守れと命じた。それがゴドフリーの想いだ」
突然ノーマが涙を流し始めた。
(しまった)
(逃げ遅れた)
女性が泣く場面をじろじろみつめるような趣味は、レカンにはない。泣くとわかっていたら、すみやかに場を去っていたのだが、ノーマの速攻がそれを許さなかった。
(どうしたらいいんだ)
レカンが何もできず硬直していると、ノーマがレカンにもたれかかってきた。
防御も回避もできない。
ノーマは額をレカンの肩に押し当て、レカンに抱きついた。
嗚咽の声が響いた。
利き腕を封じられたレカンは、そのままじっとしているほかなかった。
(うん?)
(この香りは?)
ノーマからただよう香りは、レカンにヘレスを思い出させた。
二人の香りは、よく似ている。
それでいてはっきりしたちがいはあるのだが、やはりよく似ている。
ノーマとヘレスは赤の他人である。
その赤の他人である二人が、とてもよく似た香りを放っている。
香りだけではない。毅然とした姿も、立って歩くそのようすも、媚びを含まない笑顔も、りりしさのなかの女らしさも、驚くほど似ている。
女とは不思議なものだ、とレカンは思った。




