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「本当にお疲れさまでした」
スシャーナ姫が、やわらかなタオルを差し出して、そう言った。
大工と石工のにらみ合いを解決して領主館に帰ったレカンだったが、問題は次々と起こり、席の温まるいとまもなく、あちこちに走り回った。
けんかの現場に行き、両方の当事者を殴り倒し。
事故現場に行き、過失があった側に賠償の約束をさせ。
怪我人がいれば、〈回復〉をかけ。
ついでに領主にも〈回復〉をかけ。
動けなくなった荷車があれば持ち上げてやり。
とにかくできることをした。
苦手分野には手を出さなかった。
たとえば、盗難事件には出動しなかった。
資材の手配がどうとか、作業の手順がどうとかいう問題にも口を突っ込まなかった。
自分がそういう場に行っても事態を進展させることはできない。
できないことに時間をかけるのは無駄だ。
「ああ」
汗を拭くと、棚の酒を取り出して銀のカップにそそぎ、くいと飲み干した。
うまい酒だ。
「結局、お昼ご飯は食べられませんでしたね」
スシャーナが昼食を準備してくれたのだが、流血沙汰が発生して駆けつけ、そのあとも座って食事をする時間はとれなかった。
「ああ。持ってた干し肉をかじった」
「まあ」
たぶんスシャーナからすれば、歩きながら物を食うなどという行儀の悪い行為は、想像もできないのだろう。
「さて、リットンも帰って来たことだし、オレも家に帰る」
「え? いえ、あの。夕食のご準備を」
「家に帰れば夕食は作ってくれる。心遣いは不要だ」
なおも引き留めようとするスシャーナに別れを告げ、レカンは去った。
早く帰って、エダの料理でゆっくり酒を飲みたかった。
ここのところ、料理の種類がぐんと増えた。家庭におけるエダの各種能力は、順調に向上している。
9
翌日は朝から昼過ぎまでシーラのもとで〈障壁〉を練習した。
できそうになく、どうやったらできるのかわからないことに集中し続けるのは、非常に疲れる作業である。
くたくたになったレカンは、ノーマの施療所を訪れた。
ノーマはエダを連れて往診中だったが、しばらく庭をながめていると帰ってきた。
「なんだって。領主のご令嬢が、直接君に茶を淹れて出したっていうのかい?」
「ああ。感謝のしるしだろうな」
「レカン。君が泊まるようにいわれたその部屋の横に、女性の部屋がなかったかい」
「そういえば化粧台のある部屋が隣にあった。その奥には使用人の部屋もあったな」
「レカン」
「うん?」
「通い婚って知ってるかな」
「いや、知らん」
「夫が妻のもとに通うという結婚の形式なんだ」
「なんだ、それは? 結婚したら一緒に住むものだろう」
「庶民の場合はそうだね。だけど貴族の場合、そういかないこともある」
「なぜ夫婦なのに一緒に住めないんだ?」
「通い婚になるのは、何らかの理由で、妻が夫の家に入ることができない場合に起こる」
「よくわからんが、その場合は夫が妻の家に入ればいいんじゃないのか?」
「もちろん、そうできるなら、そうするだろうね。そうできない場合を、いくつかあげてみよう。例えばある国の王族が、別の国のある貴族のもとに定期的に通い、その貴族の娘を見初めた場合だ。他国に嫁げるならそれでいいが、本人にとっても両方の家族にとっても幸せとはかぎらない。そういう場合、ある貴族のもとに来たときだけ結婚している状態になる」
「それは結婚というのか?」
「結婚というんだ。もしこどもが生まれれば、その貴族は他国の王族の血を引く子を自家に抱えることになるわけで、これは政治的にはきわめて大きな意味を持つことがある」
「さっぱりわからん」
「うん。わかりにくいね。今は夫と妻がちがう国に属している場合で話したけれど、同じ国のなかでも似たことは起き得る。同じ町のなかでもそういうことはある」
「要するに、夫の身分が妻に比べて高すぎるうえ、家の立場がちがいすぎるから、嫁ぐと不幸になる。それで夫が妻の家に通うんだな」
「そうだよ。それだ! なんだ。ちゃんと理解しているじゃないか」
「いや。理解している自信はない」
「はは。では、別の場合を考えてみよう。妻は身分の高い貴族の令嬢だ。夫は身分が低く財産もあまりない貴族の次男か三男で、みどころのある若者だけれど、今はまだ地位も財産もない」
「なに? ふむ」
「身分の高い貴族は、若者の将来に期待して結婚を許す。しかし娘は自分の家に置いておいて、別棟か何かを建ててやり、若者がそこに通うという形式になる」
「若者のほうも一緒に住ませてやればいいんじゃないのか?」
「まあ、事実上住んでるにひとしい生活をすることはあるだろうね。だけどその場合も、形式上は通い婚なんだよ」
「意味がわからん」
「若者が出世して地位や身分を得たら、身分の高い貴族は、正式に若者を娘の夫として自分の家に迎えるかもしれない。あるいは、別に家を立てさせて、娘を嫁がせるかもしれない」
「出世しなかったら、どうなるんだ?」
「身分の高い貴族は、ある時点で若者にみきりをつけ、娘をどこかに嫁に出すだろうね。つながりを作ることが政治的に価値のある家に」
「…………」
「むずかしかったかな?」
「つまり通い婚というのは正式な結婚ではないんだな? あとになって、あれは結婚だったと言うこともできるし、あれは結婚じゃなかったと言うこともできる、貴族お得意の二枚舌のような奇妙な結婚なんだな?」
「面白い理解だね。でもそれは、通い婚の性格の一面を正しく言い当てているね。そういう通い婚もあるわけだ。正式の結婚形態の一種とみなされる通い婚もあるけれどね」
「貴族というものはややこしいものだということが、あらためてわかった」
「そうか。それじゃあ、もう理解しているね?」
「何をだ?」
「君とスシャーナ姫との通い婚が成立しかかっているということをだよ」