第2話 8月22日(火・3)。赦す者。
冬仕様の睦子を背後に伴い、冷気の這う廊下を抜けて、着いた先は極寒の地。ダイニングキッチンとリビングが一繋ぎになっている広々としたその空間には、なるほど、睦子がこんな格好してるのも納得だなってくらいに真冬の空気が満ち満ちていた。
実際は流石に10℃を下回ってるってことはないだろうけど、これまで我が身を蝕んでいた夏の熱気とのギャップのせいで、吐いた息が白く見えるような錯覚を覚える。俺は首から下げたタオルをマフラーみたいに巻き直し、ついでに軽く二の腕をさすって温めながら、冬将軍もといエアコンの乱心を諫めるべくリモコンを求めて辺りをふらふら。
ダイニングテーブルの上には無し。ソファの背後から身を乗り出してリビング方面を見渡すも、座面・こたつ・テレビ台兼飾り棚のどこにもやっぱり姿は見当たらず。
でもその代わり、見つけなくていいものを見つけた。俺は溜め息を吐きながらブツを拾い上げ、それを背後の睦子へ頭からぼふりとひっ被せる。
「ほら、ぬくぬくしとけ。お茶淹れてくっから、エアコン任せた。リモコン無ぇ」
「あ、うん、実はあたしも見っけらんなくてさー。最初は有った気がするんだけどさぁ、一体どこに旅立っちゃったのやら。まいっちゃうよねぇ~、あっはっは!」
「……まいるどころか、絶対ここぞとばかりに冬を楽しんでただろお前……」
「なぜバレたし」
結構本気で驚愕してるような呟きを発しながら、もぞもぞごそごそやってようやっと顔を覗かせてくる睦子。なぜバレたっつーか、バレないわけねぇだろ。リモコン無いなら本体のスイッチ切るなりブレーカーいじるなりすればいいのに、そんなデディベアみたいな毛足の長い毛布引っ張り出して来てぬくぬくお昼寝かましやがってからに。マイナスをいとも容易くプラスにしてしまえるこのポジティブさ、俺にちょっとくらいわけてくれればお互いちょうど良い塩梅になるのに、人生ままならないものである。
などとこの世の不条理について思いを巡らせながら、俺は睦子を放置してさっさとキッチンへ向かった。勝手知ったる睦子の家、最早食器棚や収納のどこに何が入ってるのかなんて完全に把握してるので、ちょいとヤカンでお湯湧かして二人分のお茶を用意するのなんてほとんど呼吸と変わらん。
――二人分。戸棚の上からお茶っ葉の缶を取り出しながら、俺は睦子の方を振り返る。
「なぁー、だから緋叉音はいるの? いねぇの?」
「んー? さーねー。……いるって思えば、きっとすぐそばにいる、かもねー?」
返ってきたのは、そんなとぼけた生返事のみ。カウンター越しに見えた睦子は、毛布にくるまったままでソファーとこたつの間を熱心にごそごそ漁っている所だった。こっちに目線も寄越さないで何をやってるのかといえば、行方不明者の捜索活動だろう。一応言っとくけど緋叉音のことではない。
今はそれぞれの仕事に集中するのが得策か。そう思い直した俺は、睦子を意識の外に追いやって、手早くお茶の準備を進めた。
そして。俺が一通り作業を終えて一息ついた頃、リビングの方でも「よっしゃー!」と快哉を叫ぶ娘有り。
「見つかったかー?」
「見つかったー! いぇーい! ほぉら、どうよ、あたしすげーっしょ! うぇっへっへー」
湯気の立ち上る湯飲みをお盆に載せて戻ってみれば、睦子が毛布が落ちたことにも気付かずに小躍りしながらリモコンをずびしっと見せつけてきた。
俺は苦笑いしながら「はいはい」とテキトーに流し、L字の島になっているソファーの内側へと回り込んだ。なんとなく旅館の若女将みたいなイメージを思い浮かべながら、床に置いたお盆の上からこたつの上へと淹れたてのお茶を並べていく。
でも、最後のひとつは俺の分だから持ったままだ。それを零さないように気を付けながらそろりと歩き、和室側のソファーへ「どっくらしょ」と腰を下ろす。こたつには布団がかかっていないので、代わりに睦子の落とした毛布を引き寄せて膝掛け代わりにした。うむ、ぬくぬく。
ずずーっとお茶を啜りながらキッチン側の席を見てみれば、睦子は未だソファーに座らず突っ立ったまま、役目を終えたリモコンを口に当てて何やら思案顔。彼女の視線の先に有るのは、俺がこいつのために用意してやったお茶――ではなく、そのすぐ横。
「ねーね-、カズちん。こっち、だーれの?」
「緋叉音の」
「……………………うえっへっへっへっへっへっへぇ~♡」
にま~っといやらしい笑みを浮かべた睦子は、リモコンを放り出してソファーにぼふんとお尻を沈めた。そしてわざわざ俺の隣へすすすっとスライドしてきて、脇腹を肘で小突いてくる。
「カズちんってば、やっさしぃ~♡ いるかいないかわかんないのに、わざわざ用意してあげたんだぁ~?」
「だってお前、はっきりいるともいないとも言わなかっただろうがよ。結局どっちなんだよ? そろそろ怒るぞ」
「怒るの?」
「……………………………………怒んねぇけど」
「くひひっ♡ カズちんってば、やぁ~さぁ~しぃ~いぃ――あだっ!?」
怒りはしないけど額に弱めの裏拳をくれてやった。不意打ち食らった睦子は、額を両手で押さえてずざざざっと撤退し、元の席へと戻っていった。
俺は背もたれに体重を預けて深々と嘆息し、恨みがましい眼を向けてくる睦子をじろりと睨み返す。
「お茶、飲めよ。まだ寒いだろ? 女が無闇に身体冷やすもんじゃない」
「……なんかそれ、ハードボイルドなのか甘ちゃんなのかわかんない台詞だねぇ」
「ハードボイルドオンリーだろ。俺に触れたら火傷しちゃうぜ?」
「はっ。湯たんぽが何ほざいてんだか」
超失礼な評価を口にしながら、底抜けに優しい微笑みを浮かべる睦子。俺がうっかり見とれている間に、睦子は自分の分の湯飲みを「よっ」と引っ掴んで勢いのままに一口ごくり。
「あづっ」
「……すまん、熱すぎたか?」
「…………ん、や、ちょうどいい。むしろちょいぬるめ。………………ああ、そっか。湯たんぽも、場合によっちゃ火傷するんかなぁ……」
引きずったネタについて独りごちながら、睦子は両手の指先をあたためるように湯飲みを持ち替えて、今度は落ち着いて少しずつちびちびと飲み始めた。
睦子につられるようにして、俺も手の中のお茶をずずずと啜る。鼻腔や口内に満ちる茶の風味と、身体の内側からじわじわ暖められていく実感。それは、どこまでも心地良くて――だからこそ、心地良くないものが浮き彫りとなり、俺はこの時ようやく自分が必要以上に焦っていたことに気付いた。
「……前のめりに、過ぎたのかもな」
そんな言葉が漏れてしまい、ちびちびやってた睦子にきょとんと小首を傾げられてしまった。彼女の反応はそれだけで、怪訝そうな顔をすることもなく、続きを促してくることもない。
その無垢な表情や仕草は、なんとなくあの子を彷彿とさせる。けれど、睦子とあの子は全く別の人間だ。
……距離感がおかしかったのは、むしろ俺の方だったか。
「……俺ってさ。真っ当に知り合いって呼べるような女の子って、睦子くらいしかいないじゃん?」
「…………………うん」
「でも、まぁ、なんつーか……、お前、俺にとって色々特別だろ? だから実質、俺にとっちゃ緋叉音が、人生で初めてまともに関わりを持った普通の女の子っていうか……」
「…………………とくべつ……、あ、う、うん」
「で、その……。………………うっかり勇み足して、緋叉音のほっぺに、『ちゅー』しちゃった」
「………………………………………………ちゅー!?」
小鳥のような仕草で相槌を打ってくれていた睦子が、いきなり豆鉄砲くらったみたいにぎょっとしちゃってます。そうだよねー普通そういう顔になっちゃうよねー! 俺も自分で自分にびっくりしてんよ!
俺は頭をがりがり掻いて色んな物を紛らわしながら、とにかく話を続けた。
「あいつのことが自分で思ってた以上に気に入っちまってた、ってのもあるし……、おまけになんかあいつ、厄介な事情抱えてるみたいな様子時々見せるから、なんとか元気づけてやりたいなって気持ちもあって……。そこにきて、緋叉音のあのちょっと独特な距離感っつーか、遠慮しぃに見せかけてやたらガード緩い――どころか積極的にコミュニケーション求めてくる性格だろ?」
「…………ばっちり噛み合っちゃった?」
「うん、噛み合っちゃった。…………でも流石に、緋叉音の承諾を得ないまま勢い任せに『ほっぺにちゅー』はアカンかったよなぁと……。で、その後、緋叉音から一切リアクション無かった……というより、一回も会ってなくって……、だから、こう、…………な?」
「………………………。怖く、なってきちゃった?」
――あの一方的な接吻が、緋叉音にどう思われたのか。彼女を元気づけてやるどころか、逆に余計な荷物を背負わせてしまったんじゃないのか。俺が彼女へ寄せた好意が裏目に出て、彼女や俺自身を傷つける結果になったのではないかと、そんな悪い想像ばかりが膨らんできて。
「うん。怖くなって、きちゃったんだ」
悪さが見つかった弟みたいな気持ちで首肯を返した俺は、睦子の優しいお姉ちゃんみたいな微笑みを直視できなくて、己が手に握りしめた湯飲みを意味もなく眺めた。お、茶柱発見。わぁい、いいことあるかも。………………あったら、いいなぁ……。
「…………………………………………」
何やら思案しているような雰囲気となった睦子は、しばし無言でお茶を啜り続ける。たっぷり数分間かけて飲み干し、中身を失った湯飲みをこたつに戻してから、彼女は俺の手からも飲みかけのお茶を抜き取って同じくこたつへ。
睦子は俺のすぐ隣へぽふんと座り直し、俯く俺の耳元へそっと顔を寄せてくると、からかうような声音でそっと囁いてきた。
「唇同士ならともかくさー。ほっぺにちゅーなんて、あんたが思ってるほど大事じゃないよ? あんた、無意味にビビりすぎ。やーい、へたれー、どーてー、かずまー」
「……………………。色々ツッコみたい所ではあるんだけど、え、ごめん、俺今どんな答え返せばこの後のお前の凶行を止められるの?」
「だからぁ、そんな『きょーこー』とか大袈裟すぎ。なんなら、唇にする? それとも、カズちんちん?」
「だから貴様はそういう下ネタを控えろと何度言えば――ひぃ」
俺の頬へそっと指先を這わせてきた睦子が、耳たぶをぺろっと舐めてきた。湿った舌と確かな唾液の感触が電流のように脳髄まで駆け抜けてきて、俺が麻痺して動けなくなってる間に、今度はほっぺたに柔らかな感触が『ちゅっ』と。
「……………………ぷはぁ。……ほぉら、大したことないでしょ?」
「あわ、あわわ、あわわわわわわわわわわわわわわわわ」
「…………………ちょっと、やめてよ、本気で慌てるのとか、そんな、なんか、もうっ、こっちまで恥ずいでしょーにっ!」
睦子は俺の後頭部をばちぃんと叩くと、ふんぞり返って腕も足も組み、組んだ足で俺の膝をげしげし蹴ってきた。朱の差すほっぺたをむすっと膨れさせて、全身で憤慨しながら彼女は断言する。
「いーい? ほっぺにちゅーなんてのはね、挨拶なの、あいさつ! あんたも緋叉音も、難しく考えすぎなのっ。そりゃ、男と女だから、恋とか、愛とか、えっちとか、そういうのが色々絡んでくるのは、仕方無いけどさ? でも、あんた達のはもっとこう、違うじゃん。なんていうか、こう、えっちするために仲良くしたいんじゃなくて、仲良くしたいからえっちする、みたいな感じじゃん! だから、あんたらのそれは、いいの、許す! あんたらがなんかわーわー言っても、この睦子お姉ちゃんが許してやるっ!」
「………………いや、えっちはしてねぇよ――」
「あァん!?」
思いっきり凄まれちゃったので俺は顔を回れ右させてお口にチャックした。怖い、睦子お姉ちゃんが超怖い。こわいくらいにすっごく優しいお姉ちゃんしてくれてて、なんかすげー『ありがとうな、睦子』って気持ちで胸がいっぱいっす。
だが、しかし。睦子の台詞の一部が気になって、俺は顔を背けたままでぼしょぼしょと発言する。
「……『緋叉音も』ってことは、やっぱ、あいつも俺みたいに悩んで……?」
「あァん? ………………あァー、んー。……確かに、悩んではいたね。でもどっちかっていうと、嬉しくて身悶えてる感じ? 少なくとも、あんたみたいに寝不足面ではなかったね。むしろつやつやしてた」
「………………お、おお、そっか。……そっか、身悶え……。………………へ、へへ、へへへへへ――」
「……うわ、キモっ……。あんた、どんだけ緋叉音ちんのこと好きなの? お姉ちゃん、ちょっとびっくりだよ……。………………ほんと、びっくりだよ……」
繰り返されたその言葉が、少し寂しい響きを伴っていたような気がして、思わず睦子の方へ振り返る。
けれど睦子は暗い表情をしているということもなく、俺の視線に気付くと驚愕も憤慨も抜けたきょとんとした面持ちで「ん?」と見つめ返してきた。
「なぁに、カズちん? また『ちゅー』、欲しいの? でもごめんねー、今日はもう売り切れだからさー。代わりに、愛しの緋叉音ちんに貰っておいで?」
「…………あ、いや……。別にちゅー貰いに行くわけじゃねぇけど、緋叉音って結局今どこにいるんだ?」
それは元々訊ねたかった問いであったはずだが、なぜか言い訳をしているようなばつの悪さを感じた。
でもそれは俺の錯覚だったのか、睦子は特に疑問を感じた様子もなく素直に答える。
「あたしがお昼寝する前は二階でごそごそやってたけど、そのあとはどうかなー」
「…………そう、か? ……じゃあ、ちょっと二階上がらせてもらっても……じゃなくて、いたら呼んできてもらえるか?」
「んー? ………………あー、ん、ま、そだね。……じゃあまあ、ここらが潮時かなぁ。………………いや、だいぶ潮時過ぎちゃってるかもだよね、うん……。ごめんね、カズちん。悪気は無かった。イタズラ心も最初だけだし。だから、さっきあげた『ちゅー』に免じて、許してね?」
「……………………あん?」
あざとい笑顔で請うてくる睦子に、俺は疑問符を返すことしか出来ない。こいついきなり何言ってんだろ。許せっていうなら、まぁ、いかなる大罪であろうと赦してあげる所存ですけど。だって『ちゅー』してもらっちゃったし。でへへ。
内心ででれでれしながらもキリッとした表情を浮かべる俺を尻目に、睦子はくるりと後ろを向くと、そのまま「よっ」と背もたれを飛び越えて向こう側へ。
軽やかな着地を決めて、彼女はすぐ目の前のそれ、リビングと和室を仕切る襖の取っ手へと――ではなく、襖と襖の間に僅かに開いていた隙間へと指を差し込んだ。
「はーい、ごたいめーん」
気の抜けた掛け声と共に、すぱーんと襖を開け放つ睦子。
そうして、俺と睦子の瞳に映ったのは――
「……………………………………あぅ……」
罪悪感に塗れた表情で弱々しく呻く、深き緋色の制服に身を包んだ少女であった。