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第2話 8月22日(火・1)。後ろ向きな停滞。

 何かが始まったと思ったけど、ひょっとしたら、それは勘違いだったかもしれない。



 緋叉音のほっぺたに、一種強姦染みた口づけを交わしてから。何事もなくいつも通りの月曜日をつつがなくこなしているうちに、この荒鷲和馬くんの胸中にそんな何もかも勘違いだった説が急浮上し、そしてきっと今日もまたいつもと同じ火曜日を繰り返すのだろうなーと予測できてしまって、なんだか拍子抜けなような、けれどちょっとだけほっとしたような。


 そんな、空気の抜けたゴムタイヤみたいなぼけっとしたツラを晒して、寝不足由来の欠伸を噛み噛み、ついでに労働の喜びも噛み噛みしちゃうカズマくんなのであった。はぁ、眠ぃ。


「…………ふわああぁあぁあぁぁ……………………」


 前話のラストでちょっとだけその存在に触れた、この稲見町における最大にして唯一の商店街。そこで至極まったりとした生存競争を繰り広げている飲食店群の一角、俺の現在地である大衆食堂『二毛作』こそが、バイト戦士カズマくんの主な戦場だ。


 つっても、朝飯食うには遅くて昼飯食うにはちょっと早いっていうビミョ~な時間にある現在、俺はいつものごとく半ば休憩時間みたいな状態にあっけど。一応こうしてフロアで待機してはいるものの、なんとなく老舗の蕎麦屋っぽい内装で統一してある広くも狭くもない店内には人の姿がほとんど無くて、いるのはメシよりもクーラーやテレビや雑談がお目当ての常連さんだけ。


 昼の間の店主である四十代前半のおばちゃんが、向こうの方でカウンター越しににこにこ話してる同年代のおばさんなんかも、バイトにすぎない俺をして常連というより身内みたいな感覚あるし。


 あとついでに言うなら、四人がけの机を挟んで俺の対面の席でうんうん唸ってるこの爺さんも、俺にとっちゃマジで身内みたいなもんだ。だから俺は、こうしてぐで~んと椅子に体重預けて、あんまり咀嚼されてないあくびを垂れ流すこともできちゃうわけ。


「…………ふわああぁあぁあぁぁぁぁああぁあぁぁんむんむんみゃ……………………」


「……なあ、和馬よォ。御前(おまえ)、それはちょいと気ィ抜きすぎじゃろ? (ワシ)、今は一応客じゃぞ、客。客って知っとるか? つまりは、尊き八百万の末席に名を連ねる者ぞ。崇め敬い、奉れェ」


「あ? ああ、すまんすまん。ありがたやありがたや。んで、ありがた~い神様よ、哀れな人の子に一体何をご所望だい? 水? お水? それとも、ま・み・ず? 今日は俺の奢りだ、どれでも好きなだけ飲んでくれや!」


「せめてもうちっと腹に溜まるモン奢れェ、こん戯け者(ぼんどこ)がッ! 儂は貴様みたいなもやしとは違うんじゃぞ、水だけですくすく育てるモノかッ! 酒じゃァ、この店で一番上等な酒持ってこいッ!」


「結局水分じゃん。まあいいや、オーダーは御神酒な。はいはい、かしこまりー」


 俺はてきとーに手を振りながら席を立ち、店の入り口のすぐ脇に設けてあるしょぼいウォーターサーバーへ向かった。だってあの爺さん、酒一滴も飲めねぇし。飲めないくせしてまるでヤンキー中坊のごとくやたらめったら飲みたがって、飲んだら飲んだで案の定速攻ぶっ倒れるから、飲ませる時は爺さんの自宅か俺ん家限定って決めてる。



 さて。この透明な杯に御神酒を満たしてる間ちょっぴり暇なので、あの椅子の上で胡座組んで差し途中の将棋盤相手にうむむと唸ってる爺さんについてでもさらっと紹介しておこう。


 ヤツの名は猪爺(いのじい)。でもこれは俺の付けたあだ名ってか二つ名で、本名は奥野田(おくのだ) 源重郎(げんじゅうろう)。かつてこの稲見町を含む一帯を仕切っていたという豪農・奥野田家の流れを汲む、この辺りじゃそこそこ名の知れた米農家の生まれらしい。


 でも、家業を義理の息子に任せて隠居してからは、かねてから細々と続けてた趣味の家庭菜園に没頭。そのついでみたいな形でこの食堂『二毛作』と専属契約を結び、毎朝早くに米や野菜を届けに来ては、そのまま軽く茶ぁしばいていくってのがお決まりのパターンになってる。ちなみに、俺と猪爺が初めて面識得たのは食堂と全く無関係の別件の際なんだけど、これは追々でいいや。


 容姿については、本人も言ってたとおり、もやしなんて言葉とは無縁なほど顔つきも体つきも引き締まってる。体格自体は小柄なんだけど、ああして胡座かいてても背筋がしゃっきり伸びてるから実際以上に大きく見えるんだよな。それに、口元に蓄えた髭や無造作に短く切った白髪、これまた無造作に着崩した作務衣なんかもばっちりキマってて、見てて気持ち良いくらいに洒脱な爺さんだ。実際はただの偏屈じじいなんだけどな。あと関係無いけど俺も今作務衣着てます、これが二毛作の制服ですので。



「ほれ、猪爺」


「おォよ」


 席に戻った俺は、こちらを見ようともせずに手だけ伸ばしてきた猪爺にコップを渡し、自分の分に軽く口をつけながらよっくらしょと腰を下ろした。軽く足を組み、まともな客は来ないもんかな思いながら、入り口の引き戸を――磨り硝子ガラス越しに揺らめく炎天下のアスファルトを眺める。


 ああ、ちなみに今の猪爺の対局相手は、俺ではなく、己自身。つまり猪爺は、一人二役という孤独な戦いに身を投じて身心を鍛えようとしてるわけ。それ自体は中々ロックな行為だけど、いかんせん棋力が貧弱すぎて普通に二歩とかやったりするあたり、とても愉快な爺さんだ。


 さっきまでは俺と普通に対戦してたんだけど、自分より半世紀近く年下の若輩者に飛車角落ちしてもらってようやく良い勝負、っていう状況が心底悔しいらしく、こうして自主練に励んでいらっしゃる。自主練なら家でもできるだろうに、俺が仕事やトイレ以外で席を離れようとすると「かァッ!」って意味も無く一喝してくるから、俺はこうしてぼけーっと座って欠伸かいてるくらいしかやること無い。


「…………ふわああぁあぁああぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁああぁあぁぁんみゃんむんむんみゃふみぃぃぃぃぃぃぃ……………………」


 一際脱力しきった息を垂れ流す俺がいい加減鬱陶しくなってきたのか、思考を中断させた猪爺がくしゃくしゃのしかめっ面を向けてきた。


「なァ、和馬。……御前、なんぞ一丁前に悩み事でもあるんか?」


「あぁ……? なんだよ、藪から棒に。てかそれ心配してる顔だったのかよ、激しくわかりにくいわ」


「だぁ~れが心配なんざするモンかよ、こん戯け者。……でもまぁ、らしくねェなと思ってよ。御前、流石に仕事中にそこまで本気でぐったりする奴じゃねェじゃろ? なんか昨日にも増して散々っぱら欠伸かいてやがるし、おまけに『コレ』よ」


 そう言って猪爺が軽く掲げて見せたのは、俺がさっき注いでやったばかりの水。ほとんど口がつけられていないそれには、ウォーターサーバーと合わせて置かれていた容器の中身――つまり『氷』が入っていた。


 氷。ご老体は内蔵を過度に冷やしちゃアカンだろうと、いつもなら強くせがまれない限りは決して入れはしない、純然たる冷気の塊。


「……………………あー」


 俺は言い訳の言葉を探す気力も湧かず、漫然と呻きながら天井を見上げた。



 そう。事実俺には、夜もまともに眠れなくなるほどの、ある重大な悩み事があった。言わずと知れた、あの雛木緋叉音という美しき少女に対して行った、性犯罪のことだ。


 ……いや、流石に犯罪ではない、よな? ちょっと、自分よっか十個くらい年下の初対面な推定女子中学生に、無理矢理キスしただけだし。唇じゃなくて、ほっぺにちゅっと。あとついでにぺろりともしたっけ。大変美味しゅうございました、是非また食べとうございまする、できればもっと色んな所ををぺろりと美味しくいただきたいな特にあの慎ましやかなお胸とかっていやいやそうじゃなくってだな、待て、まぁ待て。


 緋叉音の愛らしい頬に、彼女の承諾を得ないまま不意打ちで口づけをした。それ自体は、よくないけど、まあいい。けれど本当に俺の心をずぅーんと重くしているのは、あれ以降緋叉音から一切アクションが無いってことなんだよなぁ……。


 緋叉音と初めて顔を合わせてから現時刻までで、おおよそ一日半って所か。ほぼ接点を持たない赤の他人同士であるって考えれば、まだ二度目の邂逅を果たしていなくとも別に問題は無い気もする。なんなら、このまま二度と合わなくなった方が自然っていう見方まである。例えば猪爺の孫娘さんなんかは、初めて会ってから今日まで約四年間、一切顔会わせてなかったりするし。度々猪爺の家を――ってか孫娘さんの家を訊ねててもそんな感じだったりするのだから、事によれば睦子の家をいくら訪ねても緋叉音に全く会ってもらえないという可能性すらあるのかもしれない。


 ……でも、会いたいな、やっぱ。あの愛らしい女の子と、また笑い合い、触れ合いながら、『宿題』の答えを聞いてみたい。


 ……………………で、でも、もし万が一、獅子に食われたことにしてさくっと忘却なんてされちゃってたら、どうしよう……?



「――へッ」


 不意に、唾を吐き捨てるような汚い鼻息が聞こえてきて、反射的にそちらの方を振り向く。


 そこには、将棋の駒や折りたたみ式の盤を撤収作業中の、猪爺の白けたような顔が有った。


「らしくねェ御前見てても、こっちの気まで滅入ってくるだけじゃ。(めぐみ)ちゃんにゃ儂が話つけてやっから、御前ェもう上がれや。戯け者は戯け者らしく、考え無しに突撃カマして、そのまま華々しく砕け散んのがお似合いじゃろて」


「ん……」


 恵ちゃんというのは、向こうで絶賛井戸端会議中の、この『二毛作』昼の部店主であるところの作元(さくもと) 恵さんのことだ。つまり猪爺が言いたいのは、『そんなに大きな悩み事なら、仕事なんていいからさっさと問題解決してきて、早くいつもの元気な和馬に戻ってね』ってことだな。なんだこのツンデレじじい、俺のこと惚れさせにきてんの? ただでさえ色恋的なあれそれっぽい何某かで悩んでるような感じがしないでもないような現状なのに、奇天烈な方向から余計な悩み事増やさないでくれる?


 でも、心配してくれてマジさんくす。


「……んじゃ、まあ。……恵さんに、ちょっと早退のご相談でも、してこよっ……かな?」


「おォ。……あァ、御前の代わりは、ちょいとばかし『アテ』があっからよ。んな心配そうな顔してねェで、さっさと行ってこいや。そして砕け散りィ」


 やたら俺を砕け散らせたがる猪爺の、ちょっと嬉しそうに口元を歪めたしわくちゃな顔に見送られて、俺は少し軽くなった腰を椅子から引きはがした。

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