第4話 8月24日(木・了)。斯くて姫君も米となる。
――ふと、思い出す。そういえば、俺にも一度だけ、こんなふうに寝こけたままお姫様抱っこで運ばれたような記憶がある……ような気がする。
今よりも、ずっとずっとガキの頃。小学校上がってすぐくらいだろうか。場所は、自宅の階段と思しき場所だ。
となると……、この思い出はやはり記憶違いや『捏造』であるらしい。だって、その時分の俺が家族の誰かに優しくされたなんて、そんな事実はどこにも無いはずだから。リビングで寝こけた我が子を子供部屋まで運んでくれる、そんな甘ったるい親を俺は持ち合わせてなどいない。
大方、学校で誰かが話していたのを漏れ聞いて、それを自分の体験とごっちゃにしてしまったのだろう。そのこと自体はべつに構わないが、これが深層心理の現れなどではなく単なる記憶違いでしかないことを切に願うばかりである。
「…………………………ん……?」
そんなふうに益体の無い思考で暇を潰しながら、てくてく歩くこと数十分。ようやっと奥野田家の前へと辿り着いたが、俺はチャイムを押すことを躊躇った。
塀に沿って並ぶトラックや自家用車の群れを見るに、どうやら屋敷の中では昨日に引き続き会合が開かれているっぽい。いつもなら日が傾き始める頃には終わっているはずだが、今日はトラブルでもあったのか、それとも議論が白熱しすぎて時間を忘れてるとか?
どちらにせよ、今変に邪魔してもアレだな。ここは結衣ちゃんを起こして鍵を出してもらうべきだろうか? でもそれはそれで、折角気持ちよく寝てくれてる結衣ちゃんの邪魔しなっきゃならん、それは避けたい。こんな信頼しきったあどけない寝顔を見せてくれている、そんな彼女に俺はできる限り応えてあげたい。一応言っとくけどこれ、愛しい女性に向けるような気持ちではなく愛しい我が子に向けるような父性や母性の類ですので念のため。
さておき。しゃーねぇから、会合終わるまでこのままぼけっと突っ立って待ってようか。帰りは完全に真っ暗になっちまいそうだが、言えばライトくらい貸してくれるだろ。なら後の問題は、腕はともかくそろそろ顎が限界なんですけどってことだが――
「――よォ和馬、ちっとそこ退けや。……あ、驚いて結衣落っことすんじゃねェぞ?」
何処からか投げかけられてきた、荒っぽい口調による楽しげなトーンの台詞。その声のみならず状況にもデジャブを感じた俺は、相手の命令と己の経験に従って三歩ほど横へとズレた。
その、直後。
「よっ」
なんて至極軽い掛け声と共に、門の上から飛び出してきた、モノクロの衣。それは軽く捻りや回転を加えながら、まるで布が落ちただけのような軽やかな仕草で俺の隣へふぁさりと着地した。
屈めていた身体をゆっくりと起こしたそれは、ただの衣ではなく、衣を纏ったひとりの女性であった。
ぴっちりと肌に張り付く白い長袖を着て、ややふわっとしたシルエットの黒いロングスカートを履いて、二つに結わえた黒髪をゆったりと靡かせる、見た目二十代半ばくらいの女性。
彩りも飾り気も皆無の服装に、細くて肉付きが薄くて女らしさに欠ける身体、それらは普通の女性であればマイナスになる要素なのだろう。だが、彼女の場合はむしろ逆。余計な要素を徹底的に排除することで、彼女は自らが持つ本来の『美』を剥き出しにし、研ぎ澄まし、見る者を男女問わず魅了する。
……ただ、彼女本人は『美しくはありてェけど、べつに惚れられたくはねーわな』といった考え方の人なので、仮に告白してみたところで玉砕は必至なのだけど。ちなみに俺は告白しないどころかそもそも魅了すらされてません、だって俺には睦子いるし――じゃなくって、俺にとっちゃ人妻なぞ完全守備範囲外ですのでね。しかもそれが友達の奥さんともなれば尚更だ。
「真知代さん、こんちはっす」
「おゥ、こんちはよ」
唐突なる登場を果たした真知代さんは、今しがたのエキセントリックな出来事なんて無かったみたいに、片手をすちゃっと上げて挨拶を返してきた。上げた手でそのまま俺の口から傘を受け取ってくれたので、俺は心の底から「どもっす」と感謝を送る。
俺の唾液のついた柄をフツーに持ち、逆の手に持ってた煙草をのんびりとふかす真知代さん。
「どもっす、はこっちの台詞だァな。なんか知らねェが、うちの娘に随分と良くしてくれたみてェじゃねーか。……もうしばらく抱いてっか? 結衣もその方が嬉しそうだしよォ。ほれ、ほれ」
真知代さんは、柄の先端で結衣ちゃんのほっぺをぷにぷにと弄ぶ。頬のみならず鼻の穴をぷにゅりと押してしまい、むずがる結衣ちゃんが「ぴぃ……」と鼻息で鳴いた。何今の鳴き声可愛い。可愛いけど、我が子で遊ぶなよお母様。
「折角だし、まだ抱かせてもらいますわ。てか、結衣ちゃんに煙草の灰落とされても困るんで」
さりげなく結衣ちゃんを庇いながら答えを返す俺に、真知代さんはを軽くローキックを放ってきながら呆れたように笑った。
「ンなことするわけねーだろ、バァーカ。……まァお前ェがそう言うなら、もう暫く頼まァ」
「ういっす」
俺とて、真知代さんが本気で結衣ちゃんに灰落とすだなんて思ってるわけもない。真知代さん、すげー家族想いな人だからな。つまり今のは、『煙草吸い終わるまで待ちますよ』『おォ、ありがとな』ってことだ。
携帯灰皿を取り出して完全に喫煙モードに入った真知代さんが、だいぶ暗くなってきた空をなんとなくといった風情で見上げて、煙でぷかぷかと遊び始める。俺もなんとなく煙の行方を眺めながら、これまたなんとなく彼方から聞こえ来る微かな話し声に耳を傾けてみた。
「……今日は長引いてるんですね、会議。……ってか、真知代さんこんなとこいていいんですか? ほら、お客さんのお持て成しとか」
「あァー……? あー、今は母ちゃんがやってくれてっからな。まァ、アタシもすぐ戻らにゃだけど。……………………戻んの、やだなァー……、あいつらクソうぜぇんだもんよ……。なァ、ウィーン会議って知ってっか?」
「……『会議は踊る、されど進まず』?」
「おゥ、それそれ」
真知代さんが煙草でこちらを指しながら、嬉しそうににこにこと笑う。けれど笑顔はすぐに荒んでしまい、狼煙上げ作業に逆戻り。
「べっつに、難しいこと話してるってわけでもねェんだがなァ……。なーんで老人連中ってのは、ああも同じ事を何回も何回もねちっこく蒸し返すのかねェ。しかも、話し合い途中で放り投げて酒盛り始めちまうなんざしょっちゅうだしよ。……『初めて陽樹がメインで担当する行事だから』と思って、今んとこはアタシも一応耐ちゃぁいるが、正直そろそろ爆発寸前だわ」
「…………………えっ、今回陽樹さんメインなの? 猪爺じゃなくて?」
「あァ? ……あァ、んー、まァ、一応な。……一応、そういうことになってんだが……、きっとあのハゲ共は、だーれもそう思ってねェんだろうなァ……。…………………………ざけんなよ、クソが」
まだ少しだけ残っていた煙草をぐしゃりと握り潰し、怨嗟を垂れ流す真知代さん。俺は彼女の心情が理解できてしまって、諫めることをせずに乾いた笑い浮かべることしかできなかった。真知代さんほどではないにせよ、俺だって陽樹さん贔屓だからさ。がんばれ、負けるな陽樹さん。
そんな俺の心のエールを漏れ聞いたのか、真知代さんは少しだけ元気を取り戻した様子で煙草の後片付けと会話の締めに入った。
「ま、なんだな。そういうこったから、また気が向いた時にでも、陽樹と良い酒飲んでやってくれや。……あァ、あとたまにはアタシともだな。ついでに睦子のヤツ連れてこいよ、あいつまだ休みで暇してンだろ?」
「暇かどうかは知らねっすけど、気が向いたら来るようには言ってみますよ。……あ、あと睦子の従妹の子が最近こっちに越して来たんですけど、その話って聞いてます?」
「……いとこ……?」
俺から受け取った結衣ちゃんを『やさしいお米のかつぎかた』しながら、少し怪訝そうに反芻する真知代さん。けれどすぐに気を取り直したようで、結衣ちゃんを「よっ」としっかり持ち直しつつ台詞を投げてくる。
「よくわかんねーけど、誘ってみて本人が来たいって言ったら、一回連れてきてみりゃいいんじゃねェか?」
「……いいんですか? 従妹っていっても、俺や睦子とはまたタイプの違う子なんですけど……」
「お前ェは連れて来たいって思ってんだろ? なら、そうすりゃいいさ。そのイトコが良いヤツかどうかはわからねーが、お前と睦子に好かれるようなやつなら、うちの連中も好きになるだろうよ。多分な」
――そんなことを笑顔であっけからんと言い放つことができる奥野田真知代さんに、うっかり魅了されてしまいそうでありました。
こうして、雛木姉妹&奥野田一家&荒鷲和馬によるお食事会〈混沌〉が開催される運びとなったのでした。
飲んだくれて早々ゲロ製造器と化す男衆と、それを白い目で見ながらタガの外れたぶっちゃけトークで盛り上がる女衆。その一夜の出来事が、その後の皆の生活にどう影響していくのか――。




