第4話 8月24日(木・1)。しとしと。
しれっと再開。
雨は、人を意味も無く憂鬱にさせる。
これが雷鳴の如く嘶く豪雨であればむしろテンションが上がっちゃう所ではあるのだが、こんな不快指数を上げることだけに特化したような霧雨の中では全然ハッスルする気になんぞなれんですわ。よって、本日は上半身裸でチャリ乗り回しながら熱唱する俺をお見せする事はできません。すごくごめんね。
「………………はー……」
作務衣の胸元をぱたぱたと仰ぎつつ、軽く溜め息を吐く。
バイトは終わった。今日は買い物の必要も無い。だから、あとは愛機に跨がり帰宅するだけ……だってのに、俺は『二毛作』の軒下から雨空を見上げ続けるばかりなり。
どーすっかなー……。憂鬱なまんま直帰ってのは、やっぱどうも気乗りせん。かといって、どっかで遊んでいこうってな気分でもないし。ぬぅ、悩ましい。
こういう時はとりあえず何も考えずに奥野田家か雛木家に向かうのが定石ではあるが、どっちも昨日行ったばっかだから連日突撃するのはあんまし上手くなかろう。じゃあ他に選択肢はというと、本屋で立ち読みするか、銭湯行くか、それから……。
「………………ん?」
ふと。視界の端で、見覚えの有る紅色が揺れたような気がした。
何の気なしにそちらへ振り返ってみれば、それに合わせたかのようについっと路地へ引っ込む――和傘。
「……………………………」
本来、時代劇の中か京の都くらいでしかお目に掛かることのないそれ。けれど俺は、そんな非日常的な代物をつい昨日直に目撃したばかりであった。
店の影へ隠れてしまった傘を幻視し、その持ち主であろうあの娘の姿をも幻視しながら、俺は小雨の中へと小走りに駆け出――そうとしたが、ふと思い立ってくるりと反転し逆方向へと駆け出す。
『二毛作』の周囲をぐるりと一周するようにして、件の路地へと裏手から回り込んでみれば、そこには果たして。
「………………あ、あれっ? ……消え、た、のです……? ……………えぇぇー……?」
などと静かに慌てながら、首だけ伸ばして表通りをきょろきょろ見回している、和服姿の女の子がいた。言わずと知れた、奥野田結衣その人である。
さて。俺の思いつき忍法が思いの外見事にキマってしまったようであるが、どうすっかなこれ。『わっ!』と驚かしてやりながら尻のひとつでもぺろんと撫でてやればいいだろうか? でもこの娘、昔はだいぶ肝の小さい子だったから、あんまひどいことするとまーた全力で避けられる日々に逆戻りしちまいそうだなぁ……。
しゃーない、無難にいくか。この娘で遊ぶのは、もうちっと仲良くなってからのお楽しみにしとこう。
「――あー。もし、そこのお嬢さん。申し訳ないのですが、少々お時間よろしいですかな?」
わざと適度に足音を立てながら近付いていきつつ、カイゼル髭を撫でる老紳士をイメージしたジェントルな声音で呼びかける。
結衣ちゃんは一瞬ぴくんと身体を跳ねさせたものの、俺の思惑通りにそれほど過敏ではない動きでこちらへと振り返ってくれた。
「……え……っ、と、わたし、でしょうか……?」
振り返ってはくれたものの、和傘で顔をすっかり覆い隠してしまっているせいで、こちらの正体に全く気付いていない様子である。昨日もなんとなくそんな気がしたけど、やはりこの子は人見知りな気質であるようだ。或いは、いきなり声を掛けてきた不審な男を警戒しているだけなのかも知れないが。
俺は軽く咳払いし、ジェントルボイスを継続しながら軽く遊ぶことにする。
「そう、貴女です。何やら探し物をしていらっしゃったご様子でしたので、宜しければお手伝いをと思い、不躾かと思いながらもこうしてお声をお掛けしたのですが……。やはり、ご迷惑でしたかな?」
「…………あ、い、いえ、そんなことはないのですっ、け、ど……」
結衣ちゃんは意味も無く辺りを見回したり身体をもじもじと揺すったりした後、傘ごとぺこりと大仰に頭を上げた。
「わたしこそ、申し訳ありません……。探し物をしていたのではなく、少し、知り合いを見かけた気がしてきょろきょろしていただけだけなのです。ですので、ご心配にはおよびません。……お気に掛けてくださって、ありがとうございます」
それは、俺みたいな似非ジェントルには到底真似できない、確かな品位と品性の宿った『誠意ある応対』であった。流石は奥野田家のお姫様――ではなく、ここは『流石は結衣ちゃん』と言うべきか。
……初対面の他人に対してきちんとこういう対応ができるのに、なーんで昨日は俺に対してあんな天の邪鬼だったんだろ? その辺、ちょっと揺さぶってみようか。
「ほうほう、そうですか。いやいや、それならば良かった。……あー、失礼ですが、その知り合いというのは、先程あちらにいらっしゃった作務衣姿の男性のことではありませんかな? 」
「…………………………………………………。ちがいます」
はい、天の邪鬼発動であります。嘘なのがバレバレな超硬い声での『ちがいます』いただきました。なぜだ。こっちの正体に気付いた……ってわけでもなさそうだから、ほんと何故だ。
根掘り葉掘り問い質したい所ではあるが、これ以上会話を引き延ばそうとすれば流石に不審に思われてしまうだろう。そろそろ切り上げねば。
「……そうですか。いや、私もあの男性とは少しばかり見知った仲でしたので、思わず早合点を――」
「――見知った仲、ですか?」
思わずといった様子で食いついてきた結衣ちゃんは、うっかり傘をどけてこちらの顔を直に目撃してしまった。
謎の期待を宿していた彼女の瞳が、一瞬くわっと見開かれ――。
「……………………………………ぐぇー……」
輝きの消え去った、ひどくどんよりと濁った眼と汚い悲鳴が俺を串刺しにしてきた。良家のお嬢にあるまじき、なんともひっどい顔である。
戯れが過ぎたかと自省しながら、俺は結衣ちゃんの手から傘をするりと抜き取り、彼女の頭上へと翳してあげた。ついでに俺も中に入り、これにて相合い傘が成立。ちなみにこれは戯れの一環でやったわけではなく、三割はお詫びのつもりで、あとの七割は小雨がそろそろ本気で鬱陶しくなってきたからである。
ようやく雨に患わされなくなってほっと一息ついた俺に、結衣ちゃんは物言いたげな視線とブンむくれたツラを向けてくる。なかなか表情の豊かな子だ。でもどうせならもうちょい可愛げのある表情見せてくれ。ほっぺ無理矢理引っ張って笑わせたろか? やんねぇけど。
「んで、お前さんのその変顔の数々は一体どういう意図によるものなんだい? 睨めっこでもご所望か? 言っとくが、勝負とあっちゃあ俺も一切手は抜けねぇぜ?」
「…………………………………」
結衣ちゃんは、道端に落ちてるナマコを見るような胡乱な目つきに。そして手元を見ないまま着物の袖をごそごそ漁ると、やがて朱肉入れのような小さな円形の物体をそっと差し出して来た。
受け取った俺は、それをしげしげと観察してみる。プラスチックとは異なる材質の、落ち着いたツヤを放つ黒い物体。小さくあしらわれた梅の花の意匠は、きっと匠の手作業によるもの。このえもいわれぬ気品と風格は、大量生産品では絶対に真似できない一点モノ特有のものであろう。結論、これたぶんめっちゃお高い。
「なにこれ、くれんの? まじサンキュー!」
「……欲しいなら、差し上げますけど」
「……………………………………え、マジで?」
「はい、もちろんなのです。よかったですね、これでお友達がいなくてもにらめっこできますよっ♪」
弾んだ声音でそんなことを言う彼女のお顔には、かつての俺が望んだはずの可愛げのある表情が咲き誇っていた。つか、これ手鏡なのね。……つーか、お前さんってばけっこうウィットに富んだジョーク言える子だったのね。………………ていうか、ジョーク、なんだよね……?
俺は内心で冷や汗を流しつつ、お友達代理を軽く握るようにして指先で撫でてみた。おお、すべすべだ。しかも程良くぬくもっているので、雨で我知らず冷えていた指先にこれは中々嬉しい。ちょっと本気でこれ欲しくなって来ちゃった。いやそうじゃねえだろ。
「結局、結衣ちゃんはなんでこんなとこにいたんだ? 別に俺の出待ちしてたってわけでもないだろ?」
新たなる友との交流を深めながら、何の気なしに問うてみる。すると、結衣ちゃんは何故か自分の身体を抱き締めるようにしてぎゅっと縮こまりながら、高速でずざざっと後ずさった。なんだこの反応?
俺は首を傾げながらも、結衣ちゃんに歩み寄って再度相合い傘に持って行く。ついでに小さき友をそっと差し出した。
「ほれ、これありがとな。……やっぱこういう洒落たモンは、俺みたいな無骨な野郎よっか、かわいい女の子が持ってた方が映えるからな。泣く泣くお返し致しまするぞ」
「……………………………ふん」
結衣ちゃんは俺の嘘泣きを鼻で嗤いながら、俺の手を引っぱたくような勢いで手鏡をもぎ取ると、いそいそと袂へ収納した。続けて、今度は少し穏やかになった手付きで和傘ももぎ取りにかかってきたが、俺はそれをフリーになったばかりの手でキャッチして妨害。獲ったどー!
結衣ちゃんは益々身体を縮めながら、上気した顔を思いっきり顰めて、捕獲された手をぶんぶんと振り回す。
「はなしてください。はなしてください」
「まあ冗談はこれくらいにしておいて、だ。ほんと、なんでこんなとこにいたんだよ? そろそろ暗くなってくるし、良い子は家に帰る時間だぞ」
「はなしてください、はなしてください」
「話してください、話してください。お前さんの本日の来訪の目的を、このジェントル荒鷲にどうぞ話してみんしゃいな。俺になんか用事だったんだろ?」
「……………………。はなして、ください、はなしっ、て、ください」
「正直に用件を言えば解放してやる」
「…………………………………………。用件、なんて、ない……の、です」
陸に打ち上げられた魚みたいにのたうってた結衣ちゃん(腕)は、すっかり勢いを失って。結衣ちゃん(本体)も、眼と声に涙を混じらせながらすっかり項垂れしまう。
……う、うぅむ。これはちょっと、やりすぎてしまったかもしれない。別に詰問や尋問をしているつもりはなかったんだが、薄暗い路地でいい年した男に腕掴まれて問い詰められれば、普通の女の子は怖がって当然だろう。
「……悪かったな」
俺は心の底からの謝罪を口にしながら、結衣ちゃんの手をゆっくりと放した。
結衣ちゃんはようやく自由になった腕を抱き締めながら、少しきょとんとしたような顔で俺を見上げてくる。そんな彼女の頭にぺふりと手を置いて、いい子いい子と優しく撫でてやった。
「ま、あれだな。こんなとこで会ったのも何かの縁ってことで、帰りは送っていってやろう。……用事は、まだ何か残ってるのか?」
「……………………いえ……」
「そっか。んじゃ行こうぜ」
最後にぺしぺしと頭のてっぺんを叩いてやって、なでなでは終了。叩かれたとこを押さえてますますきょとーんとしちゃってる結衣ちゃんに、俺は半歩踏み出して見せて『ほら行くぞ』とアピールした。
やがて、ゆっくりと歩き出す、俺と彼女。
彼女は俺を見上げ、俺は和傘の向こうの曇天を見上げる。
気付けば小雨は止んでいたが、和傘は閉じられることはなく、それを指摘する者は無い。
擦れ違う人が皆傘を閉じていても、俺も彼女も、それに気付くことはしなかった。




