第3話 8月23日(水・了)。微かなる憧憬。
――どうにも、寝付けない。
睦子のベッドで二人仲良く就寝するという雛木姉妹と『おやすみ』を交わし、一人寂しく客間に布団敷いて寝っ転がってから、早数時間。ずっと特になんも考えずに暗闇の中で普通に目を閉じ続けていたが、一向に眠気がやってくる気配が無い。
枕が変わった程度で眠れなくなるほど上等な精神なんざ持ち合わせていないし、そもそも雛木家に常備してある来客用の寝具は俺専用状態になってるから、そこらへんが理由というわけではないはずだ。なら、ちょっと前までのように何か問題や悩みでもあるのかというと、残念ながらというか嬉しいことにというか、特にこれといって思いつかず。
緋叉音はまだちょっと俺のことを警戒している様子ではあったが、もし本気で警戒していたら俺が泊まることを許しちゃくれなかっただろうし、あんな『おやすみ、……へんたいお兄ちゃん』なんて貶してんだか愛してんだかわからない台詞もくれなかっただろう。睦子も、おしゃれについて褒めた後からは若干ぎこちない態度を向けてくるようになっちゃったものの、あいつのあれは単にむっちゃ照れてるだけだ。このように、雛木姉妹との関係については、問題が無いどころか、良い方向へちょっとずつ進展中。
雛木姉妹のこと以外にも、良い方向への変化は有った。言うまでもなく、長いこと俺を避け続けてきた結衣ちゃんがようやくまともに顔を見せてくれたことだ。……顔見せてくれたなんてレベルに留まらず、結構なレベルの親愛まで向けられていた気がするのだけど、好かれてる分には嬉しいだけなのでこれも問題無し。
じゃあ、他に何か、睡眠の妨げとなるくらいの重大な悩みと言えば……って、なんでわざわざンなもん考えなくっちゃならんのだ。いいから寝よ寝よ、明日も早ぇんだし。
「………………………。その前に、ちょいとお水を」
上からお水飲みたい。あと下からお水出したい。そんな原初の欲求に突き動かされて、俺はふらふらと客間を出た。
◆◇◆◇◆
飲んだし、出した。後は寝るだけ――なのだが、トイレからなんとなくリビングへと戻ってきた俺は、電気も付けずにソファーに座ってぼーっとしていた。
革張りの座面から伝わり来るひんやりとした感覚が心地良く、なんかもう布団戻るよっかこっちの方が気持ちよく寝れそう。ああ、もうそれでいいや。おやすみなさーい。
「………………ん?」
いざ横になろうとした時。出入り口のドア越しに、廊下の方から――というか階段の方から明かりが差してきた。次いで、誰かが奏でる小さくも軽快な足音が降りてくる。
足音が一階まで達すると同時に、照明はぱちりと落とされて、世界は再び無明の闇に包まれて。そんな足元すら覚束ない状況下で、何者かはリビングへと着実に近付いて来て、そしてついにドアをゆっくりと開けた。
まるでホラーのような状況に一瞬ヒヤリとしかける俺へ、俺以上にびくびくしてそうな『何者か』がおそるおそる声を掛けてきた。
「………………カズマくん、いる……?」
「……もしここで、『いない』って言ったらどうするよ?」
「え? えっと、どうしよう……。…………とりあえず、ミコちゃん呼んで、謎の不審者をぼっこぼこのぎったぎたにしてもらう……とか?」
「それより先に警察呼べよ、睦子だってか弱い女の子なんだぞ。……まああいつの場合、外敵には一切の情け容赦がまるで無ぇから、いざって時にはそこらの男よっかよっぽど強いんだけど」
「あ、なんだっけ、そんな話聞いたかも……」
緋叉音は記憶を掘り起こすような声音で呟きながら、暗闇の中をこちらへよちよちと歩いて来た。彼女の手はソナーのように辺りを探っているが、あまりに精度が悪すぎて今にも食卓や椅子に足をぶつけてしまいそう。
「おい、危ないから電気付けろよ。つか、そもそもなんで起きてきたんだ?」
「危なくないから、電気は、いらないです。……あのね、お水飲みたかったんだけど、面倒だなぁって思って、ずっともぞもぞしてて。でも、カズマくん起きてたみたいだっ――わ、ほっ!?」
椅子の背もたれにリバーブローをくらった緋叉音が、変な声を出しながら思いっきり飛びすさった。反応からして、痛かったのではなく不意打ちで驚いただけだろう。でも次こそは本当に痛い思いをするかも知れないんだから、やっぱ電気つけろよ。
「ただでさえ足傷めてんだから、危ないことすんなよな……。水なら用意してやるから、お前ちょっとそこ動くな」
溜息をつきながら立ち上がった俺は、慣れた足取りで緋叉音の元へと向かう。よちよちふらふらしている彼女の手を正面から握ってやると、一瞬びくりと逃げられかけたものの、すぐに安堵の吐息を返してくれた。
「カズマくん、こんな暗いのによく見えるね……。実は、眼、良いの?」
「いや、人並み。でも、家具の配置は身体で覚えてるし、それに、お前の手やけに白くて目立つからな。こんくらいは楽勝だ」
「…………カズマくんって、けっこう躊躇なく私に触るよね。……これ、いいの?」
「………………。そこは、ほら、あれだ。……俺、ガチのお兄ちゃんだからな」
「…………じゃあ、いっかぁ……」
なぜか納得してしまった緋叉音は、俺に握られた両手を躊躇いがちに握り返してきた。細い指先が、俺の肌の感触を確かめるようにおそるおそる撫でてくる。
躊躇いがちで、おそるおそる。だったはずなのに、緋叉音はわりと早々と遠慮を消失させて、「おー……」なんて感嘆らしき溜息をつきながら俺の手を弄び始めた。何してんだこいつ、セクハラか? いや俺が言えた義理じゃねぇけど、うん。
でも一個だけ言いたいので、緋叉音の手を引いて針路を誘導してやりながら口を開く。
「お前、へんたいお兄ちゃんのこと警戒してたはずじゃなかったっけか? なーんで自分から触りにくるのか」
「うんとね、なんでかな。暗いと、わりとこういうの平気みたい。……それに、眼が見えないと、その分他の感覚が鋭くなって、おもしろいんだよ?」
「『おもしろい』でセクハラすんなや……。つか、俺の手なんて面白いもんでもねぇだろ。睦子のおっぱいとかの方が触ってて超楽しそうじゃね?」
「……………………………………うわぁ…………」
全力のドン引きいただきました。しかし緋叉音は俺の手を離すことなく、結局俺に誘われるがままに連れられてきて、ソファーにぽふりと腰を下ろす。
「じゃあ、水持ってくっから」
「あ、うん、ありがと。――あ、電気、つけないでね?」
「はいはい。………………おい、手、離せよ。いつまで揉み揉みしてんだ?」
こんなゴツい手の何がそんなにお気に召したのかは知らんけど、緋叉音はお水も俺の台詞もそっちのけでひたすら揉み揉みしている。別に減るもんでもないから好きなだけ揉んでもらってもいいっちゃいいんだけど、ふと睦子のふて腐れたツラが脳裏に浮かんでしまい、思わず緋叉音の手を振り解――けない。
「……おい、離せ、離せって。ちょっ、おい、こら、こら、おい、待て、こら待て、痛ぇ、痛ぇって」
「…………………………………………」
無言。そして一心不乱。緋叉音は俺の手にご執心なはずなのに、同時にまるで俺の存在なんて忘れてしまったかのように、ひたすら真剣な瞳と手付きで俺の手指を弄び続ける。
揉む。握る。指を開かせる。爪を撫でる。爪を立てる。つねる。匂いを嗅ぐ。もっと匂いを嗅ぐ。舌でちろりと舐める。
――人差し指の先を、口内へぱくりと含む。
「……………………………え、お前、何してんの?」
「もご? …………………………あっ」
ようやく我に返ってくれたようで、緋叉音ははっとした様子で口も手も離して全力で仰け反った。
俺は、食われた指に残る湿り気を紛れさせるべく手首をぷらぷら振りながら、今し方の出来事について冷静に考察する。
「……お前、あれか。指フェチか何かなのか?」
「……………………え、と……。カズマくん、怒って……、ないの?」
「べつに怒りゃしねぇよ、こんくらいのオイタで。ただ、できれば理由は訊きたい」
「………………あ、うん……。でも私も、自分であんまり理由とか、よくわかってないんだけど……」
けど。緋叉音は、何かへの怯えを堪えるようにしながら、硬い声音で続きを語った。
「時々、あるんだ、こういうの。……知りたいって、もっと知りたいって、そう思って、自分で自分を止められなくなっちゃうの。…………触っちゃいけないものを触ったり、食べちゃいけないものを食べたり……、見るだけじゃ我慢できなくて、もっとずっとずっと、『知りたいっ』、って……」
「……………はァん……?」
わかるような、わからないような。好奇心が旺盛、ということでいいんだろうか? だが、いきなり男の指をおしゃぶりするなんてのは、好奇心旺盛ですねーなんてのほほんと笑ってられるレベルを逸脱してしまっている。
それに。先程おしゃぶりしていた時の緋叉音からは、明確な目的や強固な意思が迸っていた。あんな気迫は、単なる好奇心ゆえのオイタなんぞで出せるものではないし、出していいものではない。
「…………………………」
ふと、緋叉音の足に巻かれた大袈裟な包帯に目がいく。
連日外を歩き回ったことで、すっかり皮がめくれてしまっていた足。本来は包帯使うような大怪我でもないし、そもそも出血にすら至っていなかったけれど、それでも結構な痛みは有ったはずだ。睦子に消毒液吹きかけられた時、完全に涙目になって悲鳴上げてたしな。
ひとつのことに集中すると、他のことが見えなくなってしまう。目的のためには、自分の身体も、常識も、何もかもを置き去りにしてしまう。それがきっと、雛木緋叉音という少女にとっての根本的で根源的なパーソナリティなのだろう。
それはきっと、ひどく生きにくい在り方で。そして同時に、
「――そんだけ、自分の気持ちに正直に生きられる、ってのは……、ちっとだけ、羨ましいかもな」
俺はふっと肩の力を抜いて、悄げてる緋叉音の頭をぐりぐりと撫でてやった。目を白黒させながら揺れる緋叉音に、俺は敢えて続きの台詞は告げず、ただただ無遠慮に撫で続ける。
……自分に正直に、か。それは、昔の俺が決してできなかった生き方だ。
親の人形として。或いは、一族のネームバリューを高めるための道具として。そんな生しか望まれず、許されず、自らの個性も感性もその全てを否定しながら生きていた、あの頃の俺には。
――でも。今の俺は、あの頃の俺とは違う。だから、緋叉音の在り方を羨む気持ちは、『ちょっとだけ』くらいでちょうどいいのだ。




