第3話 8月23日(水・11)。兄と妹(仮)の戯れ。
そんなこそばゆい無言電話のラストは、俺からの良い知らせと睦子による喜びの言葉によって締めくくられることとなった。
役目を終えたスマホをポケットに突っ込んだ俺は、自転車のグリップを押す手にぐっと力を込めて、やや早足で標的の元へと駆け寄る。その足音に気付いたのか、なんかなめくじみたいにずるずる歩いていた標的が、覇気の無い仕草でこちらへぬらりと振り返った。
寂れた自販機の頼りない光が照らす中。眼前で立ち止まった俺を見て、標的の双眸がぼんやりからぱちくりへと大変身。
「……カズマ、くん? …………あ、えっと……、こんばんはー?」
こちらへ向き直り、太股に手を添えてぺこりと頭を下げてくる緋叉音。きちんと着こなしている制服の効果もあり、結衣ちゃんに負けず劣らずの良家のお嬢さん風味が醸し出されている。
そんなお嬢さんに、俺は有無を言わずヘッドバッド一発。頭頂部をごつりとやられた緋叉音は、「びぇっ!?」と悲鳴を上げながら弾かれたように顔を上げた。
「ななななっ、な、なに、なんでいきなり殴るのっ!? な、なに、なんで、なんでっ?」
「慌てなさんな、殴ってはいない。ただのヘッドバッドだ。よって問題ナッシング」
「あ、え? ……えっ、そう、なの? ………………で、でも、これだいぶ痛いんだけど、えっと、出会い頭にそれって、あの、本当に問題ないの……?」
患部を撫でさすりながら怖々と問うてくる緋叉音に、俺は堂々と胸を張って大きく首肯を返した。
緋叉音は若干不思議そうな顔をしていたけど、わりとすんなり納得しちゃったらしく。患部撫でついでに乱れた髪を整えてから、どきどきしてそうなお胸に手を当てて小さく安堵の溜め息を吐きなさった。
「そっか、そだよね。カズマくんは、そういう突拍子のないスキンシップが大好きなんだーって、ミコちゃん言ってました……。……………あの、でも、カズマくん、なんだかちょっと怒ってたり、しない? ……目、ちょっと据わって……あ、もしかして、お酒飲んでる?」
「飲んでるし、ちょっと怒ってもいるけど、その二つは別々の話だから気にするな。――で、だ。なんで俺が怒ってるか、わかるかね? 『ちょっと前に注意したにも関わらず、家の人に一切行き先を告げず』に、『傷めている足を引きずりながら』、『人気の無い夜道を一人で歩いていた』、かわいい女の子さん?」
「…………………………………………わぁー……」
緋叉音はか細い悲鳴を上げながら、引きつった笑顔を浮かべた。どうやら、俺の怒りの理由は正しく伝わったようだ。
俺は更にお小言を重ねるべく口を開きかけたが、ふと陽樹さんと結衣ちゃんの親子喧嘩が頭を過ぎって言葉を飲み込む。代わりに溜め息を吐き出しながら、自転車を自販機横のフェンスへてきとーに繋ぎ止めた。
車輪のロック作業を終えた俺を見て、緋叉音が怖々と問うてくる。
「……それ、置いてく、の? ……なんで? ……………今度こそ、自由になった両手で、私をぼっこぼこのぎったんぎったんに――」
「しないっての。つーか、ぎったんぎったんとか久しく聞かねぇ言い回しだなぁ……。まあいいや、ほれ」
ほれ、と言いながら、しゃがみ込んで背中を見せる俺。
緋叉音は目で見えそうなほど盛大な『?』マークを頭上に浮かべながら、かくんと首を傾げる。
「ほれ……? ………………えっと、なんですか?」
「見りゃわかるだろ。ほれほれ」
「え? あ、あー、うん、わかる、わかります、はい! …………………………かたぐるま?」
「惜しいようで惜しくないけど、義理でぎりぎりニアピン賞にしといてやろう。んで、肩車でいいならそれでもいいけど、どうする? なんならお姫様抱っこも可」
「……………………………え-、っと……。…………なんで?」
緋叉音は相変わらず疑問符を宙へ放り投げるばかりである。俺の行動が突飛すぎたのも悪いっちゃ悪いだろうけど、やっぱ緋叉音ってちょっと察しの悪い所ある気がする。もしかしたら、こういう所が『ズレてる』と評される原因になったのかもしれないな。
このままだと埒明かなそうなので、俺は仕方無く立ち上がった。自転車のカゴにハマってたレジ袋を左手で引っこ抜き、そして右手――っつーか右肩を、棒立ちな緋叉音の腹へとおもむろに押し当てる。
「――――――――えっ――――」
そんな戸惑いの悲鳴が聞こえた気がするか、俺は構わず緋叉音の身体を「よいしょー」と持ち上げた。これぞ必殺・米俵担ぎ。一件乱暴な体勢に見えるが、猪爺直伝の『おこめのやさしいかつぎかた』を体得している俺の肩の上は、最早ゆりかごも同然であると巷(=俺と睦子の間)で評判である。
緋叉音のほそっこいふとももの裏をスカートごと右腕全体で抱き締めて、緋叉音もレジ袋もきちんと持ち直し、俺はようやく睦子お姉ちゃんの元へと歩みを再開。
緋叉音は腕や足を中途半端に折り曲げた体勢で固まったまま、しばし大人しく揺られ続ける。
「…………ん……、緋叉音、ちょっと肩痛ぇ。たぶん金具」
「……えっ、あ、ご、ごめん、なさい?」
本日も彼女のお胸の合間にたすき掛けされていた、例のシブいショルダーバッグ。それのストラップを緋叉音は己のお腹と俺の肩の間からもぞもぞと引っこ抜き、バッグ本体とひとまとめにして両腕でぎゅっと抱き締め直した。
よしよし、これで痛くない。むしろ程良くやわらかくて、あったかかくって、気持ちいい。……これおっぱいじゃねぇよな?
「…………………………かずま、くぅーん……」
「あん? なんだ、そんな捨て犬みたいな鳴き声出して。やっぱ足痛むのか?」
「…………あ、ああ、なんだ、そっか。それで、この体勢なんだね……、そっか……。………………えっ、あの、でも、カズマくんにとっては、足ケガした女の人を見つけたら、こうやって担いで運ぶのが、極々当たり前で自然なことなの?」
「相手による。知り合いなら、まあ、状況とか関係次第でやるかな」
「……………………私相手だと、やるの?」
「あー? あー、どうだろな。たぶんやるんじゃね? 今やってるし」
多少酒が残っているせいで判断基準が曖昧になっている所はあるが、もし素面の俺であっても結局必殺技を発動したと思う。だって、
「お前、もう俺らの妹みたいなもんだしな。……『みたいなもん』とかそろそろ面倒だから、もうガチの妹でいいべ?」
「………………………………えー」
む、若干引き気味のお声が返ってきた。さすがに実妹扱いは時期尚早だったか。でも実妹は無理でも実の従妹にはなるんじゃないかと思うね、そのうちさ。理由は睦子お姉ちゃんに訊いてくれ。
それより、やっぱちょっと気になることがある。だから俺は、緋叉音のふとももを撫でながらお尻へと語りかけた。
「お前もお前で、赤の他人って距離感じゃないだろこれ。いきなり身内でもない男に無遠慮に抱き付かれたら、普通はもっと暴れていいんだぜ? なんで素直に運搬されてんだよ」
「………………え、だって、これ、行き先って『うち』だよね? しかも、抱き付くっていうか、ほんと運搬作業だし……。私って、お米なの?」
うち、という呼び方をしているあたり、どうやら緋叉音もあの家にすっかり馴染めたみたいだな。家だけじゃなくて、そこの住人とも、かな。そうでなけりゃ、こんな自然に『うち』なんて呼べはしないだろう。
俺は内心で笑顔を浮かべながら『そっか、そっか』と呟きつつ、嬉しさのままに星空を仰いで回答する。
「んー、そだなー。重さや感触はともかく、この程良いぬくもりは、精米したての米に通じるものがあるかもしれんね。……あ、そだ、コイン精米所見たことあるか? 都会には無いだろあれ。流れてく米に手突っ込むの気持ちよかったり、個室に満ちる濃厚なお米の香りが堪能できたり、めっちゃおもしろいから今度体験させてやんよ。なんなら、田植えやら稲刈りやらもやってみっか? 頼まなくても喜んでヤらせてくれる都合の良い知り合いがいるから、遠慮しないで『ヤりたい!』って言ってくれていいんだぜ? まあ、たぶん俺と一緒にガキ共に混ざっての手伝い程度しかやらせてもらえないだろうけどなー。…………くっそ、コンバイン乗り回してみてぇなぁ……ぜってーチャリよっかキモチイイよあれ……ちっくしょー……」
「………………………………。カズマくんって……、あれっ、カズマくんって都会の人じゃなかったの……? 私今、お米農家の人とお話してる……?」
「たかが俺ごときがお百姓様のような雲の上の方々と同格なわけねぇだろうが! 口を慎めよ小娘!」
「…………………………うわぁー……」
うわぁーってなんだ、うわぁーて。ドン引きしたような声音でありながら、どこか喜色のようなものが滲んでいたようにも感じたけど、そこに込められた真意はなんだ。
「……………………………………」
緋叉音は、そろそろ圧迫されてるお腹がつらくなってきたのか、会話より呼吸を優先し始めて。その気配を肩で直に読み取った俺は、胸中の疑問を放置してとりあえず口を閉ざす。
無言で揺られる彼女と、無言で揺らし続ける俺。会話は唐突に途絶えてしまったが、互いに触れ合った場所を通して今尚交流が継続中であるかのように、気まずさとはなぜか無縁の空間が展開されていた。




