第3話 8月23日(水・10)。隙あらばイチャりて。
結衣ちゃんと、微妙な空気のままで別れた後。駅で自転車を回収した俺は、睦子の家へ向かって闇路をとぼとぼ一人歩きしながら、小さく溜息を吐く。
「…………年下の女の子に、見透かされてしまった……」
弱い気持ちを見透かされてしまい、気を遣われてしまい、気を遣わせてしまった。
あのまま話し続けてもボロばっかり出そうだったから、結構強引にサシ飲み第二部はお開きにさせてもらっちまったけど……。そんな唐突な流れをあの子がすんなりと受け容れてくれたのは、きっと俺のボロばっかでナイーヴさんな心をばっちりと見透かしちゃったからなのだろう。
……いや。見透かした――というより、もっと遥かに以前から『見透かしていた』と言うべきか。
別れる直前。『お前さんの成長を喜んでいるのは、嘘なんかじゃないから』と、どうかその気持ちは疑わないでくれと念押しした俺に、結衣ちゃんがくれたあの言葉。
『………………知っています。…………ちゃんと……、きちんと、伝わっていますから』
知っている、と。伝わっている、と。そう語る彼女の口調はやけに力強く、それを語る彼女の顔には、強ばりの抜けた自然な微笑みが浮かんでいた。あれはどう考えても、ほぼ初対面みたいな野郎相手に向けていい類の台詞でも表情でもなかったし、事実として俺と彼女はもっとずっと前からの知り合いだった。
直接は会っていない間も、俺が猪爺や陽樹さんを通して彼女と関わり続けていたように。彼女の方もまた、俺へと間接的に――或いは、俺が知らないだけでより直接的に――関わり続けてくれていたのかもしれない。
……まあ、それはあくまでも俺の想像だけどな。事実がどうなのかを本人に訊ねるのは、『次の機会』にでも譲るとしようか。
「………………………………」
次の機会。それはきっと遠からず訪れるのだと、確証はなくとも確信がある。そもそもが、これまでに幾度となく顔を合わせていてもいい――どころか、逆に合わせていなければおかしいような間柄なのだ。こうして無事に『再会』を果たせた以上、これからはお互いを避けねばならない理由もこれといって無い。
ならば、次の機会は訪れる。これはきっと、変化であり、そして成長だった。
……俺のではなく、結衣ちゃんの、だけど。
「…………………………………ん?」
もうすぐ、睦子の家のある住宅街with森林地帯へ入ろうかという頃。涼しげな虫の合唱を切り裂く、耳慣れた電子音が響き渡った。
一旦歩みを止めた俺は、チャリに軽く座りながらスマホを取り出し、ディスプレイに浮かぶ文字を確認。そこにあったのは俺にとって世界一親しい女性の名前であったため、未だえもいわれぬアンニュイな気持ちを引きずったままではあれど、習慣に基づいてほぼ無意識に通話を開始した。
「もしもし、睦子? ……あ、悪い、連絡忘れてたけど、お前まだ夕飯の準備してないよな?」
『………………………………えっ、な、なに、それ? か、カズちんってば、そんな、えっと、告、白? みたいなアレとか通り越して、もうすっかり、夫、気取りであらせられまするのでありまするのでありましょうか……?』
「……………? え、なんでお前そんなむっちゃ照れて――あっ」
おおっとうっかり! 俺今日、こいつとらぶらぶデートしながら告白とか結婚とかゴム有りえっちとかのお話をしてきた所でしたっけ。その後に二度の突発的飲み会やらシリアスやらアンニュイやらがあったせいで、睦子お姉ちゃんとの甘ぁ~いひとときの記憶がすっかり記憶の彼方いっちゃってたぜ!
『…………………………………………カズ、ちん……?』
忘れられていたことを俺の反応から察したらしい睦子は、電話越しでもわかるほどにみるみる機嫌を斜めに傾けていき、あまりの傾斜のキツさにそのまま滑って落ち込――ませないッ!
「どうかお待ちくだせェ、お前のことは勿論きちんと考えてるけど、今はちょっと色んなことで頭ん中ごちゃごちゃしてました、マジごめんなさい。あとでいっぱい『ちゅー』して差し上げますので、ここは平にご容赦を」
『………………………ん………。………んー…………、……………ごちゃごちゃって、なんかあったの? ……ちゅー、してほしい?』
お、どうやら『事情次第では情状酌量の余地アリかも』と思い直してくれたようだぞ。どころか、事によっては親身に相談に乗ってくれた挙げ句にちゅー返しをくれそうな気配までビンビンである。俺の周りの女性は女神や聖母しかいないのだろうか? ちゅー、超絶してほしいでっす!
「や、なんかあったつーか、俺が勝手にヘコんでただけっつーかな。それは後でいいから、それよっかお前、なんか用事あったんだろ?」
『あ、うん、ある、けど……。………………いいの?』
「おう、よいぞ。……………あ、でも先に一個これだけ。夕飯の準備はまだしないでくれるか? 奥野田さんからのお裾分け、ぎょーさん貰って来たから」
『――あっ、ほんとっ? えっとじゃあどうしよっかなぁ~、とりあえずご飯だけ多めに炊いとこ――じゃなくってっ!』
語尾に音符が見えそうなほどに声を弾ませていた睦子による、絵に描いたようなノリツッコミが炸裂。睦子お姉ちゃんは真知代さん謹製手料理への想いを無理矢理断ち切ると、少し真面目ぶった声音で本題を切り出してきた。
『あんた、今どこ? ……あんたがたどこさ?』
「肥後さ。或いは、お前んとこ向かってる途中の、もうすぐ自販機なあたり。なんで?」
『熊本さ。……あー、んと、途中で緋叉音ちん見なかった? あの子、まだ帰って来てなくてさぁー……。鞄は置いてあるから、一回は帰って来たっぽいんだけど……、ついでにスマホまで置いてっちゃってて、連絡取れないんだよねー……』
「熊本どこさ――あ? 連絡取れないって……、お前、もうほぼ真っ暗だぞ? マジで?」
田舎の夜は、空の星々の明るさとは裏腹に、地には純然たる闇が垂れ込める。ここらは街灯や民家の光があるから幾分マシではあるが、それでも中学生の女の子が一人歩きしていいような環境とはあまりにも言い難い。変質者にアタックされたりする心配は無いだろうけど、狸がタックルかましてきたりとかは俺も何度か経験してるし、極々稀にではあるが猪がタックルかましてくることすらあるのだ。
『あーうん、マジマジ。でも、一応ライト付きのキーホルダーあげたし、それに無闇に獣道に突っ込んでったりとかは流石にしないだろうから、大丈夫はだいじょうぶだと思うんだけどね……。でも、緋叉音ちんって、ちょっと天然というか、行動が読めないというか……。それに、今あの子、足傷めてるはずだから……』
「え、足? ……………………え、なに、骨折?」
『あ、ううん、そんな大袈裟なのじゃなくて、ちょっと靴擦れっぽくなってるだけ。……なんだけど、それでもやっぱり、無理は禁物でしょ? だから、今からちょろっと捕獲に行って、おんぶでお持ち帰りしてこよっかなって。わっしょい、わっしょい!』
「それおんぶじゃなくて御神輿じゃね? つーかお前も出歩くんじゃねぇよ、俺の心労が二倍になっちまうだろうが。――状況は把握したから、後は俺に全部任せろ」
俺は迷い無く言い放ち、通話を続けたままで再び自転車を押して歩き出す。
睦子は『言うと思った』と嬉しそうに笑うと、これで一区切り――を通り越して解決したも同然のような雰囲気で、ハイテンションに告げた。
『さてさて、じゃあそろそろご飯でも炊きましょっかねぇ~♪ きょーの主菜はなんですかっ?』
「なんか魚」
『……うっわぁ、雑……………。二重の意味で、そんなことでいーのかね、未来の専業主夫さん?』
「勝手に俺が今後も定職を得ない前提で話すのやめてくんない? そもそもお前どんだけ稼げる気でいんの? 社会っていうのはね、学生さん達が思ってるよりも数十倍は厳しいのよ?」
『………………………………他に、つっこむ所は?』
「………………………………」
俺はその問いに敢えて沈黙を返し、それを以てツッコミとさせて頂く。
反発でもスルーでもない俺の反応に、睦子はたいそう機嫌良さそうに『にひっ♪』と笑い、会話が無くなってからもしばらく電話を切ろうとしませんでした。




