第1話 8月20日(日・2)。緋色の夜叉は歩み寄る。
いつの間にか微睡みの中へと堕ちていた俺の意識が、無粋な電子音によって強制的に覚醒を促された。
零れそうになった唾液の雫を間一髪で啜り、気管に入りかけた分を軽く咽せさせながら辺りを見回す。涙に滲む視界を数回瞬かせて蛍光灯の光に馴染ませているうちに、自分がどういう状況だったのかを思い出してきた。
そっか、俺も寝ちまったのか……。メシの準備を終えた頃になっても件の女の子が全然起きる気配無かったもんだから、仕方無く手近な柱に背を預けて座り込んだままぼーっとしてたんだよな。そうしてるうちに、あのすんげー気持ちよさそうな間抜け面につられてついついうとうとと……。
「っと、そういえば……」
今度は明確に標的を思い浮かべながら、改めて辺りを見回す。
俺の身体を境界線として、右に広がるのは照明の灯る和室。そして左後ろには、先程まで少女の寝床と化していた縁側だ。
少女の姿はそのどちらにも無く、気付けば先程の電子音も既に鳴り止んでいる。その二つの行方を求めて、半開きのガラス戸の向こう、暗闇に沈む庭へと目を凝らした。
室内からの光がぎりぎり届くか届かないかの位置。そこに人の足らしき影を発見したので、舞い落ちる星明かりを頼りにして正体の判別にかかる。
寝起きでうまく機能しない視界に先んじて、耳が電子音とは明らかに異なる澄んだ肉声を拾った。
「――すみません、まだです、はい……、ごめんなさい……、………………あ、えっと、そうじゃなくて、ちょっと…………、………………ちょっとした、用事、です……の。…………え? い、いえっ、いやっ、そうでもなくて…………、…………………………や、や、いやだからそれちゃう、ちがうから――」
俺の視界と耳が捉えたその少女は、転た寝している俺に気を遣ってか、こちらに向けた背を丸めた体勢で呟くようにしながら何者かと話している。その声は、純粋な音色としてなら耳に心地良く響きはするのだけど、言葉として考えるならば少々聞き取りにくい。それは彼女の『通話』の相手にとっても同じであったらしく、少女は度々「そうじゃなくて」と相手の聞き間違いを訂正せねばならないハメに陥っているようだ。
俺は固まった身体をほぐしながら立ち上がり、中途半端に開いていたガラス戸をかたりと鳴らしながら押し開けた。
その音と気配を察したのか、少女が弾かれたように背筋を伸ばしてこちらへ振り返る。
そして俺達は、ようやくまともなファーストコンタクトへと至った。
蛍光灯の光を背負って立つのは、使い込まれた甚平衛に身を包んだ、二十代半ばの男。星明かりに浮かび上がるは、臙脂色の制服を身に纏いし、推定十四歳の黒髪美人。
見下ろす俺と、見上げる彼女。俺も少女も、程度の差はあれど、その顔に浮かべているのは『驚き』であった。
――間抜けな寝顔眺めてる時も『綺麗だな』とは思ってたけど、起きてる時はまた予想以上にレベル高ぇなこれ。美人に対して耐性付いてなかったら、うっかり心が持っていかれてたかもわからんね。
「……おい、それ。なんか言ってるぞ。出なくていいのか?」
いち早く原状復帰した俺は、未だ絶賛驚愕中の少女に小声で呼びかけた。ちょいちょいと指差す先は、臙脂色のベストにほんのりと浮かび上がる貧しき乳房――ではなく、そこに押しつけるようにしてぎゅっと握られてるスマホだ。
少女ははっとした様子でスマホを持ち直すと、ディスプレイと俺の顔を何度も何度も見比べる。見比べて、見比べて、躊躇いがちにスマホを耳元へ持って行きながら、心苦しそうな表情でおそるおそるこちらの顔色を窺ってきた。
もしかすると、ちょっと気を遣いすぎる気質の子なのかもな。そんなことを思いながら、俺は手の平を少女に向けて差し出して見せた。『俺のことは気にせず、どうぞお出になってくだせぇ』のポーズ。
俺のジェスチャーを受けて、少女はほっと胸を撫で下ろし――
――つっかけをぺたぺた鳴らしながら歩み寄ってきて、俺が差し出した手の平へ、スマホをそっと置きました。
「…………………………………………」
硬直する俺に気付くことなく、少女は一歩退くと、先程よりも大きめな安堵の溜息を吐く。空いた両手を股の辺りで意味も無く組んで、軽く視線を落とす彼女の姿、それは完全なる待ちの体勢であった。
しばしの後。ちらりと見上げてきた『どうしたの? ……私、もしかして何か間違った……?』と言わんばかりに揺れ始めた瞳に突き動かされて、俺はほぼ脊髄反射みたいな動きでスマホを己の耳元へと持って行った。
「……もしもし?」
『――あァ? 誰だおまえ、ざけんなよゴルァ』
まるで意味のわかっていない俺を迎え撃つ、えらくドスの聞いた唸り声。なんでいきなり因縁つけられてんだ俺、更に意味わからん状況になったぞ。
でもひとつわかったことがあって、やたら低い声音ではあったものの、どうやら通話の相手は女性らしい。こんなことがわかっても何の解決にもならねぇな、もっと情報プリーズ。
「……お前こそ何者だ、無礼者め。名を名乗れやゴルァ」
思わずイラっとしながら言い返した俺を、少女がやたらめったらびっくりしたお目々で見つめてきた。けれど俺は無礼者に対する無礼な物言いを撤回すること無く、どっしりと構えて相手の反応を待つ。
これは俺の経験則だが、悪質なクレーマーに対する最も有効な手立ては『最初から決して弱気を見せないこと』だ。奴らは基本的に自分より弱そうな相手にしか牙を剥かないからな。俺はそれを卑怯だとは思わない、だってこの世は弱肉強食。でも俺は黙って食べられてなんかやらないぜ、やんのかゴルァ、食っちまうぞゴルァ!
俄に肉食獣の血を滾らせる俺に、けれど女性は何故か『んー?』と少し頭が冷えてきたような呻きを返してきて、やがて怪訝と脱力の入り交じった複雑な声音で一言。
『ひょっとしてー、なんだけどさぁ。……あんた、和馬だったりする?』
「誰が和馬じゃゴルァ! 俺が和馬だゴルァ! ……………………え、えっと、なんで俺の名前知ってやがるんですかゴルァ?」
『ゴルァって、それ気に入ったの? やめなよー、なんかそれ無駄にガラ悪いしさぁー。もし初対面の相手にそんなん言ったら、ぜーったい第一印象最悪だよ? チョイワルがモテるのは頭と尻の軽い女に対してだけだよ? おねーちゃんは、かずまくんにはそういう女にひっかかってほしくないなって、せつにそう願います!』
「いや、ゴルァって最初に言い出したのお前だからな? そこ忘れるな? でも正直ごめんよお姉ちゃん」
『「お姉ちゃん♡」だって。プッ、ちょーキモい』
「おう、テメェちょっと表出ろや」
思わず、首をかっ切るような仕草で親指を庭へ向ける俺。その動きが意図の外で眼前の少女をびくりと怯えさせてしまい、俺は慌てて手を振って「わ、悪い」と謝った。
その謝罪が自分へのものだと受け取ったのか、遠慮無く笑い声を上げていた女性はちょっと自重したような様子で本題へと戻った。
『やー、でもほんと、あたしもごめんね? でもさ、しょうがないじゃん。かわいい妹(仮)に電話かけたら、いきなり野郎が出て来て「もしもし」だよ? これ、思わずちょこ~っと喧嘩腰でゴルァっちゃうくらいは、大目に見ておくれでないかい? だめ?』
「おくれでないかい言われても……。え、妹? 誰が、誰の?」
『ひさねが、あたしの?』
「………………………………お前、妹なんていたの? 初耳なんだけど」
『だよね、そんなのあたしも初耳。ていうか妹じゃないし。カッコカリだし。正解は、妹じゃなくて 従妹なのでしたー』
最後のそれを最初に言えよ……。なんでこいつ、俺相手だとやたら話があっちこっちに蛇行しまくるんだろう。これ嫌がらせ? それともお前、もしかして俺のこと好きなの? でもそんなツッコミ入れねぇよ、また話がどっか飛ぶの目に見えてるし。大体こいつ彼氏持ちだし、しかも現在は変則的な二股状態だったりするし。
まあこいつの恋愛事情は(どうでも)いいや。それより今は、もっと先に確認すべきことがある。
「……『ひさね』ちゃん?」
俺はスマホからほんの少し顔を話して、少女へ問いかけるような声音で呼びかけた。
少女はちょっと手持ち無沙汰な様子で髪飾りを撫でていたが、動きを止めてきょとんとした顔で俺の目を見つめ返してくる。そのまま数秒ほど経過し、流石に今のは言葉が足りなさすぎたかと反省し始めた俺に、けれど少女は一転して得心の笑顔を見せてきた。
「あの、ひさねっていうのは、『緋』色の、夜『叉』の、足『音』、って書きます! ひ、しゃ、おと、の部分を抜き出して、ひさね、って読むです!」
「なんかえらく物騒というか、厨二的な自己紹介を受けた気がする……けど、えっと、ひしゃおと? すまん、ちょっと時間くれ」
手の平を突き出してタイムを要請する俺に、少女は長髪と羽をふわふわはためかせながらこくこくこくこくと過剰な首肯を返してくれた。黙って立ってりゃ凛とした美人なのに、何か行動する毎にどんどん化けの皮が剥がれてく面白い子である。……いや、そもそも初っ端の時点でまったく化けの皮とか被ってなかったなこいつ。
こいつ、じゃなくて、ひさねか。漢字は、ええと……、緋叉音、で合ってるよな。厨二的な自己紹介に違わず、気合いの入った字面だ。……さっき俺がこの子の――緋叉音の名を呼んだのは、『お前さんの名前はひさねで合っているのかい?』っていう確認の意味だったんだけど、意図せずして想定以上の情報が得られたな。
でも残念、俺が今最も欲しい情報はこれじゃないんだなぁ、実は。
「おい、ひとまず切るぞ」
一方的に告げて通話を切ろうとする俺に、自称お姉ちゃんが慌てた様子で追いすがってきた。
『まーまー待て待て待て待つんだ、カズちん! あんたちょっと、大丈夫なの? ………………ってまあ、聞くまでもない気するなぁ、うん……』
「勝手に納得すんなや、一体何の話だよ。あとカズちんて呼ぶな」
『何の話って、だから、あれね。引っ越し初日に書き置き残して失踪とかどういうことなのとか、そこから何がどうなってあんたのとこ行ってんのとか、なんかそういうエトセトラ? カズまんは、緋叉音ちんからそのあたりの事情全部聞いてるの?』
「微妙に下ネタ臭いあだ名だけど俺なんも言わねぇからな。……つか、書き置きに、失踪……? え?」
いきなり飛び出してきた不穏な単語を反芻すると、緋叉音が頭をガードするようにしながらさっと素早く顔を伏せた。どうやら緋叉音には、今の単語にばっちり思い当たることがあるらしい。ついでに言うなら、怒られるようなことをしたという自覚もお持ちのようで。
俺は少し考える。けどすぐに思い直して、緋叉音の頭をこんこんと強めにノックしながら、スマホの向こうの自称お姉ちゃんな妹分に言葉を放る。
「細けぇことは後でいいや。帰りは俺が送ってくから、今からメシ食わせてやってもいいか? 悪い子じゃないみたいだし、話さなっきゃいけないことがあるなら、メシの最中にでもしてくれるだろ。で、問題ある?」
緋叉音にちろりと視線をやりながらの、末尾の問いかけ。それに緋叉音が面食らったような様子であわあわと口や手を動かしてる間に、それとは対照的にどこまでも落ち着ききった――ある種の解脱の境地に達してそうな気配まである生温い声が俺の耳を撫でてきた。
『問題無い無い、な~んもないよぉ。お父ちゃんもお母ちゃんも、まーた休日出勤くらって出てっちゃったし。そっちで緋叉音ちゃんに良いもん食べさせてくれるなら、あたしも彼氏侍らせてどっかで食べてくるわぁー。んだば、あとはよろしゅうなー。
――あ。もしアレだったら、ご飯だけじゃなくて寝床のお世話もしてあげていいからね?』
「…………………………あん?」
軽口や冗談としか思えない、しかし、素のトーンで付け加えられた一文。そこに込められた意味を一瞬理解できなくて、俺は思わずスマホをまじまじと見つめる。その視線の先で、続きの台詞もドッキリでしたのネタばらしも無しに通話は切断され、そして後には静寂だけが残った。
静寂。後に、意識していなかった秋の虫たちの囁きが戻って来る。その風鈴にも通ずる涼やかな音色と、ゆるりと吹き抜けていく夜の風は――
「ぺくしゅっ」
「ぶぇくしっ」
――寝起きな二人の身体を過剰に冷えさせ、二つのくしゃみを生んだ。
俺は軽く二の腕あたりをさすりながら、ちょいと縁側を見渡す。少し離れた位置に、綺麗に畳まれている目的のブツを見つけたので、ちょっと感心したような気持ちでそれを引っ張り寄せ、俺と同じような仕草で露出した細腕をさすっていた緋叉音へと差し出した。
「ほれ。……あ、スマホもありがとな」
促されて反射的にそれらを受け取った緋叉音は、しかしそこからどうしていいのかわからないような顔で腕の中のブツと俺を見比べる。
俺は敢えてその件についてはそれで終了とし、戸枠にもたれかかるようにして半身を引きながら、和室の方をあごで差した。
「話はなんとなく聞いてたよな? んじゃま、そろそろメシ食おうぜ」
「…………え、で、でも……、ほんとに、よろしい、の、ですか?」
「本当によろしいですよっと。あいつの妹みたいなもんだっつーんなら、俺の妹みたいなもんでもあるしな、気遣いは無用に願いたい。それにだ、時と場合によっては、気ぃ遣った方が逆に失礼になるってこともあったりすんだぜ? 日本人って気難しすぎてマジヤベェ」
「………………そっ、か……やっぱり……。………………じゃあ、あの……、…………きょーしゅく、でーす?」
俺のあんまり筋が通っていないような屁理屈に、彼女なりに納得できるものを見出したのだろうか。緋叉音はぎこちないながらも承諾の言葉とお辞儀を返してくると、腕の中のそれ――先程緋叉音が寝てる時にかけてやっといた、小さめのタオルケット――をストールのように肩に羽織り、おずおずと歩み寄ってきた。
俺はそれに合わせて室内へ引っ込み、人工の明かりが満ちる和室のその向こう、台所を目指してゆったりと歩いてゆく。
緋叉音に関する断片的な情報をつなぎ合わせるのは、メシ食いながらの、緋叉音本人と話しながらでいいや。今はとにかく、豚汁、豚汁!