第3話 8月23日(水・7)。Q.その頃姫君はどこに?
背後には、仄かに酒宴の香りと人の熱が残る大広間。前方には、水と樹と岩で織り上げられた清澄な庭園。それらの狭間に横たわる長~い縁側に、一仕事終えてやること無くなった俺はひたすらぬぼ~っと座っていた。
俺の傍らには、冷蔵庫からちょっぱってきた飲みかけのビール瓶が数本と、大皿にみっちりと敷き詰められた色とりどりな余り物軍団、加えて俺が持参したしょっぱい軍団に、あとはてきとーなコップや小皿なんかが勢揃い。もういつでもプチ宴会を始められるだけの準備は整っているのだが、肝心の飲み友達がやってくる気配は未だに無し。
陽樹さん、なんか他の用事でもやってるのかな? 猪爺のことも一応起こしに行ったんだろうか。それとも、途中で真知代さんに捕まってどっかに連行されちゃった?
……或いは。結衣ちゃんが疲労の蓄積で体調悪化させてたから、今慌てて介抱してあげるとこだ、……とか?
「……………いや、無ぇな」
今更無理に悪い想像をする必要はないだろう。それにもし本当にそういう事態になっていたなら、氷枕やら飲み物やら濡れタオルやらの準備でこっちまで来なきゃだろうけど、陽樹さんも結衣ちゃんも、その他のだーれも来る気配無いし。よって、唐突なねがてぃぶは必要なーし!
…………………………でも、やっぱちょっとだけ心配。こういう時って、やっぱ直接元気な顔を見ないと安心できねぇよなぁ……。それに今回の件は俺にも責任が――ていうか俺の身勝手がそもそもの発端なのだから、罪悪感まで上乗せされて余計に心配になってきちゃった。あとね、こんなだだっ広い豪邸の中に一人ぽつんと取り残されちゃうとね、えもいわれぬ心細さがじわじわ這い上がってきてね、とりあえず何かしら動いていたくて仕方無い。
「………………………………」
酒宴チームとは逆サイドに置いといた、土産入りの紙袋をなんとなく引き寄せる。
陽樹さんが軽くネタバラししちゃってたけど、これの中身は甘い系の和菓子だ。こことは少し離れた県の銘菓で、シューっぽい生地の中にカスタードっぽいクリームが入ってるような感じのほぼ洋菓子みたいなやつなんだけど、あくまで和菓子らしく甘さがあんまり後を引かなくて上品なお味に仕上がってるという、正に匠の逸品。ちなみにこの菓子の銘は、満月っぽい見た目ともちもちした食感から取って『餅月』と付けられている。餅月、ちょー美味ぇ。
ちょー美味ぇはいいんだけど、ただこれあくまでも余所が本場のお菓子だから、郡宮まで行かないと手に入らないんだよね。甘い物嫌いを公言してる猪爺がわざわざ菓子ひとつのために遠出して買ってくるとか有り得ないし、結衣ちゃんも年齢的に郡宮まで一人でお出かけってのは推奨できないから、俺が街に用事ある時なんかに時々買って来てあげてる。そっから、いつの間にか奥野田家においては『俺が持ってくる手土産=餅月=いつもの』という図式が出来上がってました。
……まあ、いつの間にかっつーか、半分くらいは『持ちネタにしよう!』とかアホなこと考えて敢えて餅月しか買ってこなかったっていうのもあるんだけどな。俺のアホさを受け容れてくれた奥野田家の皆様と、飽きないお味の餅月を日々作り続けている職人さん達に、この場を借りて感謝を述べさせて頂きたい。せんきゅーべりーまっちょてへぺろ♪
「…………………………行くか?」
心の中であろうと外であろうと、いくらボケても一切のツッコミが返って来ないこの状況。この虚しき静寂を打破するためには、俺の方から住人を探索するより他あるまい。じゃあ、問題はどこにあたりをつけて向かうかだけど――
「――行くって、どこにだい? ……あ、トイレ? ……でも、それは、ちょっと……、ぼくが大きいのしたばっかりだから、ちょっと待った方がいいと思うなぁ……」
「…………………………。最近は、気配を感じさせずに背後から忍び寄るのが流行ってるんですかね? ていうか勝手に要らんカミングアウトして勝手に顔赤らめんでください。なにそのウブな乙女みたいな反応。あなた由緒ある名家の現当主様ですよね? 威厳、もっと威厳持って?」
「威厳っていうのはね、意識して持つものじゃない。自然と滲み出るものなんだよ……」
いいこと言ったような、或いは、痛いとこ突かれたような。そんな何とも言えない曖昧な笑顔を浮かべた陽樹さんは、俺が縁側まで引っ張って来といた座布団にどっしりと腰を下ろすと、これまたなんとも言えない溜め息を小さく漏らした。
……うむ。俺、ノリでうっかりトラウマを抉ってしまったね、本当にごめんなさい。でも陽樹さん、要らんカミングアウトのあたりで既に物憂げな様子だったんだけど、なんかあったんだろうか?
「……結衣ちゃん、やっぱ具合悪いんですか?」
袴の裾を叩いて形を整えていた陽樹さんは、俺の問いを受けて心底きょとんとした顔を向けてきた。
「具合? 悪い? ………………あれっ、結衣はもう元気だよーって言ってなかったっけ?」
「ああ、いや、それは聞きましたけど。でも陽樹さん、なんか、こう……、憂鬱っぽい雰囲気なんで、結衣ちゃんに何かあったのかなって」
「……………………うぅーん? …………うぅ~ん……」
陽樹さんの台詞と反応からして、結衣ちゃんの体調に関しては本当に何も問題は無いらしい。けれど陽樹さんは、改めての明確な肯定や否定を口にすることなく、眉をハの字にした情けない顔でうぅ~んうぅ~んと唸り続ける。
当主の威厳、一ミリたりとも滲んでないなぁー……。むしろ、冷たい雨に打たれる痩せぎすな犬みたいなえもいわれぬ哀愁が迸ってる気がする。
「…………………………」
俺は敢えて何も言わずに、適当なビール瓶の栓を抜いて、二つのコップにとぷとぷと注いだ。そして、あんまり上手く泡が立たなかった方を自分の分にして、見た目的に美味しそうな方を陽樹さんへと差し出す。
「…………………………………………」
しばし情けない顔でコップと俺の顔を見比べていた陽樹さんは、やがて少しだけ安堵したように微笑むと、厳かな所作で頭を下げながら粛々とコップを受け取った。
それを見届けた俺も厳かな所作でうむと頷き、今度は自分の分のコップを陽樹さんの方へと掲げて見せる。
陽樹さんもまた厳かな所作で頷き返してくれて、己の物となったコップをこちらへ掲げて見せてきて。はい、では皆さんご一緒に。
『――乾杯』
かちんと打ち合わせたコップの音色に合わせて、寸分違わずの唱和。それを以て、唐突に醸成された儀式めいた空気はこれまた唐突に霧散し、俺も陽樹さんも肩の力を抜いて笑いながら軽くコップに口を付けた。
陽樹さんはもとより、実は俺もあんまり酒が飲める方ではない。だから俺達の場合は、ジョッキでぐびぐび呷るのではなく、コップでちょびちょびやるのが性に合っている。
普通はこんなんじゃ『酒を飲んだ』だなんて到底言えないかもしんないけど、それでも今ここに『酒の席』は確かに生まれた。
――だからこっからは、素面の人間同士の会話と同列に扱うべきではない、酔っ払い達の愚にも付かない与太話のお時間と相成り候。
「………………和馬くんは、大人だよねぇ……」
しみじみとそんなことを呟きながら、俺より一回り以上歳上であろう御仁があははと笑って見せてきた。
俺はコップにちびちびと口を付けつつ、庭の方に目をやりながら「そっすか」とだけ返す。そんな気の無い態度をされても、陽樹さんは既に酔いが回ってしまったかのようににこにこと屈託無く笑いながら話を続けた。
「ぼくはね、なんていうかさ、大人になりきれてないんだよ。……ぼくの中のぼくは、結衣くらいの歳で止まっちゃってるんだ。…………って、こんなこといきなり言われて、わかる?」
「…………はぁ、まあ、ええ。…………あ、いや、やっぱわかんないっす」
「うぅーん……。こう、なんていうかさ、『今の自分と、本当に子供だった頃の自分って、まるで別の人間みたいに価値観が違ったなぁ』って思うことない? ある時期とか年齢が境界線になってるみたいにさ」
「あぁ……。そういうことなら、なんとなくは」
小学生までの俺は、ただ親に言われるがままに勉強漬けの毎日を繰り返して、それが正しいことなのだと信じ切っていた。でも、中学に上がってすぐくらいだったかな。そのあたりでちょっとした反抗期に突入して、『自分の意思に関係無く日々のスケジュールも今後の進路も未来の目標も全て決められている』っていう状況が我慢ならなくなってきて……。ある時、その気持ちを両親に素直に打ち明けたら、思いっきり全否定された上に『もうお前はうちの子じゃない』みたいな態度取られるようになって、おまけに兄貴や弟も裏だけではなく表でまで大手を振って見下してくるようになって……………………。
「………………。俺の場合は、中学一年くらいですね。物心ついた――っていうのもなんか違うな……、ちゃんとした自我が芽生えた頃、みたいなのは。んで、そっから色々経験積んできて……、特にこの町に来てからすげーいっぱいあって、そんでようやっと今の自分にまで成長できた感じです」
「…………成長、しちゃったのかぁー……。そうだよねぇ。きみ、すーっごい大人だもんねぇ……」
「成長したらアカンのですかい。てか、俺なんかより陽樹さんの方がずっと大人だし、俺みたいなイチ小市民よりよっぽど濃ゆい経験をぎょーさんして、すくすくすくすく成長しとるはずじゃないですか」
「そのはずなんだけどねぇー。あっはっはっは!」
いきなり快活な笑い声を上げた陽樹さんは、その勢いでビールをぐびーっと一気飲みし――けれど哀しいかな、中身は三分の一も減らなかった――、コップを膝の上へどんと置くとヤケクソ気味に愚痴り始めた。
「ぼくもねぇ、すくすくすくすく成長してるはずなんだよ。中学卒業したし、こっちの高校出たし、都会の方の大学出たし、またこっち戻って来て真知代をお嫁さんにもらって、とんとん拍子に結衣だって産まれて……。正式にお義父さんの後を継いでからも、奥野田家の当主として恥ずかしくないようにって、いっぱい頑張ってきたはずなんだ。………………でも……」
「………………『でも、ガキの頃の自分から、あんまり変われてる気がしねぇな』、と? 実態ではなく、実感として」
「…………………………きみは、本当に大人だなぁ……」
もう何度目になるかわからなくなってきたその台詞を最後に、陽樹さんのターンは終了した模様。だって陽樹さん、たこ焼きを三個いっぺんに無理矢理ブッ挿して口ん中に放り込んだと思ったら、それを食い終えないうちにイカ焼き構えて、ついでにビールも顔の真ん前で待機させてんだもん。『ぼくはもう飲み食いで忙しいから、次はきみの番だよ』って全身全霊で言い過ぎ。
次は、俺が話す番。それは決定事項のようだけど、咀嚼の合間にこちらへちらちらと送られてくる視線は、今し方の話に対するコメントを求めているようでありながら、敢えて話題を逸らして何も無かったようにスルーしてくれと懇願しているようにも見えるので、どちらを選択するかはどうにも決めかねる。
てか陽樹さん、なんでいきなり自我や成長や大人についての話なんて始めたんだろ? 結衣ちゃんのとこでなんかシリアスなやりとりでも有ったの? それとも、トイレ入っててふと大人なイチモツが目についたからなんとなく?
………………んー、わかんない。じゃあ、とりあえず思ったことをそのままぽろぽろ零すことにしよう。
「……陽樹さんって、たぶん、自分自身が思ってるほどガキなんかじゃないと思いますよ。……って言っても自分の認識はどうにもならないでしょうけど。
でも少なくとも、俺からしたら陽樹さんはめっちゃ大人だし。それに、真知代さんとか絶対ただのガキなんぞを好きになるようなタマじゃないですし。あと結衣ちゃんが陽樹さんのことめっちゃ褒めてる時とかって、猪爺が逐一俺に愚痴ってきますし。
そうやって愚痴ってる猪爺だって、結局のとこ、陽樹さんのことをどっかしら認めてるから当主の座を譲ったわけじゃないすか」
うーん。思ったことが、思っていたよりもテンプレートすぎて、口にしてみたはいいもののどうもしっくりこない。でも心にも無いことを言ったわけでもないから、まあいっか。
なんて楽観していた時期が俺にもありました。
「――ぼくと、真知代ってさ。実は、ただの政略結婚なんだよねぇ……」
爆弾は、空虚な笑みで放られて。それを開戦の狼煙として、俺の口にしたテンプレな慰めがことごとぷちっと踏みつぶされていきました。




