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第3話 8月23日(水・6)。顔無き姫。

 見慣れた田園風景を吹き抜ける穏やかな風が、慣れないイチャコラで火照りきった顔と身体に染み渡る。その心地良さのあまりに、自然と歩調がゆったりとしたものになっていき、呼吸も深くて緩やかに。


 けれど、胸の奥をくすぐってくる火は決して消えることはなく。気を抜くと思わず不思議な踊りを舞っちゃいそうなので、俺は両手に下げた二つの袋を「ふんぬっ」と殊更に気合を入れて持ち直すことでなんとか正気を繋ぎ止めた。


 ……まったく。睦子と別れてから結構経つっつーのに、俺いつまで浮かれてんだよ……。こんな底抜けにニヤけまくっただらしないツラのまんまで弱ってる人間のお見舞い行くとか、それは流石に駄目じゃんね? 相手が猪爺だけなら別にそんな気にすることでも無いかもしれんけど、今回に関しては『もう一人の子』もいるんだし。


 まあ、その子とはどうせ直接会うことは無いだろうから、こっちもあんまり気にする必要無いかもだけどさ。


「………………あ、そういえば……」


 睦子もちょろっと言ってたけど、ここら一帯の学校は今日から新学期がスタートしてるはずだ。まだ八月も一週間くらい残っているが、こっちの地方だと少し早めに夏休みが終わっちまうんだよな。代わりに冬休みを長くすることでバランス取ってるっぽいけど、それはさておき。


 昨日、早退した俺の代わりにバイトに入ってくれた、あの子。猪爺の言うところの『アテ』の片割れであり、俺のメインのお見舞い相手でもある、猪爺の孫娘――奥野田結衣(ゆえ)ちゃん。彼女も今日から新学期だったはずだけど、ちゃんと登校できたんだろうか?


 恵さんの話によると、結衣ちゃんは昼のピーク時に差し掛かる寸前あたりで早々に力尽きてしまったらしい。『アテ』その二であるところの猪爺本人はギリギリ耐えきったのだが、やはり猪爺も慣れない仕事をやらされて身心共にキてたらしく、それを見抜いた恵さんは『結衣ちゃんを自宅に連れてってちゃんと休ませてあげてほしい』っていう名目で二人を無理矢理送り返したそうな。


 ……本当なら、昨日のうちにお礼&お見舞いに行きたかったんだけどな。でも恵さんには早く帰って休めって追加で念を押されちゃったし、猪爺に電話しても同じこと言われそうだったから、こうして日を改めた上で手土産持参で突入しようと考えたわけだ。


 ちなみに、結衣ちゃんに関してはお礼よりも純粋なお見舞いの意味合いの方が強い。あの子については、俺の代わりにバイトに入ってくれたというわけではなく、『予てからアルバイトがしたいと言っていたので、この機会に体験させてやることにした』という話らしいので。結衣ちゃんってまだ小学校高学年くらいのはずだし、今回みたいなイレギュラーな形態じゃないとバイトなんてさせられなかったんだろう。


「………………………………」


 結衣ちゃん、もうアルバイトに興味を持つくらいに――というか、実際にこなせるくらいに成長してたんだな。さすがに、労働自体が初体験の状態でいきなりピーク時に投入されれば、KO負け食らわざるを得なかったらしいが……。俺も最初は似たようなもんだった記憶有るし、慣れてしまいさえすれば結衣ちゃんもちゃんと働けるようになるはずだ。


 俺があの子くらいの歳の時は、何をしていただろうか。そう思ってふと紐解いた記憶からは、『勉強』以外の文字が出てくることは無く。もしあの子が働けるようになったら、俺との差は如何程なのかと、俺にあの子より優れている部分がどれだけあるのかと、そんな意味の無い問いがじわりと思考を侵食し始めて――


「――っと」


 遠目に奥野田のお屋敷が見えてきた辺りで、向かいから緩やかにやってくる軽トラや自家用車の一団に気付いた。見通しが良く道幅も広いが、一応道の端っこへ寄っておく。


 程なくして擦れ違う、運転手のおっちゃんや同乗していたご老人達。にこやかにお辞儀をしてくれた彼らに合わせて、こちらも笑って軽くお辞儀を返す。一団が通り過ぎるまで笑顔を浮かべていたら、無駄に落ち込みかけていた気持ちも少しだけ上向きになってくれて、遠くなっていくエンジン音に向けてなんとなくもう一度頭を下げた。



 ◆◇◆◇◆



 稲見の町の外れ、見渡す限りの田園地帯のど真ん中にて、今日も奥野田家のお屋敷はその威容を存分に誇っている。


 いち民間人の自宅としては、威容というより最早異様としか思えない。それほどまでその屋敷は大きく、広く、立派であった。しかし豪奢というのとはまた異なり、わびさびを尊ぶ古き良き日本家屋といった風情である。よく俺の家を説明する時に日本家屋という表現を用いるが、奥野田のお屋敷は縦にも横にも歴史的にもウチとは比較にならないレベルのウルトラスペシャルハイパー日本家屋である。ていうかもうこれ大名屋敷の域でしょ。瓦屋根と石垣付きの塀が家の周囲を延々と覆ってて、母屋に辿り着くまでには枯山水染みた前庭まで有るし、それとは別にししおどし付きの庭園有るし、おまけに離れだの蔵だのまで完備っていうね。奥野田家マジパネェ。


 本来であれば、こんな明らかにカタギじゃない雰囲気を漂わせてるおうちになんて、絶対に近付こうだなんて思わないし思えない。でもここ友達の家だから仕方ないし、それに友達のご家族は屋敷の雰囲気とは真逆の極々ふつーの――ふつーよりずっと良い人達なので、正門の柱に備え付けられたインターホンを押すのに今更躊躇いなどありはしない。はい、ぴんぽーんっと。


『――やあ、和馬くん。いらっしゃーい。なんだかちょっと久しぶりだねー』


「あ、どもっす、陽樹(はるき)さん。……………………あ、あれっ? なんで俺だってわかったんですか? これカメラ付いてない……です、よね――って、んなとこで何してはるんですか……?」


 浮かんだ問いに答えを返してもらうまでもなく、僅かに開いた門の隙間からこちらを盗み見ている男性を発見。見つかっちゃった男性は扉を押し開けると、「いやー」なんて恥ずかしそうに笑いながら頬をぽりぽりと掻きつつ素直にゲロった。


「和馬くんがこっち来てるなーっていうのは見えてたんだけどねぇ。でも結構距離有ったから、ずっと門の前で待ち構えてるのも、それはちょっと気まずいかなぁって。直接会うのも、結構久しぶりだし」


 などと持ち前の童顔に見合ったシャイボーイ的発言をしているこの小市民な男性こそ、奥野田家の現当主・奥野田陽樹その人である。つまりは猪爺の義理の息子さんで、結衣ちゃんの父親だ。外見的にも性格的にも、名家の当主である上に既に結婚しててあまつさえ年頃の娘さんまでいるだなんて到底思えないけれど、本人はそのことを周囲に散々言われまくって軽くトラウマ状態になってるらしいから触れてはいけません。ちなみに、いつ見ても今みたいな礼装っぽい格式張った和服を身に纏っているのは、『せめて着る物くらいはそれらしく』という理由によるものらしいです。がんばれ、負けるな陽樹さん。


 俺は目頭に感じた熱いものを振り払い、手にしていたレジ袋を軽く掲げて見せた。


「じゃあ折角ですし、一緒に何か食べましょうか。暴走して買いまくったたこ焼きやらイカ焼きやら、手つかずのやつがいっぱい残っちゃったんで。……あ、これ睦子にも代金持たせたやつなんで、できれば何か代わりのお土産もらえます?」


「相変わらず、ちゃっかりだねぇ。じゃあ、そうだなぁ……。あ、今日の集まりの残り物がいくらか有るから、好きなの選んで持ってってくれるかい? あとは、いつもの梅干しと……。あ、そうそう、この間のキムチなんだけどさ、真知代(まちよ)が『もっと具体的に感想寄越せ!』ってダメ出ししてたよ」


「……え、マジすか……? 俺、結構頑張って言葉捻り出しまくったんですけど……あれでダメなの……?」


 真知代さんというのは、陽樹さんの奥さんである。方々に出かけて当主としての修行と実績を積む陽樹さんの代わりに、家の中のことをほぼ全て取り仕切っている敏腕奥様、それが奥野田真知代さん。猪爺と婆ちゃんも、真知代さんの溢れ出るバイタリティと明朗快活な性格は高く評価してるみたいで、古今東西の乾物や漬け物作りというニッチすぎる趣味にドハマりする真知代さんを『熱意が有って大変よろしい』なんて微笑みながら眺めてる。基本眺めてるだけなので、次々と繰り出される実験作や試作品の味見は専ら陽樹さんの仕事である。俺はたまに試食手伝ったり、完成品のお裾分けもらったりする感じ。


 俺は多少刺激的な味でも大抵は食えるし、家計的にも助かるから素直に有り難いんだけど、毎度感想を求められる――ていうか、求められるものがより高度になっていくのはどうにかならないものだろうか? そういう食の道の追求みたいなやりとりは恵さんで多少は慣れてはいるけど、恵さんは手間やコストなんかの経営面も織り交ぜての総合的な視点を求めてくるのに対し、真知代さんは『味』ただそれだけを極限まで追求しにいってるから、元来それほど美食家でもない俺に感想聞かれてもちょっと困っちゃいます。


 けれど、俺以上にお困りな様子の陽樹さんが、肩をぽんぽん叩いてきながら言うわけですよ。


「一緒に、がんばろう。……あ、景気づけに一杯やるかい? お酒も半端に残ってる瓶がいっぱいあるから、好きなだけお酌してあげるよ。今日は歩きだよね?」


 確かに歩きと言えば歩きだが、帰りには駅に行って自転車を回収する必要がある。たとえ軽車両といえども、飲酒運転ダメ絶対。……まあ押して帰りゃいいだけか。


 そう自己完結してお誘いに首肯を返そうとした俺だけど、はたと思い留まる。そして、しょっぱい軍団が入ってるレジ袋とは逆の、郡宮駅ビル内の土産物屋のマークが入った紙袋を掲げて見せた。


「や、酒飲むのは全然いいんですけど、俺今日は用事があって来たんですよ。猪爺と……、あと結衣ちゃんにも」


「…………うん? お義父さんはわかるけど、結衣にも――ああ、そっか。……とりあえず、中にどうぞー」


 二人から何かしら話を聞いていたのか、陽樹さんは得心したような様子を見せると、家の敷地内へ入るように仕草で促してきた。俺はぺこりと一礼して門を潜り、斜め前を歩く陽樹さんの誘導に従って母屋の玄関へと向かう。 


 陽樹さんはゆったりと歩みながら、こちらをちらりと振り返って――俺の手にした紙袋を見て、朗らかに微笑んだ。


「それ、いつものだよね? ろくに挨拶すらしないような失礼な娘のために、わざわざありがとうね」


 ……実際は、挨拶しないどころか俺のことを全力で避けているフシすらあるのだが、まあそれは置いておこう。


「結衣ちゃんは、まあ、そういう関係として定着しちゃった感があるんで、それはそれでいいんですよ。それに、いつもは別に結衣ちゃんのため買ってくるわけじゃなくて、猪爺に食ってもらうために結衣ちゃんを巻き込んでるだけですし。ありがとうっていうか、むしろこっちがごめんなさいっす」


「あー……。お義父さん、一人だと甘い物とか絶対食べないもんねぇ。『こんな女子供の食うような軟弱なモンが食えるかよッ!』ってさ。……でもお義母さんの前や、結衣と一緒の時はにやにやしながら食べてるって話だね。あと、真知代の前でも時々か」


 ――それを直接見たことがないのは、ぼくだけなんだ、と。陽樹さんの横顔に差した寂しげな色合いが、声も無く語っていた。


「…………………………」


 実の所。猪爺と陽樹さんの仲は、決して良好とは言い難い状態にある。当主の座自体は陽樹さんに譲られて久しいのだが、猪爺は陽樹さんのことを未だに当主として――どころか奥野田一族の人間として認めてはおらず、実権の多くは猪爺が握ったままなのだと、猪爺も陽樹さんも大体そんなことを言っていた。


 まあ、根っからのツンデレな猪爺と、何かと自分を卑下しがちな陽樹さんの言うことだから、実は俺が思ってるほど険悪じゃないっていう可能性も有るには有る。でも、たとえその可能性が肯定されたとしても、二人の間にある否定的な感情までもが覆るわけではない。


 ……余所の家の、それも歴史有る名家の内部の事情だ。俺みたいな家出フリーター男の出る幕では無いだろう。


 けれど。俺の友達同士の仲がよろしくない状況ってのは、どうにも居心地が悪い。腹割って話せば絶対わかり合えるはず――とまで言う気はさすがに無いが、少なくとも猪爺と陽樹さんは本来それほど相性が悪いってことは無いように思う。二人共愛妻家だし、結衣ちゃんのこと愛してるし、俺みたいなちゃらんぽらんと仲良くしてくれるし、あと酒飲めないくせしてやたら飲みたがる所とかほんとおんなじだし、他にもいっぱい共通点がある。


 何かきっかけさえあれば、この二人の関係も変わると思うんだけどなぁ。前だったらこんなことは考えなかったかもしれないけど、今は長いこと変化のなかった俺と睦子の関係が動いてる真っ最中だから、ついつい差し出がましい考えが口から飛び出そうになる。


 俺がそうして物言いたげにしているのを知ってか知らずか、陽樹さんは「さて」と話題も空気も変えるように明るく言うと、小走りに駆けていった。そして玄関の戸を静かに開けながら、心持ち控えめなトーンで台詞を寄越してくる。


「お義父さんは酔って寝ちゃってるから無理だけど、一応結衣には伝えてくるね。『和馬くんが、結衣が頑張ってアルバイトしたご褒美を渡したがってる』ってさ」


「………………。え? や、違います、そういうのじゃないです。全く無いわけじゃないですけど、結衣ちゃんに対してはお見舞いがメインですから。バイト中にノックダウンしたって聞いたんで」


「ああ、そっちなのか……。でも、結衣もうすっかり元気だよ? 昨日はだいぶ疲れてはいたみたいだけど、今日はちゃんと学校行ったし。今日はというより、今日からなんだけどね。夏休みが昨日までだから」


「あ、それは知ってます。…………そっか、学校ちゃんと行けたのか……」


 なら、ひとまずは安心だ。猪爺についても、たぶん『今日の集まり』とやらで酔い潰れただけだろうから、こっちも心配無し。


 思わず胸を撫で下ろして表情を緩める俺に、陽樹さんは似たような笑顔を返してくれながら話を戻した。


「とにかく、伝えてくるよ。和馬くんは、先に色々準備しておいてくれるかい?」


「うっす。あ、場所は縁側でいいですよね? あと真知代さんはいずこに?」


「台所にいなかったら、たぶん蔵かなぁ。でもオードブルの残り出して電子レンジ使うだけなら、わざわざ真知代捕まえなくていいよ。……というか、捕まえると酒盛りどころじゃなくなると思うよ? 真知代が満足するような具体的な感想、ちゃんと用意できてる?」


「………。あ、場所は縁側でいいですよね?」


「何事も無かったようにしれっとやり直すんだねぇ……。きみのそういう所、素直に尊敬するよ」


 陽樹さんは、言葉通りに尊敬の念と、ほんの少しの羨望のようなものだけを残して、母屋の奥へと引っ込んでいった。


「………………………………」


 残された俺は、その場に一人佇んで。しばしの後、両手に食い込む重みをちょいと持ち直しながら、開け放たれた戸の内側へと踏み行った。

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