第3話 8月23日(水・5)。予約。
敢えて睦子の視線を気にしないようにしてたら、いつの間にかすっかりメシに集中しちゃってて、気付けば食い切ったラーメンのスープを飲み物代わりにしてイカ焼きをあぐあぐ噛んでる俺がいた。食う前はしょっぱい系ばっかだと飽きるかと思ったけど、たこ焼きやお好み焼きのソースは多少甘みもあるし、鮎は醤油じゃなくて塩で味付けされてるから意外と飽きずに堪能できちゃってる。イカ焼きも噛めば噛むほどシーフードなお汁がじゅわりと蕩け出してきてめっちゃ美味し――いや待て、なんでデート中に女の子放置してフツーにメシ満喫してんだ、アホか俺。
「……カズちん、どしたの? あご疲れちゃった?」
思わず咀嚼も呼吸も停止させていた俺に、対面の睦子は不審や不満がちっとも感じられない穏やかなトーンで問いかけてくる。声音のみならず、俺好みの作りをしてる顔に浮かんでいる表情もどこか優しげで、それにそこはかとなく満足げ。優しげの理由はわからないけど、満足げの理由はラーメンをたった今食い切って一息ついてた所だからだろうか? なんにせよ、睦子は気分を害しているどころか、むしろわりと上機嫌であるらしい。
俺は内心盛大にほっとしながら、身体も頬も弛緩させてふるふると首を横に振った。
「こんくらいでヘタるほど軟弱な顎はしてねぇさ。……なあ、お前、怒ってねぇの?」
「怒る? ……………………………………………え、怒る……? なんで? カズちん、ちゃんとよく噛んで食べてるよね?」
「そのポイントで怒り出すようだったら、今日から睦子お姉ちゃんを『おかあちゃん』にクラスチェンジさせちゃうぞ? じゃなくってだな、ほら、俺、お前のことほったらかして、ひたすら食ってたから……その……」
次第にごにょごにょになっていく台詞の、その先を。睦子は正しく読み取ってくれて、呆れた様に笑いながら箸を横にふりふり振った。
「『折角のデートなのにー』、って? それは気にしないでいいよぉー、もう。……最初は、愚痴みたいなの言っちゃって、ごめんね? あたし、もうだいじょぶ。もうね、カズちんにはね、紳士的なエスコートなんて期待するのやめたからさっ!」
「それ、絶対そんなすっきりした笑顔で言うこっちゃねぇからな? つか、お前、それ本音にしてもちょっと酷すぎ……。俺のハートが完膚なきまでにブロークンしちゃって、ちょっと涙がちょちょ切れそうよ……? ………………ぐすっ」
「え? ……あ、ち、違う、ちがうちがう、そういう意味じゃないの。お願い、泣かないで、カズちん。はい、『あーん』?」
睦子は半ば立ち上がりながらぐっと身を乗り出して来て、爪楊枝で刺したたこ焼きを俺の鼻先へと突き付けてきた。
絶讃傷心中の俺は全然食いつく気になれなくて、ほぼ無意識で身を引いて顔を逸らす。けれど、旨味と思いやりの込められたたこ焼きは、ずっと引っ込められることがないまま、俺に食われる時を心待ちにし続けていた。
このままじゃ、俺が折れるより、睦子が折れるより、とろとろのたこ焼きがテーブルにぼとりと落ちる方が早そうだ。
「……………………ずびっ」
俺は涙混じりの鼻水を啜り、溜め息を吐き出すついでに、睦子の『はい、あーん』を受け容れてぱくりとかぶり付いた。
俺の口内から爪楊枝をゆっくりと引き抜いた睦子は、ほっと表情を緩めながら座り直――そうとしたけれど、何かを思い立ったような顔をしたかと思ったら、中腰を維持したまんまで俺の隣へとやってくる。
「カズちん、詰めて詰めて。ほらほら、早く、はやくっ」
「………………ん……」
プリーツスカートに包まれた小ぶりなお尻を振って急かしてくる睦子へ、俺は咀嚼するのに忙しいフリをしながらぞんざいな首肯を返して、不承不承を装いつつスペースを空けてやる。
睦子は「よっこいしょー」なんて台詞を可愛く呟きながら腰を下ろすと、俺の肩にしなだれかかってくるみたいにそっと身を寄せてきた。
スカートの裾を軽く払って形を整えた睦子は、手近なたこ焼きにまた爪楊枝をぷすりと刺して、手で受け皿を作りながら再度の『はい、あーん』ポーズで待機。
「ほーら、カズちーん、いっぱいお食べ-。よしよーし、カズちんは良い子だなぁー。あたし、そんなカズちんのこと、とっても……、とっ、て、も……、………………だいっ、好、き、……だ、ぞっ?」
………………………………。え、なんで俺こんな王侯貴族でも一生味わえないような極上の接待を受けてんだろ? 睦子のあったかい体温を感じ、睦子のほんのり上気した頬を間近で見つめ、睦子が手ずから食べさせてくれるあったかいたこ焼きに舌鼓を打ち、そんな睦子ちゃん尽くしのあたたかくてしあわせな時間の中で、どこまでも本気の『大好き』って気持ちを伝えてもらうっていう、どうなってんだこれ、どうなってんのこれ? 俺また泣いていいかな、さっきとは真逆の意味で。
でも泣いちゃうとまた睦子を心配させちゃうから、俺は目を瞬かせてなんとか堪えて、睦子が差し出してくれたたこ焼きへとがぶり。今度は一口で食っちゃうんじゃなくて、睦子に『あーん』してもらったままでちょっとずつ食ってくことにする。理由は訊くな、頼むから。
睦子は俺の肩へこてんと頭を乗っけてきながら、蕩けたような甘い声で囁いてきた。
「あのね、違うの。『もう和馬のエスコートなんて期待しない』っていうのは、見限ったとかそんなのじゃ全然なくてね? 和馬はやっぱり、デートだからとかで気張らないで、いつもの和馬でいるのが一番、………………あたし的には、好き、か、もっ、みたいな、さ。……もちろん、がんばってくれたら、それはそれですごく嬉しいよ? でも、無理はしないでいいの。だってあたし、ちゃんと、わかってるから」
「……………………んぐ、んむ。……わかってるって、何を?」
「……和馬は、あたしのことが……、すごく、好きなんだってこと。それだけは、いつだってちゃんとわかってるから、だから和馬は無理に『失敗しないように』なんて考えないで、気楽にいつもの和馬でいてほしいな。………………なっ、なーん、ちゃっ、て? う、うぇっへっ、…………ひ、ひぇぇぇぇ~………………」
自分で言って自分でむっちゃ照れまくってんじゃねぇよ、俺まで滅茶苦茶恥ずかしくなってきちゃってひぇぇぇ~でござる。
そんな内心を誤魔化すように、俺は厳かに咳払いしてみせて、ついでに睦子の頭を軽くぺちぺち叩いてややった。さらについでに、睦子の手から食いかけのたこ焼きを楊枝ごと奪い取り、それを俯いてる睦子の口元へ持って行く。恥ずかしいこと言っちゃうお口は物理的に封印なのである!
「食うがよい」
「………………え、な、なに、いきなり? ……ていうか、こ、これっ、和馬の、食べかけ……」
「……………………………………。食ってくれると、俺がとっても喜びます。……まあ、『ばっちぃ』っつーなら無理強いはしないけ――」
「あむり」
言葉も手も引っ込めかけた瞬間、睦子が一切の迷いを捨てて速攻でかぶり付いてきた。その食いつきっぷりはすっぽんもかくやというレベルで、咀嚼する彼女の口内から楊枝を引っこ抜くことさえままならない。
睦子の口や舌の動きがダイレクトに伝わってきて、まるで指ごと食われてるかのような錯覚を感じる。どうせなら本当に指を舐めてほしいし、もっと言うなら指ではなく舌を舌で絡め取ってほしい。でも俺そんなの言わないよ、だってさすがにそれはアウトでしょ? こいつ二人も彼氏いるし、しかもここおうちじゃないし。
……いや、もう大分アウト臭ぇけどな。ぴったりと俺に寄り添うように――というより最早抱き付くようにして『はい、あーん』を堪能してる睦子は、もうどっから見ても俺の恋人にしか見えないし。周囲にまばらに座ってる女性客達も、こちらをしきりに気にしては舌打ちせんばかりに露骨に顔を顰めてひそひそやってるし。いつの間にか増えてた若いあんちゃんグループも、主に睦子・時々俺へ目線を寄越してきては何やら打ち拉がれてるし。
つか、みんなこっち見過ぎじゃね? これ、俺が自意識過剰なだけ……じゃ、ないんだろうなぁ。俺だって、睦子みたいな可愛い娘がその辺歩いてたらガン見せずにはいられないし、もしそんな娘が恋人らしき男を侍らせてたら胸中に様々な激情が渦巻いちゃって仕方無いと思う。
「………………かずまー。たこ焼き、なくなっちゃったー……」
ようやく爪楊枝から顔を離した睦子が、控えめに服を引っ張ってきながら物欲しげな様子で訴えてきた。まるでご飯をおねだりする猫みたいなあどけない仕草が、俺の口元をにやけっぱなしにさせて、俺の思考とは無関係に新たなたこ焼きを彼女の口へと運ばせる。
「ほれ、『あーん』」
「あ――むっ♪」
ぱぁっと輝く笑顔で食らいついてきた睦子は、また爪楊枝ごともぐもぐやりながら一層頬を緩ませる。無意識っぽい仕草で脚をぱたぱたと動かしてるのは、歓喜と美味の表現なのだろうか。僅かにはためくスカートの裾が、そこから伸びる白いふとももが、俺の心と理性を根こそぎ強奪せんと画策していやがる。
見た目も仕草も中身も外側も、やっぱ何から何までかわいいよなぁ、こいつ……。爪楊枝じゃなくて、俺の舌を口ん中に突っ込んでやりたいぜ。やらないけどな。やらないけど狂おしいほどにヤりたい。ディナーの後にベッドインして朝チュンしたい、超シたい。
「……睦子ちゃんよー」
「あむー?」
「………………お前、今夜――じゃなくて、今日ってなんか予定あった? ほら、いきなり呼びつけちまったからさ、もしお前もなんか用事有ったんなら悪いことしたなって。ほんと、それだけなんだけど。いやほんと」
ほんとほんとと繰り返すごとに嘘くささが汪溢していくの感じながら、それでも何度も念押しせざるを得ないヘタレな俺。だって素直に『今夜空いてる?』なんて訊けないでしょ、いや空いてたからって何するわけでもないんだけどね? ほんとほんと。でももし睦子が今夜フリーなのであれば、俺は全力でヘタレを卒業しに行ってしまうかもしれない。さらばヘタレ、さらば童貞。
しかし。ヘタレと童貞は、俺を強く抱き締めて放さなかった。
「……………カズ、ちん……、……………………ごめんなさい、だぴょん」
ごきげんさんだったはずの睦子は、一転して酷くしょんぼりしながらゆっくりと身体を離していく。
一瞬、夜のお誘いを断られたのかと勘違いしかけたけど、いやそうじゃねえだろとセルフツッコミして気を持ち直す。
「…………あー……。もしかして、なんか予定有るのか?」
持ち直したはずが、表情も声音も硬くなってしまっているのを感じる。でも、ともすれば俺以上に落ち込んでしまっている様子の睦子は、俺のぎこちなさに気付く様子も無く、俺以上にぎこちない態度で返事を寄越してきた。
「……ある、………………かも」
……うん? なんで『かも』なんだろう――って、俺に気を遣ったから、だよな。こうしてデートに付き合ってくれてるってことは、本来の予定をキャンセルしてきたか、もしくはデートを早めに切り上げて用事を済ませなきゃならないってことだろうし。
その気遣いに対しての言葉を探す俺に、睦子は「で、でもっ!」とどこか必死になりながら台詞の続きをぶつけてくる。
「あのねっ! 和馬が、えっと、望む、なら、予定、すっぽかす――じゃなくって、うんと、頑張って謝って許してもらう、のも、アリは、アリ、かな、……って…………、思わなくも……………………」
加速度的に尻すぼみになっていき、不可視の罪悪感に押し潰されてすっかり沈んでしまう睦子。どうやら、彼女が罪の意識を抱いている相手は、俺でもあり、俺以外の誰かでもあるようだ。
俺は睦子を励ますようにそっと身体を押しつけ、項垂れる彼女の頭を頬で撫でてやった。
「……つまり、この後で誰かとの『先約』があるってこと……だよな? 何時からだ?」
「…………………………。がんばれば、三――じゃなくて、四時過ぎまでは……、たぶん、だいじょぶ」
「……じゃあ、頑張らなければ?」
「………………………………………………。二時ごろ……かな? あのね、『郡宮で甘いもの巡りしようよ』って……、……ひーくんが……」
ひーくんというのは、こいつの彼氏の片割れのことだ。つまりは、まあ、ちゃんとした彼氏とのデートを前もって約束してあるから、後から割り込んできた俺とのデートは途中で切り上げざるを得ない、ということらしい。
……なんかこう表現すると、俺と睦子の関係ってすんごい爛れてるように思えるなぁ……。などと益体の無いことを考えながら、俺は今日の睦子の態度に合点がいってなるほど頷いた。
「そっか、そういうことか……。悪かった――じゃなくて、……ありがとな。今日いきなり誘ったのに、こうして付き合ってくれてさ。………………んーじゃ、タイムリミットが二時までだっつーなら、せめてそれまでは精一杯イチャコラするとしましょーや!」
有言実行とばかりに、睦子の頭をほっぺでぐりぐり撫で繰り回す俺。睦子は父親のヒゲを嫌がるフリする娘みたいに身じろぎしながら、戸惑いがちに問いかけてくる。
「……二時までで、いいの? …………あの、ね? 和馬のためなら、あたしっ、ひーくんに、『ごめんなさい』って――」
「そんなことしたら、ひーくんも、俺も、何よりお前だって、嫌~な気持ちになっちまうぞ? そういうの、お前が一番よくわかってるだろーに」
「…………………………………そう……、だけ、ど、…………でも、和馬とのデートらしいデート、できるチャンスなんて、めったに、無いのに……」
切実を通り越して、どこか思い詰めているような様子の睦子。そんな彼女の強い気持ちを、俺に対する強い想いを受け取って、俺は嬉しいやら申し訳ないやら愛おしいやらですっかり胸がいっぱいになっちゃってうっかり泣きそうであります。
チャンスなんて表現をするくらいに、睦子は俺とのデートを積極的に望んでくれている。俺だって、睦子ともっともっといっぱいデートがしたい。でも、今日は先約があるからダメ。
――ならさ、睦子。こうすれば、俺もお前もいっぱい笑顔になれるよな?
「睦子。今日彼氏に会うんならさ、ついでにちょっと訊いてきてほしいことあんだけど、頼める?」
「……………………なぁに?」
「『俺、日を改めて睦子と本格的なデートしたいんだけど、いいですか?』って。……つーか、本当はもっと早くお伺い立てておくべきだったよなぁ」
彼氏持ちの女の子をデートに誘うなんてのは、普通ならアウト……だよな、たぶん。睦子と彼氏達がどの程度本気でお付き合いしてるのかは知らないけどさ。というか本気だったら本気だったで色々ヤバいよな、特に法律とか。不貞や二股云々を置いとくとしてもさ。
「……ほんかく、てき……?」
睦子はその単語に引っかかりを覚えたらしく、躊躇いがちな上目遣いで注釈の追加を求めてくる。
本格的な、デート。事前に約束して、きちんとプランを練り上げた上でのデート……と、それだけのしか意味を持たなかったはずの言葉。けれど、熱っぽい吐息に紛れて瑞々しい唇によって紡がれたその単語は、彼女のイメージしてしまった『裏の意味』を俺の脳味噌へダイレクトに伝えてきた。
本格的な……、行き着くところまで行っちゃう、オトナのデート。とりわけ、ディナーの後で朝チュンの前な、ベッドの上で行われる行為について。
それも含めたデートであるのかと、期待を隠しきれない様子の睦子が、静かに俺の答えを待っている。
「…………………えっ、と……?」
「…………………うん」
俺の受け取った電波が間違っている可能性疑って声を漏らしてみたら、『間違いなんかじゃないよ』という真摯でせつない肯定が返ってきた。最早お互いの雰囲気だけで意思疎通が可能な領域に突入している、俺と睦子ちゃんなのであった。
ああ。俺、こいつのこと大好きだわ。
「……正直、その時にならないと、わかんねぇけどさ」
「……うん」
「……………………………………一応、その……、……心の準備は、しておいてくれる、か? ……俺も、ちゃんと、準備とか、用意とか、ちゃんとしておく、ので」
「……………………用意って、ごむ?」
満面の笑みを押さえつけようとするかのように、引きつった無表情で殊更に冗談めかして問うてくる睦子。
俺も冗談っぽく大仰に顔を押さえて天でも仰いでやろうかと思ったけど、敢えてそれをせず、睦子の耳元へ回答をそっと囁いた。
問うた彼女。答えた俺。そして俺達は、温度の極めて高い笑顔をお互いに見せ合って――。その後のメシの間もずっとずっと見せ合い続けて、それは別れの時間が来るまで消え去ることはありませんでしたとさ。




