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第3話 8月23日(水・1)。ついで。

 夜半から明け方にかけて降った雨のおかげか、今日は幾分過ごしやすい気候だ。雨で蒸し暑くなるのではなく素直に涼しくなってくれるということは、やはりそろそろ季節が移り変わる時期だということのなろう。どうせなら昨日のうちに涼しくなっとけよな、そうすりゃ睦子に『あんた汗臭っ!?』なんて言われて密かにブロークンハートすることもなかったのに。


 ……いっ、いや、べべべ別にブロークンなんざしてねぇけどな? ほんとほんと。だって睦子の軽口なんていつものことだし、そもそもたかが取るに足らない町娘の一人や二人に嫌われたところで、この獅子の心臓を持つ荒鷲和馬のハードボイルドなメンタルは小揺るぎもしませんことよ、おっほっほ! でももしあいつにマジで嫌われることがあったら、俺は涙の流しすぎで衰弱死する。


「……………睦子、か……」


 朝食後、町外れの日本家屋な我が家にて。縁側にだらしなく座り込んで、心なしか色素が薄めな青空を眺めながら、なんとなくあの娘の名を口ずさむ。


 雛木睦子。俺がこの稲見町へと流れ着いて、恵さんよりも猪爺よりも、この町の誰よりも先に出逢ったのがあいつだ。出逢ったというより、拾われたというか、比喩抜きで命を救われたというか。それが確かあいつが高一の時だから、もうかれこれ五年くらいの付き合いになるんだな。


 付き合い自体はそこそこ長く、密度もわりとあったように思う。でもこれまでのあいつと俺との関係は、それほど特別と呼べるようなものではなかった。……いや、命救われた所から始まって頻繁に飯作ってやる関係になってたまにウチでサシ飲みする間柄になりそのままお泊まりさせるのが近頃はお決まりになってる、っていうのはどう考えても十二分以上に特別な関係ではあるんだけどな? でもそれは恋愛的な意味で特別なわけじゃなくて、血は繋がっていなくともお互いを本物以上の兄妹や姉弟だと思ってるっていう、そういう特別な――『特殊』な間柄だったはずなんだ。


 スキンシップは、わりとある。馬鹿話して笑いながら軽く叩いたり叩かれたりは普通だし、冗談交じりに手を握ったり頭撫でたりもしょっちゅうで、酒入ってる時には軽く腕を抱き締められたりなんかもするし。あとウチであいつの成人を祝ってやった時には、二人してついつい飲み過ぎちまって、意味わからんハイテンションのまま服脱ぎ散らかして同じ布団に潜り込んで寝落ちしたりなんかもした。


 でも。これは誓って言えるが、俺は一度たりとも、あいつに性的な意味で手を出したことはない。そしてあいつの側からも、俺にそんな不埒な真似をしてきたことは一切無し。



 当然、唇同士のキスなんて、これまでに一度だってしたことなんかない。



「……成長してなかったのは、俺だけってことかね」


 俺と同じく、あいつも今の心地良い関係を壊したくなくて、最後の一線を越えずに『きょうだい』の枠組みの中に留まり続けているのだと思い込んでいた。けれどあいつは、その最終防衛ラインをいとも容易く飛び越えてきて、俺にキスして顔真っ赤っかにしながらはにかみ笑いなんぞ浮かべおった。


 ……ずっと妹だ妹だと思っていたけど、いつの間にか、あいつは俺よりもずっとおとなになってたんだな。そんな彼女の成長が嬉しくもあり、同時に、なんだか置いてきぼりにされたみたいでちょっとだけ寂しくもある。


 女の子って、すごい。睦子についてもそうだけど、あともう一人の古馴染み――とも呼べないような『あの童女』についても素直にそう思う。彼女達がすごいというより俺がすごくなさすぎってツッコミは無しってことでよろしくどうぞ。


 だって俺、たった今から、『すごい俺』への一歩を踏み出そうと思いますので。


「――うっし。やるか!」


 ぴしゃりと両頬を張って喝を入れ、俺はポケットからスマホを取り出した。流れるような手付きでアドレス欄を開き、この世で最も親しい女の子の名前をタップ、すぐさま発信ボタンもタップして、耳へとスマホを持って行く。


 緊張だか高揚だかわからない想いで顔が火照ってくるのを感じながら、俺はただ青空を頑なに見つめてコール音に耳を澄ませた。


 十数秒――、いや、数十秒か。いつになく長い間の後に、そしてようやく、彼女との回線がぴこんと繋がった。


『…………………………………………………』


「…………………………………………………」


 相手無言。俺無言。突如生まれた静寂に、微かな蝉時雨だけが小さく木霊する。


 俺は気を取り直してあぐらでどっかりと座り直し、膝の上で厳かに拳を握ったりなんかしながら、蒼天に向けて雄々しく吼えた。


「デートしよう、睦子!」


『……………………………………………ただの買い物?』


「なぜバレたし――あ、い、いやっ! 確かに『ちょっと用事があって街で買い出しすっから、お前と緋叉音ももしお暇でしたら一緒に行きませんか』っていう話ではあるんだけどっ、それは単なる建前で! つかそっちしか言わないつもりだったんだけど、なんかお前のこと色々考えてたらつい願望を口にしたくてたまらなくなって先走りましたごめんなさい!」


『……………………………………………………がん、ぼう?』


「……………………………………………………あ、うん」


『…………………………………………………』


「…………………………………………………」


 相手無言。俺無言。突如生まれた静寂に、微かな蝉時雨だけが以下略。


 さて。ここは本来であればいつものごとく『なーんて、うっそぴょーん♪ あれあれ~、睦子ちゃんってばもしかしてうっかりボクちんにときめいちゃったかな~? 睦子ちゃんってば乙女ねっ♡ ごっめんねー、ボクちん寝取りの趣味なんて無いからさぁ~』とでも煽る――もといネタばらしをする必要があるのだろうが、非常に残念ながら、俺が睦子とデートしたいという想いには嘘など微塵もない。今だけの話ではなく、いつもだって本当ならネタばらしなんかするのもされるのも嫌でした、これオフレコな?


 嫌なことは、しなけりゃいい。偉い人は言いました、シンプル・イズ・ベストと。どうせあれこれ悩んだってしゃーねぇってのはもう身に染みてんだ、もうなるようになれでイケるとこまで行ったるで!


「デート、しよう、睦子。買い物のついでにデートじゃなくて、デートのついでにお買い物、だ」


『…………………………………あ、うん』


 睦子はさっきの俺みたいな不抜けた相槌を打つと、続けて何度か『うん。……うん』と誰にともなくぼんやり呟いた。


 ……うーむ。こっちはずっと心臓がばっくんばっくんで顔も滅茶苦茶熱いっつーのに、睦子はさっきからずっと冷めてる――というより()めてる感じだ。おかしいな、俺の予想だと睦子も昨日の俺とのキスについてあれこれ考えて夜通し身悶えてるはずだったんだけど、どうもそんな気配がまるでないぞ?


 ………………………………。まあ、唇にキスしたって言っても、端っこも端っこ、触れるか触れないかくらいの位置だったしな。あんなそこらの小学生よりガキくさいスキンシップなんぞ、この妖怪二股女にとってはそれほど拘るような事柄ではなかったのかもしれない。


 ……………………………………え、俺、もしかしてまた勇み足……?


『――デート、するの?』


 先程までより幾分しゃっきりとした声で、睦子はまるで何かを値踏みするように問うてくる。不意に意識を引き戻され、ついでに正気まで取り戻すことになってしまった俺は、肩の力を抜いて普段のように気楽に答えた。

 

「まあ、ぶっちゃけただの買い物だけどな。ちょっと、知り合いへのお礼と、あとお見舞いの品を。そのついでに、緋叉音は引っ越してきたばっかでまだ『街』の方は不案内だろうから、ちょろっとガイドさんしてやろうかなと」


『…………………………………………で……、わ?』


「え?」


 確かに俺へ投げかけられたはずのその台詞は、しかしあまりに小さすぎて聞き取れず。思わず聞き返した俺に、睦子は少し苛立ったような雰囲気でなじるように答える。


『あんたの大好きな緋叉音ちんは、もう学校行っちゃいましたぁー。デートしたけりゃ、日を改めて直接誘えばいーんじゃないでしょーか。今日はあんた独りで寂しく街に繰り出して、ナンパついでに頭も股もユルい女に引っかかって怖いお兄さんにケツの毛まで毟り取られたり掘られたりしてくればいいんじゃないのぉ~まじウケるぅ~げらげらげらげらげらげら』


「棒読みなゲラゲラ笑いが怖ぇよお前……。俺には悪い女に引っかかってほしくないとか仰ってくれてた、あの優しいお姉様はどこへ旅立ってしまわれたの? つか、なんで緋叉音学校よ?」


『………………やさしいお姉様なんて、いないもん……。緋叉音ちんは、もう夏休み終わりだから……、…………………………ねえ、もう電話切っていい? あんたの声、キモいからもう聞きたくない』


 聞きたくないと言いつつ『切っていい?』と確認してくれるあたり、やっぱこいつ優しいなぁ。でもキモい呼ばわりはマジでやめて、俺のハートがまた密かにブロークンしちゃうから。……つか、今は俺じゃなくて睦子の心がみしみしと軋んでますねこれ、半ばヤンデレモード突入しかけてるような気配あるし。


 どこだ、どこで間違った俺。おかしい、俺はただ睦子とデートしたかっただけで、買い物も緋叉音のことも蔑ろにはせずとも一番ではなかったはずなのに、なんで――



『切るよ。……ばいばい』



 なんで、睦子にこんな泣きそうな声でお別れ言わせてんだ。


「――睦子。聞け」


『………………やだ。ばいばい』


「ばいばいダメ、ばいばいは無し。ばいばいするなら、この後すぐ駅でまた会おう。九時過ぎの電車に乗りたいから、十分前には来てくれ。お前が来るまでずっと待ってる。お前が早く来てくれたら、その分お前とおしゃべりできる。街でだっていっぱい遊べる。お前と、いっぱい――」


 デートが、できる。この上なくはっきりとそう告げて、俺は睦子の回答を待った。


 待つごとに、俺の胸で燃え盛っていた焦燥が、やがて炙るような羞恥へと変化していき、なんか全身が熱くてたまらなくなってくる。やべぇな、なんか尻やら背中やらの汗が止まらない。このままだとまた睦子に『臭い』呼ばわりされちゃうかもしれない。……まあそれも、もし睦子が俺の誘いに乗ってくれればの話だから、杞憂に終わるかもしれないけど。


 でもどうか、杞憂で、終わらないでくれ。


「……睦子」


『………………………………うん』


 泣きそうな気配は霧散しものの、未だ迷っているような声音の睦子。


 彼女の背中を押すために、或いは彼女の手を引くために、俺は今度こそ『すごい俺』としての一歩を今こそ踏み出す。


「デート、しよう。睦子」



『………………やだぴょん。ばいばーい』



 ――ぶつっ。……つー。……つー。……つー。………………。


 虚しい電子音を発するのみとなった哀れなスマホを耳から離し、まじまじと見つめる。


 一瞬フられたのかと思って思わず衰弱死への一歩を踏み出しそうになったけど、俺は涙が零れる前に自らの発言について思い出し、この身が出し得る全力を以て行動を開始した。


 ああ、これはまた、汗臭いって言われちまうことになりそうだ。

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