第2話 8月22日(火・了)。1st/Last Try。
からからと。自転車を押す俺の後ろに、車輪が回る音が空虚に響いて、消えていく。遠くには蝉時雨、近くには風に揺れる稲穂の音。午後特有の気怠い空気が満ちる中、陽に火照らされた夏草の香りを胸一杯に深呼吸して、あぜ道での道草を文字通りの意味で満喫中。
えもいわれぬせつなさと、それと表裏一体な心地良さを、欠伸混じりに噛みしめて。ふと見上げた色の濃い青空に、最近知り合ったあの女の子のことや、この町で一番の古馴染みなあの女の子のことをぼんやりと思い浮かべる。
考え事をしたいような気がするものの、特に何も考えなくてもいいような気もして、ひとまず再度大欠伸。
そして俺は結論する。
「ま、なるようになるか」
――最後は必ず、誰もが望むハッピーエンド。その誓いを目印にしてさえいれば、きっと道を間違えることはない。
俺は、誰にともなく深く首肯。そんな感じで今後の方針も決まった所で、頭のスイッチを切り替えて、歩みを止めぬままにスマホを取り出して片手で繰った。
今後のことは今後やっていくとして、今は取り急ぎ果たさねばならないことがある。だから俺は、睦子に次いで頻繁に電話している相手の番号を呼び出し、コール音に耳を澄ませた。
しばらくの後。回線ががちゃりと繋がり、微かな喧噪をBGMにした中年女性の明るい声が響いてくる。
『もしもしぃ、和坊? どしたねぇー、なんか忘れ物かい? 用事はどうだったんね? ちゃんと納得いくようになれた? それともまだ途中け? んダメよぉ、大切な用事ほったらかしてこんなおばちゃんと長話してたらぁ~んもぉ~やだぁ~♪ 和坊の気持ちは嬉しいけっじょも、おらには愛する旦那と店が――』
「お疲れ様でーす! お陰様で、こっちの用事は無事に完了です! 今日は無理なお願い聞いてもらっちゃって、本当にありがとうございました!」
『あーあーはーはーそっかそっかそっかそっか、お礼なんて要らないよぉ水臭い! こっちだって毎度毎度散々無理聞いてもらっちゃってるけぇ、こういうのはお互い様ってもんだよ。んで、用件はそれだけかい? それとも、そろそろ本気で旦那に引導渡しておらと一緒にこの店を――』
「ところで、今けっこうお客さんいっぱいですか? 一応そっちに向かってる所なんで、もしアレでしたら今からチャリ飛ばして仕事戻りますけど……。そういや、猪爺の言ってた俺の代わりのバイトって誰です?」
『あーあーこっち戻って来んでいいっていいってぇ。和坊ったら、昨日も今日も眠そうだったべ? 折角用事がすっきり終わったんなら、こっちのことは全部忘れて、今日明日しっかり寝てしっかり食べて、そんでまたしっかりと働いてちょうだい! ああでも――』
「言っときますけど、旦那さんに不義理なあれこれは絶対しませんからね?」
『……………………………………………………チッ』
不穏な舌打ちを最後に、ようやく相手のマシンガントークが停止。俺は思わず苦笑いしながら、軽く一息ついた。
さて。改めて言う必要も無いだろうけど、電話の相手は俺のバイト先の店長その1であるところの作元恵さんだ。今日の午前中に大衆食堂『二毛作』で、俺&猪爺コンビとは別に、常連さんと井戸端会議してたあの四十代前半のおばちゃんな。基本的にとても良い人ではあるんだけど、やたらめったら話し好きなとこあるから、対応を間違えると何時間でも延々とトークに付き合わされることになるのでご注意。特に不倫ネタには毅然とした態度で臨まないと、後で泣きじゃくる旦那さんにヤケ酒付き合わされるからほんと注意ね。
「……それじゃ、お言葉に甘えまして、今日はこのまま直帰させてもらいますね。………………あのっ、今日は本当に、ありがとうございました」
恵さんに見えているわけはないけれど、俺は足を止めてきっちりとお辞儀しながら改めてお礼を述べた。そして、通話を切ろうと――
『あーあー、ごめん和坊! 最後にちょっと一個だけ、困り事……の、ようなものがあるんだけっじょも……、一応、聞いてもらえるかい? これは言っとかないと、和坊、絶対後で気にするべなぁと思ってさぁ……』
「……困り事……?」
その単語に思い当たる物はないかと、なんとなく青空を見上げてしばし考える。けれど特にこれといった候補を見つけることもできずに、俺は恵さんに話の続きを促した。
そうして、言いにくそうに伝えられた内容は――、恵さんの予想通り、もし聞かされていなかったら後で絶対に後悔する内容であった。
◆◇◆◇◆
斯くして。気のせいになりかけていた新たな物語は、無事に始まりを告げて。それをきっかけとして、長らく停滞していたもう一つの物語も再開されて。おまけで、更にもう一つの小さな物語への入り口もこっそりと開かれた。
もうすぐ、夏が終わる。俺達の『夏休み』も直に終わって、そしたら、新たな日常が始まって、新たな季節がやってくる。過ぎた季節に戻れはせず、次の季節も、人生でたった一度きり。これから先の物語も、歩み進むことができるのはたった一回こっきりだ。
間違いは許されて、失敗も許されて、後悔も許されて、けれど、やり直しだけは許されない。そんな無情な片道切符だけを手に、俺は――俺達は、それぞれの道へ歩き出す。
願わくば。俺の望んだハッピーエンドが、彼女達の夢見た未来と、いつか交わりますように。




