第2話 8月22日(火・5)。まぐれ当たりでホームラン。
雛木家の本日のランチメニューは、かき揚げとあったか~い蕎麦でござい。ちなみにかけ蕎麦の上にかき揚げが載ってるわけじゃなくて、蕎麦には葱とわかめだけ乗っけてあって、かき揚げは別枠で大皿の上に積み重ねられてちょっとした山になってます。
うん、さすがに揚げすぎだよね、わかってる。でも仕方無いじゃんか、これくらいしか使い道なさそうな各種野菜の切れ端がごろごろごろごろ転がってたんだもん。この使いやすいとこだけ使ったら残りをとりあえず冷蔵庫に溜めとくやり方、明らかに睦子の所行です、ギルティ。溜め込まれた子達はそのままほっとくと高確率で廃棄一直線なので、『食べきれなかった分は冷凍すりゃいいだろ』精神で全部まとめてかき揚げにしてやりました。自分では揚げ物なんて手間のかかるもの絶対作らないくせして、作り置きしてあげとけば数日以内に絶対食い尽くす、それもまた睦子お姉ちゃんの習性である。
「お前さぁ、料理するならするでもうちょっと上手く食材使い切れよ……。ってかこれ、明らかに俺が来るの期待してた使い方だよな?」
使い終わった揚げ物油の処理を続けながら、カウンターの向こうへ溜息交じりに台詞を放る。すると、ダイニングテーブルの上のかき揚げをつまみ食いしようとしていた睦子が、そろ~っと手を引っ込めてお行儀良く座り直しながら取り繕うような笑みを浮かべた。
「そ、そんなことよりだね、和馬お兄ちゃんっ。他に何か、気付いたことはないのかなぁ~?」
「こんな時ばっかお兄ちゃん呼ばわりしやがって、可愛いじゃねぇかこの野郎……。………………あー、他は、まぁ、あれだな。……思ったよりちゃんとしたもの作って食ってたんだなってこと自体は、非っ情に不本意ながら、ちょこ~っとだけ褒めてやらんでもないかもしれないな。…………うん、とっても偉いぞ、睦子お姉ちゃん」
睦子の両親は、仕事が忙しいこともあって、自炊とはほぼ無縁の人達だ。それなのに各種野菜の切れ端があったということは、取りも直さず、色んな野菜を使った料理を睦子が作って食べていたということ。いつもの睦子であれば、もっと手を抜いた物しか作らないか、もしくは外で食うなり買ってくるなり俺に頼るなりして済ませている所だろうに、なんでわざわざ自分できちんとしたものを作っていたのかというと――
「……? ミコちゃんって、普段はちゃんとしたもの、作ってないの?」
などと隣の席で不思議そうに小首を傾げてる従妹に、良いとこ見せたかったからだろうな。
俺に褒められて恥ずかしそうに狼狽えていた睦子は、予期せぬ方向から不意打ちを食らって更に大慌てし、両手をあわあわ振り回した末に何故か緋叉音の身体をひしっと抱き竦めた。
「作ってるよぉー! 睦子お姉ちゃんは、いつだってちゃんとしたお料理作って食べてるデキる女なのですよっ! これマジ! お姉ちゃん、嘘つかない! 決して、緋叉音ちんに良いとこみせたくてちょっと見栄張って手の込んだお料理作ってあげたとかそんなことじゃないからっ! この睦子お姉様がそんなさもしい真似するなんてぜったいありえないんだからぁっ!」
全力で語るに落ちてる気がするんだけど、あれ半分くらいはツッコミを期待してのフリだわ。でも残念、緋叉音は睦子観察スキルがまだ鍛えられていない上に元々ちょいニブい所もあるので、睦子の背中を思わずといった感じで撫でながらきょとーんとした顔してはります。
「……えっ、と。……だっ、だいじょうぶだよ、ミコちゃん。私、ミコちゃんのこと、悪く思ったりとかしてないから。絶対、そんなのしないから。…………むしろ、あのね、私の……ために、美味しいお料理いっぱい作ってくれて、とってもありがとう。……すごく、嬉しかった。…………私ね、あのっ、そんな、ミコ……お、おねえ、ちゃん、のこと、……すごく、ステキだなって思――」
「やだああああぁぁぁぁぁぁこの子天使すぎるううううぅぅぅぅもおやだああああぁぁぁぁぁぁあたしが悪かったから許してえええぇぇぇぇぇ誰かあたしを口汚く罵って乱暴に扱ってええええぇぇぇぇぇぇぇ! 和馬ぁ、和馬が欲しいのぉ! あたし今とっても和馬に熱烈にツッコんで欲しいのおっ!」
だからそういうビミョーな下ネタは控えろと何度も以下略。でも睦子の気持ちに何故かやたら共感しちゃったので、細かいことは言わないでおいてやろう。自分の恥部を曝け出してまでウケを狙いに行ったのにうっかり天使様みたいなコメントを賜っちゃうなんて、嬉しいことは嬉しいけどそれよりせつなさや罪悪感の方が勝りすぎてて俺まで涙ちょちょ切れちゃう。
よし。オイルポットはヌメりまで処理したし、レンジ周りの汚れも拭いたし、鍋もちゃんとお湯に浸かってる。残りは後回しにして、ひとまず熱いツッコミを入れに――じゃなくてあつあつのランチを頂きに参るとしましょうか。……ツッコミは、まぁ、しゃーないから入れてやんよ。しゃーないからな。
しゃーないので、俺はエプロンで手の水気を軽く拭きながらテーブルの方へ向かうと、涙目で見上げてきた睦子の頭をぽこんと叩いた。
「こら」
「あうち」
以上を以て、果てしなくぞんざいなツッコミが終了。俺は軽い鼻息を吐きながら二人の対面の席へ着き、睦子はようやく緋叉音を解放して「叩かれちった」なんて嬉しそうにニヤけながら昼餉へと向き直った。
さって、待望のお昼ご飯ですよ――といきたかったのだが、ずっときょとーんとしてた緋叉音が、そのままのお顔で俺と睦子をきょろきょろと見比べながら問うてくる。
「…………ミコちゃんと、カズマくんって、…………………………夫婦?」
「なぜいきなりその発想。……ああでも、漫才的な意味ならそうとも言えるかな。だが結婚的な意味なら、回答は…………………………保留だ」
「え、ちょっ、なんで保留なのカズちん、そこちゃんと否定してよ、変な誤解生まれるじゃん……、あたしら、まだ結婚してないし……。…………まだ、かぁ……。……………………え、えへへ……♡」
「などと更なる誤解を招くような照れ笑いをしているが、実はこの女、俺と結婚するどころか現在二人の彼氏達と末永く爆発していやがる妖怪二股女である」
「……………………あ、そういえば、そうだったよね……」
彼氏の件については緋叉音も既に聞き及んでいたのか、得心したように小さく頷いてくれた。納得してもらえた様子なのは別にいいんだけど、もうちょっと俺らのボケに反応してほしかったなぁ。あとなんかこの子、あまりにも素直に納得しすぎだと思うんだけど……、まあ、緋叉音は元から天使だからこんなものか。
なんて、なんとなく緋叉音を観察していたら、ふと彼女の首元に巻かれていた物が目についた。
「…………天使姉妹か、こいつら……」
マフラー。先程までは睦子の首に巻かれていたはずのそれが、今は緋叉音の首にある。単純に考えて、腕も脚も剥き出しな格好の緋叉音を気遣って、睦子が巻いてあげたのだろう。まさか『そろそろ暑くなってきたから緋叉音ちんも汗だくにさせてやるゼ!』などと満面の笑みで苦痛を分かち合いにいったわけではあるまい。……いや、睦子ならやりそうだなそれ。この姉ちゃんほんと意味なくお戯れになられるからね、俺もひとのこと言えねぇけど。
まあいいや。睦子も緋叉音も会話は一段落みたいな感じでかき揚げの山withあったか~いそばに意識向けてるから、そろそろおなじみの号令いこうか。ちなみに、マフラーに汁跳ねるから先にほどいとけよーなんて指摘はしません、仲良し姉妹の絆を取り上げるような野暮をこのハードボイルドダンディー・荒鷲一馬がするわけない。
はい。それではみなさん、ご一緒に。手と手を合わせて、
「いただきます!」
『いただきまーすっ!』
◆◇◆◇◆
野菜の切れ端どころか物によっては皮でさえ美味しく頂けちゃうようになってしまうという、単純に美味いのみならず節約やエコの観点から考えても大変優れている万能料理、それがかき揚げ。揚げ物であるために多少の手間は覚悟しなければならないが、その手間を楽しめる俺みたいな人間にとっては最早かき揚げとは『さん』を付けて呼ばずにはいられない尊き存在なのである。
ってのは流石に冗談だけど、ともあれ、かき揚げさんは俺の得意料理なわけよ。自宅だけじゃなくて、バイトの賄いとしてもしょっちゅう作ってるし、それに睦子にも度々食わせてやってる。睦子相手に作る時はカロリー控えめの油にしてるせいで多少味が落ちるけど、その辺をどうにかしようとあれこれ試してみたら毎回違う味が楽しめて飽きが来なくなったと好評価を頂けるようになったので結果オーライ。
そして今日もまた、睦子はいつもと少しだけ違う味を「んまんま♪」って半分無意識で感想漏らしながら笑顔で満喫中。そんな風に自分のペースでさくさくずるずるやってる睦子の隣では、緋叉音もさくさくずるずるやってるわけなのだが……。
「あむ。かりかり。こりこりこり……。ちゅるちゅるちゅる…………。むぐ、むぐ。……こくん」
おかしい。緋叉音の口から漏れ出てくる擬音に、前回のような勢いが無い。かき揚げかりかりやってる時も蕎麦ちゅるちゅる啜ってる時もまったりと微笑んでいらっしゃるから、美味いは美味いんだろうけど、なんだろ、もっと貪るようにがつがつやってもらえると思ってただけに多少肩すかしな感がある。
思わず箸を止めて観察していたら、つゆを飲んで「ぷはぁ」と一息ついた緋叉音と目が合い、不思議そうな――それでいて少し恥ずかしそうな顔をされた。
「…………カズマくん、見過ぎ。……食べてる人の観察が趣味って、わかってるけど、それは、流石にちょっと……見すぎです……」
「……ああ、いや……。今日は……、可愛く食ってるな、と思ってさ。悪かっ――」
「――ぷふっ!」
マイペースにやってた睦子がいきなり口の中の蕎麦吐き出しやがった、汚ぇ。
思いっきり顔を顰める俺とは対照的に、睦子は涙目でけほけほ噎せながらも大層愉快そうににやにやと笑う。
「かわいっ、く、可愛く食ってるって、あんた、ちょっと、可愛いってえほげほっ、いきなりっ、いきなりうちの妹口説きにかかるのやめてくんない? 唐突すぎて、はぁー、マジうけるんだけど」
「そういう意味で言ったんじゃねぇよ……。単純に食い方の話だ。緋叉音って、もっとがつがつやるの好きなんだろ? 睦子みたいに無駄な見栄張る必要無ぇから、好きなように食ってくれていいのになって思ってさ」
後半は緋叉音に向けたコメントだったのだが、それを拾った睦子が「がつがつぅ……?」と反芻しながら訝しげに眉を寄せる。
その反応に俺も似たような表情を返していると、緋叉音が慌てて身振り手振りと共に弁明してきた。
「あの、この間のは特別でっ! だって、あの時はお腹がすっごい減っててっ、それに、懐かしかったりとか、美味しかったりとか、嬉しかったりとか、そういうのが色々いっぱい重なっただけですっ! 私、いつもはもっとお行儀良く食べてるよっ!」
「…………お、おう。そうか。なるほど」
なんだかやたら必死になっている様子だったので、俺はあらゆる疑問をポイして素直に頷いておいた。
ろくにリアクションが返せない俺に代わって、睦子が新たなかき揚げをそばつゆにちょいちょい浸けながら会話を引き継ぐ。
「まあ、緋叉音ちんはがつがつってタイプじゃないよねぇ。性格的にも見た目的にも……あと、食への情熱的にも? でも、流石にカ○リーメイトでご飯済ませようとしてるの見つけた時は、温厚なお姉ちゃんも思わずゴルァっちゃったよね。でもあれは、うん、正直めんご」
「………………あ、あぅ……。ミコちゃん、それ、カズマくんには言わないでって……」
「そだっけ? やー、じゃあそれも併せて、めんごめんご」
情けない顔の緋叉音に袖をくいくい引っ張られても、睦子は全く動じることも悪びれることもせず暢気にさくさくやっている。睦子が俺に一瞬だけ送ってきた流し目と、緋叉音が同じく俺へちらちら向けてくる恐怖に満ちた瞳が、俺に何らかのリアクションを求めていた。
ふむ。カ○リーメイト。カ○リーメイトか。ご飯の代わりになるカ○リーメイトっていったら、あれしかないよな。俺も学生やってた頃は試験や受験勉強の時なんかに度々お世話になった記憶があるけど、緋叉音もそういうクチなんだろうか。
「緋叉音って、もうすぐ高校受験だったりするのか?」
気になって訪ねてみたら、緋叉音は気まずげな顔でしょんぼりとしてしまって、回答は頂けず。その代わり、睦子が「あー」と気まずげに唸りながら、箸で挟んだかき揚げを横に振った。
「たぶん、あんたの思ってる状況と違うから」
「なら、実はもう高校生?」
「や、そっちは今年中三ってことで合ってるけど。『ご飯を食べる暇すら惜しんで勉強しなくちゃいけない状況なんだなー』って思っての、今の質問なわけでしょ? なら、それは半分ハズレ」
「……暇はあるのに、ちゃんとした飯を食わない。……もしくは、勉強ではないことに時間を取られてる?」
「はい、今度はどっちも正解」
もしくはって言ってんのに両方正解ときたか。緋叉音が口を挟んでくることもなくすっかり食事の手を止めて一層小さくなってる所からして、睦子の話には間違いも矛盾も無いはず。つまり、緋叉音は飯を食う暇があっても敢えてカ○リーメイトで済ませて、浮いた時間を勉強以外の『何か』につぎ込んでいた、ということになる。
思い浮かぶのは、ゲームや、アイドルとかか? でもどっちも緋叉音のイメージじゃないよなぁ。それに、睦子がゴルァっちゃったことをめんごしてたり、俺にこうして話を振ってきた――俺に意見を求めてきたってことは、少なくとも睦子は緋叉音のやってることを頭ごなしに否定はできないなと思ってるわけだろ? なら、緋叉音は単純に趣味にのめり込んでるってわけじゃなくて、どこかしらに情状酌量の余地があるような行為をしているはず――
………………。ああ、うん、なるほど。つまりは、それがあれなのか。
「――『絵』、か」
俺が口にした『正解』を受けて、緋叉音は消えてしまいそうなほどに身体を縮めまくり、睦子は目を丸くして俺を凝視してくる。
「あんた、もう聞いてたんだ? ………………って、ああ、そういうことかぁ……」
睦子は急に何かを納得したような様子を見せると、ふっと全身の力を抜いて溜息を吐いた。そして気を取り直したように「よし」と小さく声を上げると、食べかけだったかき揚げを緋叉音の丼へちゃぽんと落とす。
「お話は、このくらいにしとこっか。ほぉら、あったかいうちにかきあげお食べー。お姉ちゃんとお兄ちゃんの愛情、た~っぷり詰まってるよー」
「………………………………う、うん。ありがと……」
緋叉音はぎこちないながらも笑顔を見せると、プレゼントされたばかりのかきあげをしゃくしゃくと囓る。
咀嚼する度に少しずつ気まずさが抜けていってる様子なので、程なくして元気を取り戻してくれることだろう。そう判断した俺と睦子は、小さく首肯を見せ合って、緋叉音に続くようにして食事を再開した。
◆◇◆◇◆
食事を笑顔で終えた。その後は、お茶と無駄話も楽しんだ。それだけを見れば、本日この家を訪れた目的である、緋叉音との関係の修復……改善……構築? は果たされたように思える。
けれど、わざと先延ばしにした『貸し』の件については、そのままうっかり回答をもらい忘れて。しかも、会話は主に俺と睦子がリードする形になってしまっていたので、どうもあんまり緋叉音と仲良くなれたという気がしない。緋叉音のプライベートな事柄はほとんど聞けなかったし、手に入れためぼしい情報といえば、『緋叉音は現在中学三年生である』ということくらいか。
中学三年生。そのくらいの年齢だろうなとは思っていたが、実際に確定となるとこれはこれで新たな疑問が生じる。翌年に高校受験を控えての中学最後の夏休みというこの大切な時期に、何故わざわざ、しかもこんな片田舎に引っ越してきたのだろうか?
「――気になるの?」
緋叉音の後ろ姿を見送るかのように二階への階段を見上げていたら、背後の睦子がそんな言葉をかけてきた。
俺は首を横に振り、玄関への短い道程を消化する作業へと戻る。
だが。
「気に、なるの?」
再度の問いかけ。そして、服の裾を引っ張ってくる、極々弱々しい指先。
俺はどう答えていいものかわからず、けれど、とりあえず睦子の方へと振り返り――
「緋叉音のこと、好きになっちゃいそう?」
そんな明後日の台詞を呟く、寂しげな笑顔の女の子と向き合った。
寂しそう。それに、未だ冬みたいな服装に身を包んでるくせして、なんだかとっても寒そうに見える。あとは、なんでかわからないけど、なぜかどこかが、とっても悲しそうで。それを見ている俺まで、悲しくて、寒くて、寂しくなった。
「……お前はいったい、いきなり何を言い出しとるんだ。あのぎこちなさ満載なランチ&ティータイムの、どこをどう見たらそんな台詞が飛び出してくる?」
「………………だって、和馬、ずっと緋叉音のことばっか見てた……」
「そりゃ、あいつとはまだ会ったばっかなんだから、これから仲良くしてくためにも最低限の情報は得ようとするだろ。それに色々事情抱えてそうだから、地雷を踏み抜かないためにも、なおのこと情報収集の重要性が――」
「やだ」
一刀両断。さらば、我が言い分け達よ。そしてこんにちは、マジ泣き寸前の女の子を泣かせないための本音達。
「……『好きになりそう』かは、なんとも言えないな。ただ、良い子ではあるから、俺に出来る範囲で笑顔をプレゼントしたいな、とは思う」
「…………………………好きなんじゃん」
「…………人としてな。あくまで、人として」
「うるさい、嘘つき。もう出てけ、ばか」
理不尽な怒りをローキックに変えて、睦子は執拗に俺の剥き出しのスネを削り取りにかかってくる。
俺は敢えて蹴りも怒りもかわさずに、玄関のすぐ側まで追い立てられて――ぴたりと立ち止まった。
告げる。
「もし俺のせいで、お前が緋叉音のことを嫌いになりそうなら――あ、ごめん、ちょっ、蹴らないで、痛い、それお前マジ蹴りだろ!?」
「うるさいうるさいうるさいうるさい、馬鹿にすんな、馬鹿にすんなっ! なんでっ! あたしが! 緋叉音のこと! 嫌いに! なんなきゃっ! 馬鹿にしてる、馬鹿にしてるっ! もうっ、もぉうっ!」
「悪かった、悪かったって、ごめん、許して、失言だった、二度と言わねぇ、赦してお姉ちゃん!」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい……………………」
マジ蹴りはやめてくれたけど、今度は怨念ぶつぶつ垂れ流しながら俺のつま先をぺたぺた踏んでくるようになっちゃった……。睦子体重軽いし、強く踏まれてるわけでもないから痛くはないものの、一踏みされるごとに睦子のぐちゃぐちゃな感情がダイレクトに伝わってきて、心がひび割れそうなくらいに軋む。
「……………………………………」
実の所、睦子の唐突なヤンデレ化は、これが初めてではない。これまでも、俺に女の影がチラつくとこうして感情任せに不満をぶつけてくることは度々あった。まあ女の影って言っても、全部睦子の勘違いか言いがかりでしかなかったんだけどな。……そもそもなんで彼氏でもない俺の恋愛事情に睦子が口出ししてくんのかっていうのは、頼むから聞くな。姉とはそういう生き物なのだとでも思っておいてくれ、今はまだ。
今は、まだ。いつか、別の回答を口に出来る日が来るかもしれないけれど。少なくとも、今はまだ、睦子は俺の『お姉ちゃん』なのだ。
そういうことにしておかないと、『浮気』になっちゃうことでもあるしな。俺は睦子と彼氏達の仲を引き裂きたいわけではないのだ、むしろうちの不肖の姉といっぱい仲良くしてやってほしい。俺はそんな睦子と彼氏達の背景に『あの花』をぶわっと咲かせるアシスタントを担当しよう。
「……睦子」
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい――」
「はいはい、もう踏むのやめれ。俺もう帰るからな。手早く別れの挨拶を済ませよう」
「…………………………え? かっ、か、か、え、っちゃ、う――」
「挨拶してからだけどな。あいさつな、あいさつ。わかるか、あいさつだぞー? あいさつはとっても大事なんだぞー?」
顔面蒼白になりそうなほどにショックを受けてよろよろと距離を取る睦子に、俺は何度も優しくその単語を繰り返しながら、ぽりぽりと『頬』を掻いて見せた。
睦子は、しばしの間完全に思考停止。頭の中が真っ白になってるのがありありと見て取れる呆け面で、俺と鏡写しのように自らのほっぺをぽりぽりと掻く。
ぽりぽり。ぽりぽり。やがて彼女の頬に、ひっかき傷とは異なる赤味が差し始め、くすぐったそうな笑みがにんまりと浮かび上がってきた。
「…………………………うぇっへっへっへっへっへっへっひぇっひぇっひぇっひぇっひぇぇぇぇ~♡」
「お前、その笑い方絶対外ですんなよ? お前に懸想してる男共がうっかり目撃したら、百年の恋も一瞬で覚めちゃって超哀れ」
「そんな奴ら、心っ底どうでもいいし~? あたしに懸想する男はぁ、和馬だけでいいもーん!」
「世の弟共がみんな姉に懸想してるもんだと思ったら大間違いだからな? いいからほら、ちょっと横向け、横」
「やだ! でもあいさつは欲しい! だったらこのままするっきゃないね!」
睦子は俺の要求を笑顔で投げ捨てると、俺を迎え入れるように両腕を大きく広げて、軽く背伸びなんかもしながら「んー」と唇を突き出してきた。なんという浮気バッチコイ体勢、気を抜くとうっかりべろちゅーしてしまいそうになるぜ、していいかな? あ、だめ? あ、そすか……。
「じゃあ、まあ。………………ちょいと、失礼して」
睦子の広げた腕の中へ、俺はそっと歩み寄り、触り心地の良い生地に包まれたほそやかな身体をそっと抱き締めた。それに合わせて、睦子も俺の背へと手を回してきて、躊躇いがちに力を込めてくる。
俺はなるべく睦子の香りを堪能しないように気張って自我を保ちながら、対照的に完全に自我を失って俺の胸に顔埋めてゴキゲンになってやがる姉ちゃんを軽く揺さぶった。
「なんで普通に抱き合ってんだゴルァ。あいさつ、あいさつが本題だろおい」
「………………抱き合ってるのは、和馬のせいでもあるじゃん……。………………ねえ、あいさつするまで、ずっとこのままでいていい――」
「あいさつシャオラァ! オラァ、ッシャァ! 早くしろやゴルァ! じゃないとそろそろ俺の鋼の理性が溶解してしまうのです。なんでお前今日はそんな可愛いの? いやいっつも可愛いんだけどさ。ていうかお前、実は天使様なんじゃね?」
「………………………………かっ、か、わ……、い、…………い…………? ……へ、へへっ♡」
「よしわかったあいさつやめよう俺もう帰るわほんともうダメ――」
――ぎしり。
天井の方から、床の軋む音がした。音の位置と響きからして緋叉音が覗いていたというわけでもないのに、睦子は背中に氷を入れられたように「ひっ!?」と悲鳴を上げて身体を離す。
今こそが千載一遇の好機! いくぜ、正しいご挨拶!
「眼ぇ閉じて横向け」
「え、えっ、ちょっ、かず――」
平常心を失ったままの睦子は、俺の指示を何一つ実行に移さず、狼狽えるばかりだった。対する俺は、自らが成すべき事を行動へ移し、たこみたいに伸ばした唇で睦子の頬に吸い付――
「――――――――――ちゅっ」
「………………………………………………」
吸い付こうとしたら、逆に吸い付かれた感触がした。口の端っこにだけど。睦子ってほっぺに口付いてんの? やべぇな、お前。ほんとやべぇ。
いたずら成功、みたいにはにかみ笑顔で俺を見つめている、そんなこの娘がほんとヤバい。
「へっへー、やっちったー。ね、ね、どう? 驚いた? どんな予想外の事態にも瞬時に対応して冴えた答えを見せつける、そんなお姉ちゃんのまぐれっぷりに惚れ直しちゃったかね? んー?」
「…………………………………………まぐれなのかよ」
「うむ。まぐれよ」
ようやく捻り出せたツッコミに、睦子は実に良い笑顔で大仰に首肯を返してくる。
キスをした。しかも、たぶん唇に。なのに睦子はいつもの睦子すぎて、ほんと、こいつってやべぇなと改めて思った。
けれど、その『いつもの睦子』というのが必死に取り繕ってる結果なのは、彼女の頬が真っ赤っかになってるせいでバレバレすぎてて、俺はこいつほんとマジヤベェという想いを更に強くしたのだった。
◆【雛木姉妹/睦子END】が解放されました。【緋叉音√】に変化が生じます。




