冬のわすれもの
私がその家の話を聞きつけて訪れたのは、三月になってもちっとも温かくならない一日だった。
この冬ずっと使いっぱなしだったコートをはおり、家の前に立った。
とくにこれといって他の家と変わりない、二階建ての一軒屋だった。
「すいません、私、音宮と申します。白木和人様からお電話を頂いて参りました。和人様はご在宅でしょうか?」
「あ、わざわざすみません。いま出ます」
少しレトロチックな、クリーム色と臙脂色のインターホンを鳴らすと当人らしき人が出てきた。
歳はだいたい十九から二十といったところだろうか。
色の薄いGジャンをはおり、ベージュのコットンパンツをはいていた。
一見するとカジュアルな好青年といった印象だが、眼鏡のしたにはずっしりとしたクマがあった。
「どうぞ、上がって下さい」
従って、私は家に上がった。
玄関先は思ったより整っていた。
クマの出来かたから、そうとうな疲れかストレスが溜まっているのだろうと思い、正直中身もなかなか悲惨なものだと思っていたが、思いのほかそうでもないらしい。
接客用に整理したにしてはやたらとモノが少ないし、わざわざお客様用にこしらえるテーブルクロスなども無かった。
「お忙しいところわざわざすみません」
ソファーに腰掛けながら、いえいえ、と私は相槌を打った。
「今回の件は、お母様が突然記憶喪失になったと仰られましたが、」
窺うように、少し前のめりになりながら本題を切り出した。
尋ねると、彼は少し視線を逸らし、うつむきながら言った。
「・・・ええ。でも、記憶喪失というより記憶の錯乱と言ったほうがいいかもしれません」
「と、いいますと?」
「母は結婚する前、一時だけ銀行員をしていたんですけど、いきなりその支度をしだしたり、ご飯を自分の分だけしか作らなかったり、そして、」
「そうしているうちに倒れて、寝たきりになってしまった、と」
はい、と俯いて言った。
無理も無いと思った。
昨日電話で依頼の内容を聞いたとき、彼は幼い頃に父を亡くし、女手一つで育て上げられてきたという。
それだけに母親への愛情は、私の想像のつかないものだろう。
だから彼自身も、母親がまさかこんな事になってしまって、どうしていいか分からなくなって混乱しているに違いない。
その混乱は、彼の目の下にくっきりと浮き出ていた。
私は再び尋ねた。
「他に、何か思い当たる事はありませんか?」
彼はまだ消沈気味だったが、私の問いに耳を傾けてくれたようだった。
そうするといきなり彼は言った。
「ねえ、音宮さん。アルツハイマーって伝染るんですかね?」
「アルツハイマー?」
思わず耳を疑った。
「ええ、実は僕、若年性アルツハイマーなんです。・・・今回音宮さんに依頼したことだって、インターホンが鳴るまで忘れてたくらいなんです」
「あの、和人さん、アルツハイマーは疾病であって伝染病では、」
「それくらいしか考えられませんよ!」
彼はいきなり、激昂したように言った。
「あの母があんなになってしまうなんて、正直そのくらいしか考えられません」
彼自身も疾患なら、アルツハイマーが伝染るものではないことぐらい知っているだろう。
それでも、彼をそこまで追い詰めるぐらい母親の容態は深刻らしいのだと思った。
暫しの沈黙が流れた。
がらんどうの部屋が、沈黙を押してたてるのに一役買っていたように思えた。
彼は俯いたまま顔を上げようとしない。その顔はとても歯がゆそうで、直視し難かった。
私は堰を切ったように、尋ねた。
「記憶を失くすにも、様々な原因があります。お母様の所へ案内してもらえますか?」
私は二階の一番奥にある部屋に案内された。
部屋に来る途中の廊下も、置いてるものは何も無く、洗面台の歯ブラシと歯磨き粉とタオル以外、みた物はなかった。
「母さん、入るよ」
彼はドアをノックして部屋に入り、私も後に続いた。
ベッドで横になっていたのは四十代中盤かと思われる長髪の女性だった。
その女性が彼の母親らしかった。顔はすっかり生気を失い、その姿は和人よりも酷かった。
彼女は蚊の鳴くような声で、「だれ?」と、言った。
「始めまして、音宮と申します。あなたの容態をお聞きして参りました」
私はこの家に来たときのように答えた。
しかし、「あなたは?」と和人の方を見て言った事に、私は驚きを隠せなかった。
思わず彼のほうを見ると、彼は、「いいんだ」と言うように、私を目で制した。
「この方の付き添いの者です」
と、彼は淡々と答えた。
それから、少し喋ったあとに母親は眠ってしまった。
話の内容も、ついぞこの家庭の話が出てくる事は無かった。
「まさかここまで酷くなっているなんて」
「僕のことも認識できなくなったのは昨日の夕方あたりからです」
「それまでは、どの程度だったんですか?」
「昨日に限って言えば、物を捨てていました。家族で使うためのダイニングテーブルとか。あとは僕のものを中心に捨てていました」
「和人さんの物中心ですか」
私は少し考えた。
記憶を失くす要因は様々だと言ったが、大雑把に分けると二つしかない。
一つは外的要因によるもの。頭部を強く叩かれたり、当たり所が悪かったりすると、衝撃によって記憶が混乱する事がある。
もう一つは、
「やはり、精神的要因によるものでしょうか」
「え?」
「人間というのは自我を保つために、様々な事を取り入れたり、排除したりします。コレクションにこだわる事と同じです。こだわる人は集めるだけでなく、自分の気に入らないものは排除するでしょう?」
「それじゃあ、僕のことを記憶から排除してるっていうんですか?!」
彼は驚いたように声を張り上げた。
「酷な話ですが、そうとしか言いようがありません。私は医者ではないので良く分かりませんが、アルツハイマーはやはり伝染るものではないし、他の要因でも心理的に働く要素があるのかもしてません」
彼は母親の寝顔を見て呆然としていた。
「確かめてみますか?」
「え?」
「実は私、ちょっと変わった体質なんです。何故だか知りませんが、人の夢の中に潜り込めるんです」
彼は唖然とした表情でこちらを見た。
しかしその顔は、すぐに冷めた表情になった。
「こんなときに変な冗談はよしてください」
「ならそれも含めて試してみましょう」
私は彼を制した。
「こんな状態では話すこともままなりません。あなた自身もアルツハイマーだというのなら、もしかしたら忘れられた事も忘れてしまうんですよ?あなたはそれでいいんですか?」
何かを理解したように彼はうなずいた。
「そんなのは、いやです」
「分かりました。では騙されたと思ってくださっても結構ですから目を閉じてください」
彼はゆっくりと目を閉じた。
私も同じように目を閉じる。
「いいですか、目を閉じるともやもやしたものが映るでしょう?それの中心に飛び込むようにイメージして下さい。・・・では行きますよ、一、二の、三!」
まるで椅子の無い映画館のようだった。
無限に広がるような暗室の中に、ぼんやりと色あせたスクリーンが浮かんだ。
映っているのは何気ない日常のひと時だった。
朝に息子をたたき起こして何気ない挨拶を交わし、テストの結果で共に一喜一憂し、時には反抗した息子を叱り、そして気まずそうに仲直りをして、また挨拶を交わす。
先ほどまで見ていた和人や、彼の母親とはまるで別人みたいに、活気に溢れていた。
そしてスクリーンの前に、長髪の女性が一人立っていた。
「和人君のお母さんですね?」
紛れも無く、彼の母親だった。
「彼が心配しています。早く元に戻りましょう?」
私は彼女を促がした。
しかし、彼女は拒むように首を横に振った。
「なんでだよ母さん。そんなに僕の事が嫌いになっちゃったのかよ?」
思わず彼が言った。
しかしその質問にも、彼女はまた首を横に振った。
「じゃあなんで、」
「・・・怖くなったのよ」
今度ははっきりと、彼女の口から告げられた。
透き通った声の中に、間違いなく苦悶が混じっていた。
「そう、怖くなったの。医師の宣告から不安になって、その不安が段々と募って怖くなったの。いつか、和人が私の事を忘れちゃうんじゃないかって」
今まで溜めていたわだかまりを吐き出すように言った。
「だから思ったのよ。忘れられて苦しむくらいなら、忘れてしまったほうが苦しくないって」
彼女の背後に映るスクリーンは流れ続けている。
彼女は振り返ってそれを見上げる。
彼女に告げられた現実は、それは心と体を分離させるのに容易かったに違いない。
最愛の人を亡くし、二人で生きていこうと決めたのに、二人であがいた結末がこんなに残酷なものだったとは誰が予想できただろう。
「なんでこんな事になっちゃったんだろうね、和人」
振り返らずに、彼女は言った。
声は震えていた。
「こんな事になるくらいだったら、最初から、」
「なんだよ、やっぱり母さんは嘘ついてるじゃないか」
突然、彼が割り入った。
「違うわ、私は和人の事を、」
「そうじゃない、なんで忘れたくなかった事を忘れようとするんだよ」
彼女は振り返らない。
「違うわ、もう忘れたかった事なの」
「じゃあなんで、ずっと過去を見たままなんだよ」
彼女は身を震わせた。
はっとした様になって、ゆっくりと振り向いた。
「そりゃ僕だって辛い事はあったよ。テストの度に怒られるし、好き嫌いするなとかうるさいし、ケンカだってした。でもそれでも嬉しくて、楽しかったんだよ。授業参観の日だって表では来るななんて言ってたけど、来てくれた時は正直嬉しかった。高校受験のときに塾に入れさせてくれた事だって感謝してる。だからあの時、行きたかった高校に行けたでしょ?その時泣きながら一緒に大興奮してたじゃん。だから、」
彼はありのたけをこめて言った。
「だから、良かったことまで否定すんなよ!」
世界が開けたようにも見えた。
元の部屋に戻り、私たちはベッドの前に立っていた。
和人の母親は身体を起こしていた。
「音宮さん、でしたよね」
彼女は尋ねてきた。
「和人のこと、どう思いますか?」
「なかなか芯の強い男の子だと思いますよ。誰かのおかげですね」
そうですか、とうなずいた。
「母さん、」
「なあに?」
「気分は、どう?」
彼は神妙そうに聞いたが、
「うん、随分と良くなった」
と答えた。
すると、和人は彼女の前に座り、
「良かった・・・」
と言って泣き崩れた。
「心配かけてごめんね。大丈夫、もう逃げたりしないから」
彼女は優しく彼の頭に手を置いた。
窓から夕陽が差し込む。
もうすぐ日が暮れて、夕食の時間になる。
そうして彼らは語り合う。
一日の事、友達の事、現実の事、夢の事。
それらは母親の作ってくれた食事に混じって溶け込み、かけがえの無い思い出となって朝を迎える。
その話題に大きい事なんていらない。
日々のちいさな変化を見つけて、それを楽しみ語り合う。
彼らを見ていると、人はそれだけで充分に満足できるのだと思った。
「音宮さん」
母親は和人の事を見たまま言った。
「ありがとうございました」
「病気と闘う上で、あなたの存在は彼に負担を掛けさせない大切な役割を担っています。たとえ辛い事があっても、その事を決して忘れないで下さい」
彼女は一言、
「ええ」
と頷いた。
人は今日も何かと闘っている。
ちいさな幸せを見つけるために。
ちいさな幸せを守るために。
幸せのひと時の中にいる親子を見て、私はそっと部屋を後にした。
正直タイトルは適当です。
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