フェルとアンリ
地面に突っ伏したまま俺は、アンリを見上げる。
赤銅色の長い髪を一つにくくった髪型。はしばみ色の瞳はいつも自信にあふれていて、生意気そうな光りを放っている。
顔のつくりは、こいつの他に同い年の女の子なんて知らないからなんとも言えないが、父さんたちは事あるごとにかわいいかわいいと褒めていた。
その評が正しいかただのお世辞かは判断を控えよう。
だが、性格の方は、かわいらしさの対極にある事だけは断言できる。
何しろ、恐ろしいほどの負けず嫌い。どんな勝負でも自分が勝たなければきがすまないのだ。
もっとも、それを裏付けるだけの実力もあるのだが。
腹立たしいことに、物心ついて以来、こいつに一度として勝ったことがない。
今日みたいな本気の試合から、じゃれあいの延長みたいな小競り合いまで連敗街道驀進中だ。
「次は勝つ」
勝負のたびに繰り返してきた台詞を、今日もまた俺は言った。
形だけの定型句のつもりなんてない。毎回毎回本気の決意を込めている。
もっとも、その決意が実を結んだことはないのだが。
「そのセリフを聞くのも九千九百九十九回目だね。毎回毎回、フェルは律儀だよね」
「いちいちおんなじ突っ込みを入れるお前もな……っていててて」
軽口を叩いてるうちに、体中あちこちにある傷が痛み始めてきた。
正確には痛みを感じる程度には回復してきたってとこだろう。
今はまだ戦闘の興奮が残っているから我慢できるが、はやく治さないと酷いことになりそうだ。
治療をしようと思ったが、肝心の手がピクリとも動かない。
アンリに頼らなければいけないのは癪だが、背に腹は代えられない。
「なあ、治癒魔法かけてくれない?」
「え、やだよ。魔力ほとんどつかっちゃってカツカツだもん。フェルはまだ魔力あまってるでしょ。自分で治しなよ」
恥を忍んで頼んだ俺の願いに、アンリは面倒くさそうな顔をしやがった。
今の勝負で魔力を消耗しきっていたらしい。
一方俺はまだいくらか余裕がある。
俺の方がアンリより魔力量が勝っているわけじゃない。むしろ、アンリの方が二割くらい多いはずだった。
それでも俺だけが魔力を余らせているのは戦いの中での魔力配分が下手だからだ。
魔力を余らせて負けても意味がない。出せるものを出しきれていないようでは、実力以前の問題だ。
まあ、以前はアンリに魔力を使いきらせることもできなかったので、ずいぶんとマシになったのだが。
それはともかく、いくら魔力が残っていたところ、発動できなければ意味がない。
俺は治癒魔法は苦手なので患部に手を触れなければ使えないのだ。
「骨が折れてて腕が動かないんだよ」
「フェルは"自然治癒力強化"の恒常魔法つかってるでしょ」
「完治するのに一晩かかるわ!動けるようになる前に魔物に襲われて死ぬっつーの!あたたたた」
大声を出したら傷に響いた。
その様子をみて、さすがにこれ以上からかうべきじゃないとおもったのか、アンリは「しょーがないななー」と言いながら治癒魔法を使ってくれた。
魔力が枯渇しているというのは本当なようで、わざわざ呪文を唱えている。呪文を唱えて魔法を発動させるのは時間がかかるが、魔力の効率は断然いい。
戦闘中は呪文や魔法陣を省略して体内の魔力だけで魔法を発動させるが、余裕がある時はこうやって魔力を節約するのだ。
戦闘中ならとても使い物にならないくらいの時間をかけてアンリが呪文を唱え終え手をかざすと、俺の周囲に白い光で出来た簡易魔法陣が浮かび上がり、すっ、と体が楽になる。
即効性のある"瞬間治癒魔法"ではなく、"自然治癒促進"なのも魔力節約の一環だろう。
とはいえ、俺が体内に常駐させている自然治癒力強化より強力な魔法なので小半時もすれば回復するはずだ。
それまではこうして転がっているしかないけども。
まだ身動きが取れない俺を見降ろして、アンリがにやりと笑った。
「いやー、それにしてもそんなにアンリお姉ちゃんに治癒魔法かけて欲しかったのか~。相変わらずフェルは甘えん坊の弱虫だなぁ」
「誰がだ!っていうか、お姉ちゃんってなんだっ。お前も俺も同じ十三歳だろうが!」
小さい頃はそうでもなかったが、"里"の大人たちがみんな死んでしまい二人きりになってから、こいつはたまにこうして姉貴ぶるようになった。
いや、ちょっと違う。俺を弟扱いするようになったのだ。
里の周りにわんさかいる魔物を狩るときも、狩った魔物から食事や日用品をつくる時も、俺を子分みたいに扱ってきやがる。
「小父さんがいってたじゃない。わたしの方が三日早く生まれたって」
「たった三日で姉貴ぶってじゃねーよ! 三日の違いで上も下もあるかっ」
「そういう生意気なセリフは、私に一度でも勝ってからいいなさい、弱虫フェル君」
ぐ。
それを言われると、何も反論できない。
「もし一回でも勝てたら、フェルのことお兄ちゃんって呼んであげるよ」
余裕の態度でそう言い残すと、アンリは地面に転がった俺を放って湖の方へと向かっていった。
ばさりという音を立てて何かが俺の頭に降って視界がふさがれる。セイタカヒトクイソウの種から取れる繊維で作った緑の上下。アンリの服だ。
どうやら水浴びをするつもりらしい。
「…………」
アンリの姿は視界から外れているが、服の隙間から見える水面には肌色の影が映っていた。
湖面は穏やかで、楽しげに水浴びをするアンリの長い赤髪やすらりと伸びた手足、それに、微かに膨らんだ胸とまではっきりと映っていた。
戦闘の興奮とは違う何かのせいで鼓動が速くなり、顔が熱くなるのを感じる。
なぜだか最近アンリの裸や下着姿を見るとこういう気分になることが多い。
昔は風呂だって一緒に入っていたというのに。
もっとも、アンリもそれを知ってか知らずかめったに俺の前で裸になることはなくなってしまったが。
(って、「しまった」ってなんだよ。まるで俺がアンリの裸を見たいみたいじゃないか)
……いや。見たいか見たくないかといったら、そりゃ、見たいんだけれども。
それを素直に認められるほど、俺は大人じゃない。
アンリが水浴びを終えるまで、俺は悶々とした気持ちを抱えてたえていた。
◇
しばらくして、水浴びを終えたアンリが戻ってきた。
俺の頭を踏んづけて顔を上げられないようにしてから服を拾い上げる。
「……おい」
頭上でごそごそと言う気配。服を着ているのだろう。
今無理やり足をどかせばせっかくの治癒魔法が無駄になるような目に合わせられることを理解しているので、屈辱的な体勢に甘んじる。
「……ねえ、フェル」
「なんだよ?ていうかさっさと足どけろよ」
俺の正当な要求は、しかしアンリに無視される。
「フェルの一万敗目のことだけどさ」
「まて、なんで俺が負けることが前提なんだよ」
「……フェルの一万敗目だか一勝目だかのことなんだけどさ」
俺のまぜっかえしを、アンリは茶化さなかった(足にかかる体重が若干増加したが)。
どうやら真面目な話をするつもりらしい。
「俺の一勝目がなんなんだよ」
「大分後になっちゃうと思うけど、ごめんね」
アンリの発言の意図がよくわからない。
「しばらく勝負しないってことか?」
「ううん、そうじゃなくてね」
―――わたし、"外"に行こうと思うんだ。
何気なく告げられたそれは、別れの言葉だった。