4.虚空に散る願い
「罠が作動するぞ!」
リゾーの言葉とは逆に、二人の仮面の男が前を通っても壁のランプはただ空気を燃やし続けただけだった。
リゾー達は足音が消えるまで扉の中へ隠れていた。やがて静かになると狭い部屋の中から崩れる様にジャンヌが出てきた。
「……ふぅ……良く休めたわ。行くわよ」
「……君、牢屋で裸になった事といい、この狭い部屋の中で抱き付いて来た事といい…………君って結構大胆だよな」
少し頬を赤くしたリゾーが早口気味にそう言った。
「……ここを出たらまず、アンタを殴り殺すわ」
「……うっ」
リゾーはジャンヌの睨みに竦み上がった。
「……フンッ……とにかくアイツらが降りて行った所を逆に進めば罠に掛からずに済むわ」
階段の上に視線を戻してジャンヌは階段を上り始めた。その後にリゾーも続いた。
壁のランプが迫るにつれて、リゾーの胸にはある疑念が湧いて来た。
何故、奴らは最初から最後まで階段の左端を渡って行ったのだろうか?
これまでの罠は全て位置がランダムで予測不能だった。なのに、この場所だけ左側には一切罠が無い。こんな事があるだろうか? このままあのランプに近づいても大丈夫だろうか? 疑念は拭えぬままランプの前に着いてしまった。
リゾーの冷えた汗がランプの熱で暖まる。対照的にリゾーの内心は疑念と不安で冷え切っていった。
ジャンヌが一歩踏み出そうという時、ランプの炎が一瞬光った。
「ジャンヌ! 危ない!」
「きゃああ!」
リゾーはジャンヌを突き飛ばす。
一瞬後にランプが一直線の炎を吐き出した。
「うおお! 危なかった。……反動で後ろへ転ばなかったら僕が丸焦げになっていた」
リゾーとジャンヌはランプを隔てて汗の浮かんだ互いの顔を見つめた。
「そんな……さっきアイツらが下りて行った時は全くなんとも無かったのに……このランプは罠だったていうの?」
ジャンヌの一言でリゾーの頭に稲妻の様な閃きが瞬いた。
「……それだ!」
「なっ何よ……人に指差ししないで」
ジャンヌは、急に立ち上がったリゾーに怒った。
「奴ら……つまりチーフの仲間がここを通ったという事がヒントだったんだ!」
リゾーは自分でも驚きながら叫んだ。
「ここを? …………まさか」
ジャンヌの目が見開く。
「そう……多分そのまさかだ。この長い階段には今まで所狭しと炎の罠が設置されていた。しかし、アイツらが通ったのは左側を……一直線! この場所だけ罠が右側に寄っているなんて事があり得るか? あり得ないさ……」
口端を上げて、リゾーは確信の目で数段先にいるジャンヌに向かって断言する。
「でも、アイツらは事実ここを通ったわ……アンタが言っている事が本当なら炎の罠はチーフの仲間かどうかで作動するって事?」
そんな事ありえるの? とジャンヌが付け加える。
リゾーはランプを指差した。
「違うさジャンヌ……僕が実験室に降りていく時は一度も罠なんて作動しなかったんだ。同じ様な階段を通るのに……問題は誰が……じゃなくどう通るのかだ」
「ハッ!? ……」
ジャンヌは口を両手で押さえた。
「そう……登るのか降りるのかだ! ……この炎の罠は脱獄者専用の罠だったんだ!」
ランプの熱がリゾーの顎から汗の玉を落とさせた。
「そして! チーフが登った事から考えて……これらの罠には間違いなくスイッチがある。何処かに」
リゾーは焦る気持ちのままに辺りを見回した。
ジャンヌがリゾーよりも下に目を向けた。
「扉! 私達が入った扉だわ。スイッチがあるとすれば……きっとあそこよ!」
ジャンヌは勢いよく扉を指差した。
リゾーは階段を駆け下り、扉の中を見た。
「……ムッこれは……! さっきは暗くて気が付かなかったが……壁に黒い配線とレバーがッ……スイッチはこれか!」
扉の中にあったレバーはかなり高い位置にあり、またリゾーの頭より大きかった。
リゾーはレバーを下ろそうと手を掛けた。しかし、全く動かない。何度やってもビクともしない。
「……ジャンヌ! 手伝ってくれ」
「分かったわ。……痛ッ」
ジャンヌは左足を抑えて、顔を歪ませた。
「ジャンヌ? ……大丈夫か!? ……さっき僕が突き飛ばした時に足を捻ってしまったのか?!」
青い顔でリゾーはやってしまったと思った。すぐに駆け寄ろうとする。
「来ないで! アンタの言う通り……きっとこの罠は脱獄専用……ならアンタが登ってきたらまたこの罠が作動してアンタは丸焦げ……私が降りて行くわ」
ジャンヌは片目を細め、よろける足で立ち上がった。そのまま、その足で激しく燃えるランプの前へと一歩を踏み出した。
「ジャンヌ!」
怯え叫んだリゾーの推理通りランプは反応しなかった。
ジャンヌは片足を引きずりながら扉の所まで降りてきた。そして、扉の前からリゾーを退けると、少し力んでレバーを引き倒す。
金属音がレンガで出来た壁に反響した。周囲が一斉に暗くなる。
「ランプの火が消えた……やはりこれがスイッチだったのか」
普段のリゾーならジャンヌと自分の力の差にしょぼくれる所だが、今は自分の推理があっていた事への安堵感の方が上回った。
「急に暗くなったらチーフ達も気付くんじゃないかしら」
ジャンヌの懸念を解決すべく、リゾーは丸みを帯びた階段を駆け降りる。
はやる気持ちを抑え、螺旋階段を静かに走った。ちょうど一周分を降りた時、リゾーは足を止めた。
リゾーの居る側はランプの火が消え、階段を降りるのに慎重にならねばならない程真っ暗になっている。しかし、リゾーの目の前からは定期的に並んだランプの火が階段を照らしていた。
しばし顎に手を当ててそれを見てからリゾーは頷き、階段を駆け登った。
リゾーはジャンヌの前まですぐに戻って来た。罠が無ければ数分も掛からない。
「大丈夫だ……ランプの火が消えたのは螺旋階段の一周分だけみたいだ……ばれる心配は無い。出口へ急ごう!」
リゾーは足を捻ったジャンヌに肩を貸し、階段を登り始めた。階段を登る途中、何度かランプのある場所に着いた。
ジャンヌはその度に扉のスイッチを切った。
そしてついに、隙間から光を漏らす巨大なドアの前。その場所へ彼らは辿り着いた。
「出口! ……間違いないわ!」
ジャンヌが隣で嬉しそうな声を上げている。リゾーも顔を緩ませた。危険な賭けであったが、とにかく彼らは辿り着いた。
牢屋のそれとは明らかに違う装飾の付いた巨大なドア。壁との隙間から漏れる見たことのない強さの光。
彼らはそのドアのノブに手を掛けた。
「重い。……もっと強く押すのよ。……もっと強く!」
ジャンヌが全身を使いドアを押す。
リゾーも非力ながら全力でドアを押す。隙間から漏れる光と風が強くなって行く。
「「押せ~!」」
眩いばかりの光が彼らを包んだ。
「…………え?」
ジャンヌが呆けた声を上げる。
「…………」
リゾーは声を出せなかった。
彼らの目に飛び込んできたのは人工の光を発する照明と部屋一杯の植物であった。部屋は6m四方、木製の棚が列をなしている。
「この植物は……! この部屋は……! …………出口は何処!?」
ジャンヌは足を引きずりながら、血走った目で部屋の奥へ歩いて行った。
照明の光がジャンヌの額に汗を滲ませる。ジャンヌは棚と棚の間の狭い所を棚に寄り掛かりながら歩いていく。
棚には無数の植木鉢が置かれていた。
リゾーは放心したままそれに付いていく。10歩も歩くと、突き当たりの壁でジャンヌが項垂れていた。
リゾーは植木鉢の一つを震える両手で持った。
「この……野菜……見張りが吸っていたヤツだよな……? という事はまさか……ジャンヌ? この部屋って……まさか!」
「あるわけないでしょ!! そんなまさかなんて……! この麻薬は……外でしか育たないって言ったでしょ!?」
ジャンヌはリゾーの手から植木鉢を叩き落とし、持っていた燭台を部屋の奥の壁に突き立てた。
「ジャンヌ……そうだ……壁を削って出口を作ればいいんだ……! そうに違いない! ここまで来て……出口がないなんて……あってたまるか!」
内心の怯えから逃れるようにリゾーは叫んだ。目の前のジャンヌが壁に燭台を打ち付ける度、リゾーは獣のごとく唸った。
パキッ、と4回目の殴打に燭台は呆気なく折れた。
「…………」
「……そんな」
リゾーの頭は真っ白になった。
「もうダメ……! うぅ……この部屋に出口は……無い……! 私達は……ぅ……脱獄できない! 私達は……ここで……! [死ぬ]……!」
ジャンヌは嗚咽を漏らしながら、膝を着き、泣き出してしまった。
リゾーの心が絶望で満ちた時、軽い拍手が鳴った。
「麻薬栽培所へようこそ……君等も欲しくなっちゃったのかいぃ?」
嫌に高い猫撫で声がリゾーの耳に届いた。昨夜も聞いた声。リゾーが振り向くと、巨大なドアの向こう側に仮面を被った小男が立っていた。
「チーフ……!」
「すごいだろう……太陽光と同じ光を出せる紫外線照明だ。これで室内でも麻薬を栽培出来る」
チーフは前と同様、仮面を被っていた。
「……この麻薬には人の判断力を鈍らせる効能があるんだ。ここの研究員以外はみんな……これで騙して連れてきた」
チーフの声は小さい。それなのにきっとどんな人間をも委縮させる響きを携えていた。
チーフは部屋の中に静かに入り、棚の植木鉢から麻薬の葉を一枚だけもぎ取った。
「ジャンヌ……おい! 起きろ! ……どうする? ……逃げるか? ……でも何処へ?」
リゾーは動かないジャンヌを必死に揺すって呼びかけた。彼がジャンヌの頭を持ち上げて見ると、虚ろな目から涙を流し力なく項垂れた顔が見えた。
リゾーは戦慄した。
「何だ……お前ら逃げたかったのかぁ~出口なぁ~何処だったかなぁ~……う~ん……」
チーフはもったえぶった動きで作業服の尻ポケットから大きめの紙を取り出した。
「……ああ! ……ここだ! ほれぇ!」
チーフは手に持った紙ーー地図ーーをリゾーに見せつけた。
「この遺跡には階段が二つあってなぁ~出口はもう一つの階段の方! もちろん隠し階段だけどねぇ…………ここじゃないんだ……見張りが、燭台がどうとか言うから一応お前等を泳がせてみたら……お前等バカみたいに壁掘って出てきてさぁ! ……くぅぅ~アヒィ……フヒィ! 必死こいた無駄な努力ご苦労様ァ! そして、そしてぇ麻薬部屋に! ようこそ! ヒヒヒヒヒヒヒアハァ!」
卑劣な種明かしの途中、チーフは堪え切れないという風に嘲笑い始めた。その姿がリゾーの視界で大きく歪んだ。頬が濡れる。
「う……うぁぁ……拷問は嫌だ……腕を折られるのは嫌だ」
リゾーもジャンヌの様に崩れ落ちた。
「……フゥ……さて……ワシも心苦しいぃが、脱獄をタダで許すわけにはいかんなぁ~ここは脱獄に何よりも厳しいのだから」
仮面のせいで表情の分からないチーフがゆっくり、ゆっくりと近づき、手を伸ばしてきた。
「う…………ウワアアアアアアアアアァ!」
リゾーは雄叫びを上げながらチーフに襲い掛かった。勝算や自信があったのではもちろんない。冷静な思考力などリゾーには残っていなかった。
リゾーの左拳はチーフに届く前に巨大な岩の様な手に掴まれてしまった。彼の手を掴んだのは3mの巨体を持つ仮面の男_見張り_だった。
「うッ……み……見張り……!」
リゾーは一瞬で掴み上げられた。リゾーは救いを求める様にジャンヌに目を向ける。
既にジャンヌは仮面を被った他の男二人に両腕を拘束されていた。ジャンヌはうわ言のように、ごめんなさいプロト……ごめんなさい、と言っていた。
希望が完全に潰えた事を悟ったリゾーはついに抵抗を止めた。
麻薬栽培所に二人分の嗚咽と一人の高笑いが響いた。麻薬部屋を照らす人口の光がギラギラと輝いていた。
壁に一定の間隔で設置されたランプ。大の大人10人が並んで歩ける螺旋階段。それを何周か下ると、脇に大きな扉が現れた。罠のスイッチである扉とは違い大きい扉だが、無駄な装飾は一切無い。
「着いたぞ……さあ……楽しい拷問実験の始まりだぁ!」
チーフの甲高い宣言と共に扉は開かれた。
光を反射する白いタイル。ガラス戸付きの収納棚。レンガや埃は一切見当たらない。牢屋や階段とは全く異質な空間だった。
リゾーの視線の先でジャンヌが打ちひしがれていた。彼にはもう、その姿を英雄と重ねることが出来なかった。
「……小僧をイスに…………その娘はココ」
チーフが収納棚の前で指示を出すと、仮面をした数人の男がそれに従う。リゾーのズボンに入っていた絵本は没収されてしまった。ジャンヌとリゾーはいつもの実験と同じように血を抜かれた。
チーフが懐から鍵を取り出し、棚のガラス戸を開けた。
チーフが棚を物色している間、リゾーは恐怖でいっぱいだった。これから何をされるのだろうか? いつもの注射だけでは終わらないだろうな、あの時の様に腕の骨を折られるかも知れない。それだけは嫌だ。そんな事をリゾーは考えていた。
チーフが棚から取り出した物は拷問器具でも注射器でも無かった。それは一本の錆び付いた棒であった。
「どうだ……? お前も初めて見るだろう。これが……! これこそがついに発掘されたこの遺跡の神秘であり、旧人類の英知の結晶なのだ!」
嬉々としてチーフは錆びた棒を掲げる。
周りの仮面の男達は一切言葉を発さず、微動だにもしなかった。
「……? ……何……言っているんだ?」
リゾーは汗を搔いて混乱するしかなかった。
「ぁ……」
「……ジャンヌ!」
リゾーがふと振り向くとジャンヌは手術台に黒いベルトで縛り付けられていた。仮面の男達はジャンヌの服を引き裂いた。
仮面の男の内の一人が、リゾー達が牢屋に置いてきたロウソクを持ってきた。そのロウソクに火が付けられる。
「待ってくれ……その火の付いたロウソクで……なっ、何をする気だ……?」
リゾーは青ざめた。
真っ赤に燃える炎は蝋を溶かし始めた。蝋が垂れ、落ちていく。落ちていった先は
ジャンヌの背中だった。
「よせ! 辞めろッ」
耳をつんざく絶叫。溶けた蝋がジャンヌの背中を焼いている。そしてなおも蝋は垂らされ続ける。
「ジャンヌ……! 辞めてくれえええ! ……悪かった! もう牢屋を脱獄なんてしない! だから……許してくれよォォォ」
「じゃあ、代わりに受けるか……?」
チーフが錆びた棒を何かの液体に浸しながら、リゾー達に目も向けずに言い放った。
「えッ……?」
「リゾー……もう牢屋から出ないなんて約束はどうでもいいんだ。牢屋の壁は硬い鉄で修復しておいたし、燭台も柔らかい物に変えた。だから脱獄は不可能だ。約束なんて無意味だ。……大事な事はしでかした事の罪を誰がどう償うかという事なんだよ。……意味分かるか?」
「償う……? 代わりに受けるって? ……ハッ!」
リゾーは左腕に寒気を感じた。チーフがリゾーの左腕を舐める様に触れている。
「この左腕を貰う」
「も、もら……!」
リゾーは唖然としてしまい、何も答えられなくなった。ゆっくりと、縛り付けられているジャンヌの方を見た。
ジャンヌの焦点が合っていない瞳にリゾーの恐怖に満ちた顔が反射していた。
「ワシはどっちでもいいんだぞぉ……小娘が火傷で死ぬんでもお前が左腕を失うんでも」
火傷で死ぬ? いくら蝋を垂らされたって死にはしないんじゃないか。リゾーは自分で最低だと思いながらも一緒に脱獄しようとした仲間と自分の左腕を天秤にかけようとしていた。
「蝋が終わったら次は火傷した所えお火で炙る。それが終わったら顔だ」
しかし、続く耳の底に響く低い一声でその土台が崩れ去った。考えが甘過ぎたのだ。
二本目のロウソクに火が付けられた。
「しかし、昨日今日あったばかりの奴に腕なんか賭けられないよなぁ……するとやっぱりここで見てるか? あの娘が死ぬとこ」
「……! 分かっ「しかし可哀想だなぁ! お前らもそう思うだろう?」……!?」
リゾーが半狂乱になって左腕を差し出そうとした時、チーフが両手を大の字に広げた。
リゾーにはその様子が嬉しくて堪らないという風に見えて、鳥肌がたった。
突然の事に仮面の男達も反応出来なかったのか皆互いの顔を見合わせた。
「…………そうだろぉ!!」
「はっはい! 本当に可哀想です!」
声を荒げたチーフに対し、確かに、その通りです、という声が上がる。
それに満足したのかチーフはまたさっきの顔に戻って話し始めた。
「という訳で……皆、罰を与える事に異議は無いが、腕や火傷は可哀想だと思っている。……そこでぇ腕の代わりにある物を[作ってもらう]」
チーフは液体に浸していた棒を取り出した。
それからズルリと錆びが剥げ落ちて、白銀の刃が姿を現した。しかし、武器にしては不可解な形をしている。まるで何かを削るような形だとリゾーは思った。
「[彫刻刀]だ……初めて見るか? まあいい。これでな……何でもいいから作れ。とにかく彫るのだ! 彫り終えるまで小娘への拷問は続ける!」
「?!……彫刻刀? で彫るって……何を?」
困惑したリゾーの前に30c㎡の木の板が置かれた。
リゾーのそばには三つの円形の計器を持った機械が設置された。機械の下には車輪が付いており、換気扇に近い位置の壁から伸びる黒い線に繋がっていた。
「いいから彫るんだよぉ! どうせ何を彫ろうとしても同じもんになるんだからぁ!!」
またジャンヌの悲鳴が鳴った。
リゾーの胸中は混沌としていた。突然渡された彫刻刀なる物で何を彫れば許されるのか。分からなかったが今のリゾーにはとにかく始めるしかなかった。そしてすぐに拷問の代わりだという意味を理解した。
「あぐぅあ!」
槌目柄の彫刻刀で板を削り始めたリゾーは左手に熱い痛みを感じた。
彫刻刀から硬いトゲが生えて彼の左手に突き刺さっている。さっきまでそんなものはなかった。いきなり現れたそれは硬いはずなのに生きているかのごとくがうねり、のたうつ。身体は恐怖で冷めて行くのに左手だけが燃えるように熱い。そして、それ以上に恐ろしかったのは彫刻刀がこっちを[見ていた]ことだった。
「なんだ。なんだよこれ……刃の所に目玉がッ!」
誰かの目玉をくり抜いてそのまま彫刻刀にくっつけたような[それ]はリゾーの顔をその眼球に映すと、トゲをさらに伸ばす。トゲがリゾーの左手を貫通した。
「うごああ!」
「おおぉ……計器も声もいい反応だなぁ! さあどんどん彫れ……彫って、彫って彫りまくれぇい!」
チーフの高い掛け声と共に3本目の蝋が用意された。
リゾーは左手の激痛とトゲが手を貫通しているという見ているだけで卒倒しそうな光景に悶えた。
しかし、顔を上げて、視界に蝋を収めるとリゾーは蝋に火が付けられるよりも早く板を彫った。
何を彫るのかなんて事を考える暇は無く、ただがむしゃらに左手を叩きつけていた。
しばらくするとリゾーの視界で板に付けられた傷は人の顔を描き始めた。一瞬だけ痛みを忘れる程驚いたリゾーが横目でチーフを見ると白黒のモニターと計器に夢中だった。
チーフが夢中になっている円形の計器の赤い針がどんどんと目盛りを刻んでいく。
「ああ! ……コッコイツ! また!?」
彫刻刀のトゲは数十cm伸び、触手の様にしなった。そのままトゲはリゾーの左腕に狙いを付けた。
「うわあああ! 痛い! いやだぁ! やめてくれぇ! もうやめて! やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてぇえええええ!!!」
「何がやめてだぁ~? ……お前が彫らないなら……こうだ!」
チーフは肩を怒らせて先さきほど彫刻刀を浸していた液体の入った容器を掴んだ。それをジャンヌの上に持っていく。
「この液体はその辺の錆び取りとは訳が違うぞぉ……その彫刻刀の特殊な金属の錆びを溶かすため超強力な酸が入っている! 皮膚を溶かし、内臓にまで酸が達する。つまり死ぬという事だぁ!!」
チーフは額に汗を搔き、鼻から荒い息を吹きだしている。正気じゃない!
「……めろ……やめろ、やめろおおお!」
リゾーが絶叫したのと彫刻刀のトゲが彼の左腕を突き刺したのは同時だった。
あっという間に暗くなる視界の中でリゾーは見た。[自分で彫った顔]が鋭く細い歯を剥いて板から飛び出し、仮面の男に襲い掛かる瞬間を……
ロウソクが魅せる柔らかい炎が鋼鉄に補強された壁を照らしている。
リゾーは再び牢屋のベッドで目を覚ました。半端な睡眠は彼の心と体に大きな怠惰感をもたらしている。数秒間、リゾーは見慣れない壁をぼんやりと見つめていた。そして、脱獄が失敗した事、実験室で拷問を受けた事、そして一緒に脱獄しようとした少女の事を思い出した。
「ジャンヌ!」
リゾーは叫びつつ振り返る。すぐに床にうつ伏せになっている何かを見つけた。一瞬それが人の身体だと分からなかった。
「ジャンヌ! ……しっかりするんだ!」
リゾーは穴だらけで傷も塞がっていない左手でジャンヌを支えた。刺し傷の痛みを忘れるくらいに彼は焦っていた。
「…………ぅ」
「おい! 無事なのか! おい! ……見張り! 来てくれ! ジャンヌがッ!」
ジャンヌは酷い有様だった。背中の火傷は埃塗れで化膿し、全身に青い痣が出来ていた。
辛うじて彼女は目を開けたが、立ち上がろうともしなかった。
「……リゾー…………そう言えば、アンタの……名前……呼んだ事……無かった……わね」
ジャンヌは視線だけをリゾーに向けて、掠れた声で名前を呼んだ。
「ジャンヌ。しゃべ「これ……大事な……思い出……でしょ?」!?」
ジャンヌはおぼつかない手つきで腹の下からあるものを取り出した。
「これは……僕の絵本……まさかその痣は……絵本を取り返すために?」
リゾーは震える手で受け取った絵本。その絵本はジャンヌの血と汗で汚れていた。
「私は……父親を殺しても何とも思わない様な人間だけど……自分のために必死になってくれる人のためになら命を懸けられる……後悔はしてないわ」
ジャンヌは今にも消えそうな声をして、今にも消えそうな蝋燭じみた命の火を燃やしながら唇を動かした。
それでも、彼女の瞳は輝いていた。脱獄を試みた時とは別の輝きだった。それはとても暖かい輝きだった。
「でも……こんな……」
「生きて……リゾー……アンタだけは……外に出て……いい思い出をいっぱい作るのよ」
目の前の少女の瞳が色を失っていくのをリゾーは何も出来ずにただ見ていた。
彼女の細くて汚れていても綺麗な右手がリゾーの手から滑り落ちた。もう少女は息をしていない。
彼はまだ暖かい彼女の手を取り強く握った。
彼女が目を覚ます事はもうないのか?
リゾーにとっては人の死など絵本の中だけにある話だった。彼には彼女の死が現実の物だと実感出来なかった。だから悲しみなどないはずだ。
ジャンヌの手を何かが濡らしている。それが自分の目から零れ落ちたものだと気が付いた時、リゾーはジャンヌとのあまりに短い時間を、思い出を噛み締めた。
ジャンヌが取り返した絵本が床に落ちる。あるページが開かれた。リゾーはそのページが一番好きだった。仲間を討たれた英雄が仇を取る場面。
「……ジャンヌ! ……分かったよ! 生きる! 必ず出口を見つける。そしてッ!」
リゾーはジャンヌの瞼をそっと手で下ろし、自分も目を瞑った。
「……必ず、あいつらを!!」
涙を振り払い、開いた目は牢屋の暗がりで黄金色に変色した。
「殺すッッッ!!!」
次回 怒りの眼