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菜乃花

作者: 小川かいた

 僕は帰ってきた。三年前、僕はこの港から東京へ、そして満州へと旅立った。たった三年。しかし僕にとって、一生に値するほど長い時間であった。

 僕の叔父が東京で製紙工場を間いており、その出資で高等学校、そして大学まで進学させてもらった。法科で二年ほど学んでいたが、ほどなく休校になってしまった。戦況は悪化しているようだった。新聞では『我が国有利』と賑やかに報道していたが、街の空気が違った。具体的にどう違うのか指摘はできないが、なんとなく緊張感と閉塞感を抱かずにはおれなかった。

 休校になってしまえば僕は東京にいる理由もなく、生まれ故郷の村に帰った。村は菜の花を栽培し、菜種油を採って生計を立てている。僕はその手伝いをして過ごしていた。

 そんなある日、僕のところにも赤紙が届いた。今までは大学の法科で学ぶ者だったので免れていたのだが、村に帰ってしまえば一般の男子となんら変わるところはない。

 僕の最初の任地は満州だった。ソ連との関係が次第に緊張しはじめ、不戦条約が信用おけなくなっている。そこで満州防衛のために兵員の増強が図られていた。しかし一年もしないうちに移動が行われた。僕の次の任地は南方戦線。そこはまさに生と死の最前線だった。

 熱帯雨林の中、乏しい物資を貴重に使いながらの行軍。ゆく先々で出会う米兵。そしてなによりも、現地住民のゲリラ戦術が僕たちを苦しめた。ただただ毎日森の中を逃げまどい、気を抜けば待っているのは死。仲間の半数は銃弾にやられ、残ったうちの半数は熱病に冒されて死んでいった。

 いよいよの時、隊長の「せめて一兵でも道連れに」との言葉によって、残された食料と弾丸にすべてをたくし米兵に対して玉砕突撃が敢行された。だがすでにその時、日本は半年も前にポツダム宣言を受け入れており、大東亜帝国建国の夢はもろくも崩れさっていた。 僕たちは米兵の捕虜となり、半年近くその場で過ごした。そしてようやく日本へと戻ることになった。はじめ九州に上陸。その後東京に行き、様々な手続きを済ませた。東京は僕の知っているものとまったく変わっていた。焦土と化していたのだ。しかし以前と比べ物にならないほど解放感があり、なによりも活気がある。人々は敗戦の傷から立ちあがり始めていた。

 そして今ようやく、待ち望んでいた故郷への帰路についていた。

 波の静かな入り江に船が入っていく。漁港として栄えていた懐かしい町。しかし遠くからでも分かる。街は、空襲を受けたらしい。家々は破壊され、整備されていた港も崩れていた。未だ復興ままならないようだ。だが上陸してみると、意外にもバラック小屋がいくつも建てられており、魚市さえ開かれていた。東京には遅れるがここも再生への道を歩き始めているようだ。

 しかし人々の視線が、あからさまに冷たかった。東京ではいい意味でも悪い意味でも、僕たち復員兵は無視されていた。だがここの人々は僕を遠巻きにし、僕の一挙手一投足まで監視しているような印象を受ける。

 だが僕はそんなもの意に介さない。僕は自らすすんで生きて帰ってきたのだ。なんとしてでもこの日本に、故郷に生きて帰る。そのために必死になった。この手を何度も血に染めた。生死の境を何度くぐろうとも、僕はその度に戻ってきた。たとえ冷たい視線を投げかけられようとも、非国民と罵られようとも、僕には固い約束がある。必ず生きて帰ってくると約束したんだ。

 街から南下する一本の道がある。舗装などされていない。以前はそこにバスが通っていたが、今そんなものはない。バスで二時間ほど。僕の足ならばどのくらいかかるのだろう。 しかしこの道の先に僕の帰る場所がある。僕は道を急いだ。


    ※     ※


 日が西の稜線に差しかかり、空を柔らかな茜色に染め上げている。

 半日ほど歩いてようやく、僕は見覚えのあるバス停をみつけることができた。バス停はひしゃげていたが、三年前確かに僕はここから旅立った。「帝国万歳!」の掛け声を受けながら。

 このバス停の少し先に丘を上る小道がある。丘は菜の花畑として耕されていた。今は時期外れで未だ固いつぼみの状態であるが、4月の半ばには丘は一面菜の花で埋め尽くされる。このあたりは菜の花を栽培し、油を採って生活していた。僕が旅立った時も菜の花が咲き乱れていた。バスから見た菜の花畑の景色は何度も見ていたはずなのに、その時受けた鮮烈な感動は今も覚えている。

 僕より四つ年上の茂ちゃん。同い年の一平。そして茂ちゃんの妹で、僕より一つ下のトシ。トシの飼っていたシロを入れて、四人と一匹はいつもこの菜の花畑で遊んでいた。毎日毎日、飽きることなくこの辺りを駆けずり回っていた。そう、この坂道。僕たちはここで遊んでいた。しかし僕が東京にいる間、幼なじみたちはもう出兵してしまっていた。そして残っていたのはトシだけだった。

 僕はトシを妹のように見ていたが、知らぬ間にトシは大きくなり、なによりもきれいになっていた。毎日の生活が苦しいからか、記憶よりずいぶん痩せていた。しかしトシの美しさを損なうものではなかった。トシは村の子供たちの世話をしながら、老いた両親の面倒も見ていた。

 僕が出兵するまでの半年の間に僕とトシの仲は親密になっていった。だが赤紙が届いた。僕はトシに必ず帰ると固く約束した。誓いと言っていい。そして僕はその約束を守って、今ここにこうして帰ってきた。

 服は擦り切れ泥だらけ、体にもいくつか銃創がある。しかし五体満足で帰ってきた。

 この坂を登り切れば村が見える。そしてそこに、トシがいる。僕の足も自然に速くなる。鼓動の高鳴りが抑えきれない。早く、早くトシに逢いたい……。


     ※     ※


 村が、なかった。

 丘の向こう、そのなだらかな斜面にも菜の花畑があったはずなのに、黒い土を晒しているだけだった。なによりも、村がなかった。記憶にある村の風景ではなく、そこは焦土と化していた。建物は焼け落ち崩れている。バラック小屋もなく、人々の声すら聞こえない。まさに廃墟。

 僕は走った。坂を転がるようにして下り、派手に転んだ。たとえ膝を擦りむこうが、掌に言いようのない熱さを感じたとしても、今の僕は痛覚が鈍ってしまっていた。何度も足をもつれさせ、その度に立ちあがった。

 これは幻か、それとも現実か! 幻ならばいますぐ消え去るがいい! いつまで僕は夢に冒されているのだ! なにか悪いものにでも憑かれてしまったのか!

 これは幻か、それとも現実か! 頼む、幻ならばいますぐ消えてくれ! 誰でもいい、僕をいますぐ眠りから覚ましてくれ! そして記憶にあるあの村の姿を、トシの待つあの村を見せてくれ!

 僕は無我夢中で村へと駆け込んだ。そしてまぎれもない現実であることを知った。僕は村の中を必死になって走り回った。そんなに大きな村ではない。すぐにすべてを見回ってしまう。いない、いない、いない! 誰もいない!

 妙に風が冷たい。夕日も記憶にないほど村を照らしていた。

「トシィー! トシィー!」

 大声をあげた。喉が張り裂けんばかりの大声で。そしてことりとでも音がしないかと耳を澄ました。聞こえるものは風が吹きぬける音だけ。

「トシィィィー! トシィィィー!」

 僕はトシの住んでいた家の方にゆく。たとえ残骸だけであっても、そこがトシの家であったことは分かる。もう、原型はなくとも。

「トシ……」

 僕はついにがっくりと膝を落とし、黒く焼け焦げた土の上に突っ伏した。知らない間にこんなことになっていたなんて。悔しくて、腹立たしくてたまらない。僕はこみ上げてくるいろんな感情のままに、ただひたすら地面を殴りつけた。土は固く、僕の拳はすぐさま赤く染まった。それでも僕は、何度も何度も拳を地面に叩きつけた。

「トシ、トシ、トシ、トシィ……」

「誰じゃ」

 突然声がした。しかし僕にはなにも聞こえない。

「おい、なにをしとるんじゃ、やめろ、砕けてしまうぞ」

 声の主は僕に近づいてくる。そして肩を揺さぶるが、僕はそれを邪険に振り払ってまた何度も地面を殴りつける。

「おい、修造じゃないか。修造、おい! しょうのない小僧じゃ」

 唐突に冷たさを感じた。気づくと僕はびしょ濡れになっていた。

「修造、目を覚ませ」

「……爺さん……源爺さん!」

「無事だったか修造、よう生きて帰ってきおった。よう無事じゃったな。生きて帰ってきてくれて、わしは嬉しいぞ」

 源爺さんは村に住む老人。幼い頃に片目をなくし、そのために徴兵からもれた。そして今、その節くれて皺だらけの手で僕の手を強く握りしめてくれている。

「爺さん……爺さん!」

 僕は思わず爺さんに抱きつき、まるで子供のように泣きじゃくった。


     ※     ※


 爺さんは村から少し外れた所に住んでいた。自分で小さな掘建て小屋を作り、ひとりでなんとか自給自足の生活をおくっているらしい。

「わしらは空襲を避けて山の奥に逃げとった。町の方に度々爆撃機が飛来しておったからな。あれは夏のくせに妙に寒気のする夜じゃった。町の方の空が赤く燃えておった。空襲を受けとったんじゃ。そん時じゃよ。一機の爆撃機がこっちの方に飛んできた。今でもはっきり目に焼きついとる。アメ公のやつ、三発、三発の焼夷弾落していきおった。アメ公はしばらく村の上を旋回して、それから町の方に帰っていきおった。村も畑もあっと言う間に火に呑まれてしもうた」

 三月の夜はまだまだ寒い。爺さんは囲炉裏に火を入れていた。僕はその火をじっと見つめ、ただ黙って爺さんの話を聞いていた。

「わしらはただ、見ていることしかできんかった。しばらくして火は消えたが、なにもかも無くしてしもうたわしらの、生きる気力も一緒に消えてしもうた。また菜の花を育てて暮らそうと言いだす者はひとりもいなかった。村のもんは今町におるよ。わしは町の暮らしがどうも馴染めんで、ひとりで細々とここで暮らしとるわけじゃよ」

「……じゃあ、トシは町にいるのですか?」

「トシ? ああ、町にはおらんよ」

「え? じゃあどこに?」

「わからん。おまえとトシは仲が良かったものな、実の兄弟のように。そうさなぁ、お前には話しておかねばな」

 爺さんはひとつ咳払いをしたあと、僕を真っ直ぐ見据えた。僕も爺さんを見る。なにかいいようのない不安を感じた。

「実はな、トシはお前が徴兵されていってしばらく後に、嫁いでいったよ、東京に」

 炭が爆ぜた。

 今、爺さんはなんと言ったんだろう? 僕は異国の言葉を聞いたような気がした。

 トツイダ?

「トシは度々町に出とったんじゃが、そこで東京でなんとかって会社やっとる御曹司に見初められたらしくてな。そこの会社のもんが村にきて、大金を置いてトシを連れて帰ったんじゃ」

「な、なぜ……」

「何故かはしらん。菜種油もよう売れんようになっておったし、それで金になるならと嫁いだのかもしれん。もしかすると、トシも相手の男に惚れとったのかもしれん」

「そんなはずは……そんなはずはない、そんなはずはない……」

 僕はなかば熱にうなされたようにそう呟くと、我知らずふらふらと立ち上がっていた。

「ん、どこに行くんじゃ?」

「……外の、空気を……」

 僕はおぼつかない足取りで戸口まで行き外に出た。もう夜になっており、空には満月が昇っていた。

 月明かりで足元は明るかった。僕は自分の足がどこに向かおうとしているのかも分からず、ただ体に全てをまかせていた。右足を出せば左足。左足を出せば右足……。

 いつのまにかトシの家にやってきていた。その玄関先に崩れかかった壁があり、僕はそこに背を預けて座り込んだ。

 ぼんやりと空を見上げた。もう少しすれば月が天頂に差しかかる。周りを見渡せば、月の蒼さに照らされた村の残骸が幽鬼のようにおぼろげに見えた。

 僕はなんのためにここにいるのだろう。必死になって生きた、生き残った。どんなことをしてでも帰ってこようと誓った。米兵たちを殺し、武装した現地住民たちを殺し、女を子供を年寄りを殺し、仲間を見殺し。僕は生き残った。

 何のために僕は帰ってきたのだろう。これでは死んでいった多くの同胞に申し訳が立たない。申し訳が立たない……。ならば生き恥をこれ以上晒さぬうちに、僕は詫びをしなければならないのだろう。そう、詫びを。

 僕は無意識のうちに懐に手を入れた。そこには一振りの小刀がある。父が出兵するとき僕が譲り受けたものだ。なぜ家にあるのか、そのいわくは知らないが大切なものだと思う。僕はこれを片時も手放さなかった。この小刀で米兵を殺した。なんの罪もない者も殺したことがある。

 僕は今それを手にとり、鞘からすらりと抜き放つ。刃こぼれがひどい。だが波紋はいまだ美しく、月の輝きを冷たく照り返していた。掌が僅かに汗ばむ。反対に背筋は凍るように冷たい。だがいずれ全身が冷たくなるのだ。僕はここで骸になろう。

 上着を脱ぎ、上半身裸になった。小刀を持ち替え、切っ先を自らの左脇腹に狙いを付ける。介錯はいらない。僕に辞世の句なんて似合わない。ただ静かに、僕はここでみなに詫びよう。

 力を込め、いよいよ刃を腹に突き立てようとしたその時、突然岩をぶつけられたような衝撃を受け、僕は小刀を取り落として無様に倒れた。目の前に白い粉のような光がちらつく。左の頬が痛い。口の中に鉄錆びを挺めたような味が広がった。

「痴れもんがっ!」

 怒声。

 僕の目の前にある光の粉がゆっくりと引いてゆき、ようやく起きあがることができた。

「今なにをしようとしておった。今ここで、何をしようとしておったのかゆうてみい!」

「僕は……腹を切ろうとしていた」

「戯けもんが,戦場で立派に散るなら男として本懐じゃ。じゃが戦いは終わった。終わった今こんな所で腹を切ったところで何になるというのじゃ」

「みなに詫びようと……」

「詫びじゃと! それこそ死んでいったもんたちに詫びねばならんの! お前の命ひとつで死んだもん全部の命が救われるものか。いいか修造、お前が今どんな気持ちなのかわしにはわからんよ。じゃがな、何かしら苦しい思いからお前が逃げ出そうとしているのだけはよぉく分かる。そんな弱いちっぽけなもんひとりが死んだところで、この世はなんにも動きはせん。動きはせんよ」

 僕はうつむいたまま、ただただ爺さんの言葉を聞いているしかない。反論など出来ようはずがない。弱い、弱いのは分かっている。自分でも分かりすぎるほど分かっているのだ。自決するのに、嘘の理由をでっち上げねば覚悟できなかったのだから。僕は本当は、辛くて仕方なかった。今まで虚勢を張りてきただけだったようだ。唯一すがることのできたトシとの約束さえ、今昔を立てて崩れてしまった。僕にはもう、生きている意味がない。生きていたって仕方がない。

 爺さんの言葉は分かる。でも今の僕にはなんの感銘も与えない。爺さんの言葉に重みがないのか、それともただ僕が受け入れることを拒否しているからなのか。

 後者であることは、疑いがない。

「修造、修造。なんで生きて帰ってきた。なんで生きて帰ってこれた」

「僕にはどうしても、守らねばならない約束があったんです。トシと交わした約束が」

「そうか……。じゃがトシはここにはいない。お前のそばにもいない。じゃがお前は生きて帰ってきた。生きて帰ってこれた。生きて帰ってきたのはお前が死力を尽くした結果かもしれん。じゃがそれだけではなかろう。天照様か仏様か、どなたのお力添えがあったからではないのか? お前は生きて帰ってこなければならなかった。たとえこういう現実が待っていたとしても、ここにこうして無事に生きて帰ってこなければならなかった」

 そうだろうか。僕は生かされてここに帰って来なければならなかった。だとしたら、なんと皮肉な運命を与えなさるのか。そうではないとしたら? 僕は裏切られていることも知らずに、ひとり約束を信じて必死になっていた。なんと滑稽なお話ではないか。

「わしはこう思うぞ。お前はこの後の世になにかせねばならんことがあって、ここに戻ってきたんではないか。お前には、わしにはもうほとんどない長い生い先というものを持っておる。それを生かすも殺すもお前自身で決めることじゃ。じゃが命の軽重、見誤るでないぞ。これは預かっておく。よう頭を冷やして考えい」

 爺さんはそう言って僕の小刀を手に取り去っていった。

 僕は、どうすればよいのだろうか。


 それから僕は、爺さんの家に厄介になることにした。今の状態で家族に会うのは気が引けるし、そのほかに身寄りなどはないのだから仕方がない。

 爺さんは始終むっつりと押し黙ったままだった。僕もなにか話をしようとは思わない。元々楽しい団欒などできようはずもないが。

 僕は爺さんの家に厄介になる代わりに、畑仕事の手伝いをした。晴れた日は焼けてしまった畑にくわを入れ、鰯の油をしばったカスを肥料にして混ぜて畝を作っていく。地道な肉体労働だ。僕は体力には多少自信がある。戦前はただの学生で、運動などは得意ではなかった。しかし重い荷物を持って南国のジャングルを歩き回るうち、いやがおうでも体ができてくる。しかし畑仕事は違った。一日それを続ければさすがに全身が悲鳴を上げる。爺さんは全くと言っていいほど疲れを見せないが。なにかくわを振るうコツのようなものがあるようだ。

 晴れた日は体を動かしているからいい。問題は雨の日だ。爺さんはひとり、縄を編んでいる。しかし僕には別段仕事もなく、壁に背を預けて座り、日がな一日窓の外を見て暮らす。そんな時に、ぼんやりといろんなことが頭の中をよぎるのだ。

 戦争でなにか戦果を上げたわけではない。日本は鬼畜たちに敗れさった。ただ無駄死にしていった多くの戦友。しかしそれは尊い死に様なような気がする。大東亜帝国の理念、神国日本の理想。お国のため、そして残った人々を守るために華々しく散っていった英霊たち。それは美しく、あまりにも虚しい。

 だが僕は何もかも捨ててお国の為に戦うことはできなかった。例え泥の中にはいつくばろうとも、決して生きることを諦めなかった。生きて日本に帰ることを捨てなかった。他のものはなにもかも捨てた。しかしそれだけは捨てられなかった。

 しかし現実はこうだ。捨てずに持っていたと思っていたものは、本当は失っていたんだ。故郷の村もこの有様だ。もし元通りの村に戻るなら、それは一体いつの話になるのだろう。しかしそれでも夢物語。村の人々はこの村を見捨てて町へ行った。元通りになるなんて、本当に夢だ。

 トシは僕を裏切り、別の男の所へ嫁いでいった。その男は金持ちで、きっと不自由なく暮らしているのだろう。そして僕は復員兵で、もちろん金などない。地位も名誉ももちろんない。ただ負け犬よろしくここに戻ってきただけだ。無様な姿を晒しに生きて帰ってきただけだ。なぜ僕は帰ってきた! なぜ僕は生きて帰ってきてしまったんだ!

 死にたいと思う。死なねばならないとは思わなくなった。しかし死にたいと思う。だがそれも極めて消極的な思いに変わっていた。僕が逝く死後の世界は絶対に地獄である。何度も手を血で濡らしたのだから間違いない。そこで永遠の責め苦を味わうのだ。その思いが僕に恐怖を与える。だから死ねない。自分の手で自分の命を絶つことはできない。僕はただの臆病者なのだ。

 だからといってこのまま精一杯生きて、天寿をまっとうしようとも思わない。あまりに幸せな過去が僕の足を浚い、重い現実が僕に突き刺さり、そして辛い未来が高波となって僕を飲み込もうとする。そんな場所に毅然と立ち尽くして生きていくなど、僕には絶えられない。戦いたくない、もうこれ以上戦いたくはないんだ。もういいじゃないか。僕はいなくてもいいじゃないか。もうなにも残されていない。こんな僕が生きていたって仕方がない。

 誰かが僕を好きなように扱えばいい。過去が足を浚い、今が突き刺さり、未来に押し流されてしまえばいい。ただ流されて生きていき、いつかどこかで殺されてしまえばいいのだ。そんな人生で構わない。そんな人生で。

 晴れた日はいい。体を動かしていればそんなことを考える暇もない。夜も疲れてすぐに眠れる。しかし雨の日は同じことを何度も考える。出口はない。永久迷路。そんなふうにして、僕は一ケ月ほどを過ごした。

 畑は大方出来あがり、あとは生き残った菜の花が咲き、その種を採って畑に蒔くだけだ。畑が出来た時、爺さんは久々に言葉をかけてきた。ただ、一言。

「よく頑張った」


     ※     ※


 その日の夜、妙に寝苦しかった。爺さんは豪快に鼾をかいていたが、僕は目が冴えてしまっていた。なんだか蒸し暑い。

 顔を洗えば眠れるかと思い、僕は床を立った。体は休息を求めている。フラフラと外に出て、井戸にやってくる。桶を上げて、冷たい水で顔を洗った。少しは気分が落ち着く。 床に戻ろうと家に向かった。ふと空を見上げると、満月が浮かんでいた。やや東寄りに漂っている。僕は突然このまま眠ってしまうことに不安を覚えた。なぜだか分からないが、このまま眠ってしまえば、永久に今の生活が続いてしまうと思った。そしてそれがたまらなく不安になった。

 しばらくぶらぶらと歩くことにした。焼け崩れた村を歩く。手付かずのままである。風に吹かれてさらに崩れてしまったところもある。そしてそのまま丘を登る。畝が整然と並んでいるのが、蒼い光の中で確認できた。よくここまで、二人でやってきたものだ。

 そしていつのまにか丘の反対側にきていた。焼夷弾に焼かれなかった菜の花畑が残っている。だが手を入れられないのをいいことに、無秩序に根を生やしていた。

 丘の上からその風景を眺めていると、僕の覚えているその丘の風景と重なって見えた。子供の頃の風景だ。その菜の花は黄色く小さい花を精一杯咲かせている。西からの多少肌寒い風に煽られ、いっせいにその身を横に倒した。まるで黄色い海を見ているようだった。満州から南方へゆく時に見た、黄河の河口のような、そんな海。

 さざ波は月明かりを浴びて僅かにきらめいていた。

 僕はおぼつかない足取りで坂道を下り、途中思いきって黄色の海に飛び込んだ。泳ぐように駆け抜けると黄色い花びらが水飛沫になり、風に乗って飛ばされていく。

 その様子を見て、急に花びらの全てを風に飛ばしてしまいたい衝動に駆られた。殴りつけ、張り倒し、引きちぎりながら畑の中を突き進んだ。なにも考えず、ただただ目の前に現れた菜の花の花びらを散らすためだけに体を動かす。

 それは戦場で戦っているような錯覚を覚えた。やがて殴りつける拳に衝撃が、引きちぎる手に生暖かさが伝わる。みるみるうちに僕の両手は赤く染まっていた。目の前にいるのは白人、アジア人。絶叫と銃声、血と硝煙。月明かりが熱帯の太陽のように暑い・・・。

 僕はふいに転んだ。石に足を取られてしまったらしい。僕が転んだ途端、わっと人々が取り囲んだ。今にも僕を殺そうと、その持っている銃で、銛で、鍬で、刃で。

 狂気と悦楽と涙で歪んだ顔どものその向こう、丸い黄金色をした月が天頂で遊んでいた。 南国のむせかえるような署さから、急に風が冷たくなった。その中にわずかに花の匂いが混じる。僕は肺が破裂してしまいそうになるほど空気を吸い込み、時間をかけて吐き出した。全身に溜まりに溜まった血の匂いが薄れ、心の中に菜の花の小さな花弁が花開いた。今まで見ていた幻影が、うそのようにかき消えた。

 僕は、菜の花畑にいたんだ。

「菜の花……あの日も……」

 僕は菜の花畑に埋もれたまま、ゆっくりと目をつむる。そうして瞼に浮かんでくるのはいつもの景色。そう、あの日も美しい月が浮かぶ夜だった。


     ※     ※


 僕もトシもこっそりと家を抜け出して落ちあった。子供の頃からそんなのはお得意だった。そしてふたりでこの菜の花畑にやってきた。畑に座り込み、菜の花に包まれたまま何を話すわけでもなく、ただただふたりでいる時間を過ごした。

 僕は翌日旅に出る。行く先は満州か中国か、南方の島々か。

「行っちゃうんだね、修さんも」

 はじめに声を出したのはトシだった。僕はぶっきらぼうに「ああ」とだけ答える。

「みんな、みんないなくなっていく。私の側からいなくなっていく……」

「仕方ない。お国の為に戦うのが男の勤めだから、女はこの国にいて国を守らないといけないから。離れてしまうのは、仕方ない」

「でも、こんなことを言ったとしても本当に仕方ないことだけれど、寂しいよ。できるならば幼い頃に時間を戻してしまいたい。みんながいるあのときに。明日どこかへ行ってしまうことのない修さんがいる、あの頃に」

 風に吹かれた菜の花が奏でる波音が、畑を渡っていく。

 そして僕は心の中に仕舞い込んでいた言葉を紡いだ。

「……必ず戻ってくる、必ず。僕はこの戦争、日本は負けるんじゃないかと思う。東京でいろいろ見て感じてそう思った。この戦争は負けると思っている。でも僕は必ずここに戻ってくる。トシ、お前を迎えにくる。必ず、必ずだ」

 トシはその言葉を聞いて、不意に俯いてしまった。

「トシ、どうした? 僕はお前を傷つけるようなことをしてしまったか? だとしたら……」

「ううん、そうではないの。そうではないんです。修さんの言葉がすごく嬉しくて。でも、でもなぜか信じられなくて、悲しくて、怖くて……」

「じゃあ……」

 僕は手近にあった菜の花を一本手折り、茎が細くなっている所で器用に輪を作った。

「トシ、左手を出して」

 トシの日々の生活で荒れてしまった、でもほっそりとした手を握り、その薬指に菜の花の指輪をはめた。

「花は枯れてしまうだろうけど、僕がいまこうしてトシに指輪をしたことを、いつまでも覚えていてほしい。言葉が信じられないならば、今日の思い出を信じてほしい。僕は、必ず、帰る」

「……待っています。必ず迎えに来てください、修さん……」

 僕とトシは互いに近づき、唇を重ねた。


     ※     ※


 ゆっくりと目を開けた。月は相変わらず天頂近くをうろついていた。

 必死だったのか……。唐突にそう思った。

 僕は今まで必死になりすぎて、いろんなことを忘れていた。トシの声も匂いも、唇の感触も忘れていた。いやもっと大事な、トシと交わした約束さえ。

 僕は自分自身に縛られていた。縛られ過ぎていた。僕は生きて帰ってこなければいけなかった。そしてトシと一緒に暮らさなければいけないと思っていた。トシを一生愛さなければならないとすら思っていたようだ。

 僕はトシの気持ちをなにも考えていなかった。トシが僕を愛していなかった訳じゃない。あの日の約束も本当だ。だからこそ僕はここに帰ってきた。

 僕はトシを愛している。だからこそ僕はここに帰ってきた。僕は生きて、そして元気な体で帰ってきた。ここに、トシの住む日本に。

 トシは今、なにをしているのだろう。東京で無事に過ごしているのだろうか。病気や怪我はしていないだろうか。食べ物には困っていないのだろうか。あぁ、一刻も早くトシに逢いたい。そして僕が元気に帰ってきたことを知らせてやりたい。どこにいるかは分からないが、捜せば必ず見つかるような気がする。

 トシ、トシ。僕はここにいるよ。帰ってきたよ。東京で暮らしているのなら、僕は手土産に菜の花を贈ろう。東京には花がないから、故郷の花を見たらきっと喜ぶだろう。

 明日、ここを出よう。


     ※     ※


 日が明けた。太陽が昇りはじめ、そのまぶしさに目を覚ました。

 目を開けて飛び込んできたのは、剌すような日差しを投げかける太陽と、そして黄色く小さい花々だった。僕は飛び起きて周りを見回す。一面、黄色い海になっていた。

 菜の花が、咲いている。

 僕はしばらく、その風景を惚けたように眺めていた。そうしているうちに、僕の瞳から自然と涙が溢れてきた。ああ、僕は帰ってきたんだ。

 僕は涙を拭い、丘の頂上を振り返った。体は強張っていたが目覚めはよかった。気が張って、体もそれについてくる。元気だ。

 僕は村に帰り、爺さんの小屋へ向かった。起こさないようにそっと扉を開けたが、爺さんはすでに朝飯を食べ終わっていた。ちらりと僕の顔を見た後、なにも言わずに茶をすすりはじめた。

「僕の小刀を返してください」

「何に使うんじゃ?」

「花を、摘むんです」

 爺さんは小刀を渡してくれた。僕は菜の花を適当な長さに切りそろえて摘んだ。そして切り口から乾いていかないよう手拭いを濡らして包む。そんな作業をしながら僕は爺さんに話しかけた。

「ここを出るよ」

 爺さんは無言で僕の作業を見つめている。

「とりあえず東京に行ってトシを捜す。町に行けば村の人たちがいるんでしょう? すぐにトシの居場所は分かる」

「で、どうするんじゃ?」

「こいつを渡す。田舎の花ならきっと喜んでくれる。その後は……その後のことはそれから考えるよ。たぶん、一度ここに帰ってくる」

 僕の荷物はあまりない。それを肩に担ぎ、右手に菜の花を持った。

「お元気で」

 僕は村を去った。爺さんは僕が丘を越えるまで手を振ってくれた。

 僕は行く。町に向かって、東京に、トシに向かって。

 舗装されていない、ただ真っ直ぐな道を通って。


   おわり

 これで原稿用紙30枚なんですが、長いですかね?

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