(捕獲+暴露)÷2=意外
◇◇◇
はっと眼が覚めて勢い良く上半身を起こすと、白い布が目の前を落ちていった。それを眼で追うと、少し焦げた畳の上に着地した。どうやら畳の上で横になり、おしぼりが頭に乗っけられていたようだ。一馬はL字の体勢のままで辺りを見渡すと、記憶にない景色が映りこんできた。お座敷になっている畳の上には木製の座卓が三つ均等に置いてあり、その周りには茶色い真四角の座布団が多数敷かれ、隅っこには余りなのか五枚ほどの座布団が重ねられている。木製の壁にはどこかで見たことがあるような芸能人のサインが複数枚飾られており、他にはビールを片手にポーズを取っているビキニのお姉さんのポスターが一枚。恐らくここは和風の飲食店なのだろうと一馬はボーッとした頭で把握した。
「痛っ……!」
他の情報を欲して後ろを振り向こうと身体を動かそうとした途端、強烈な頭痛が一馬を襲った。思わずうめき声が漏れる。
「あ、起きた!」
その時、思いもよらぬ声が一馬の鼓膜を震わせた。
「だ、大丈夫?」
その声に驚いて、頭を痛みに苛まれながらも弾かれたように顔をあげると、そこにいたのは誰あろう水野朔美だった。
カウンター席に座り心配そうな面持ちで一馬の顔色を覗き込んでいる。
途端、一馬は悟った。
恐らく自分はそば屋の前で倒れたのだと。そしてそれをどういう訳か発見された自分は、朔美常連のこのそば屋に急遽運び込まれたのではないかと。
この吐き気まで催す程の眩暈は日射病で、このすっかり温くなったおしぼりは頭に乗っけられていたのだろう。
一馬は徐々に現在の状況を把握しながらも、イマイチ現実を飲み込めないでいた。
それもそうだ。これまで散々バレないよう細心の注意を払っていたというのに、まさかその尾行相手に介抱されることになるなんて夢にも思っていなかったのだから。
「はい、とりあえずこれ飲んで」
ほうけている間に朔美は水を汲んでくれたのか、氷の入ったコップを差し出してきた。一馬は厚意を素直に受けとって、それを一気に煽った。
ぷはぁと豪快に息をはくと、異様な喉の渇きと激しい吐き気が少し癒された気がした。
「一気だねー。氷入ってるし、コップを首元に付けてるといいんじゃない?」
自分の首元を指差して無邪気に笑う朔美。笑うと八重歯が見えるんだなと一馬は目敏く思った。
言われた通りにコップを首元に付けると、ひんやりと冷たくて心地が良かった。同時にコップ越しでもわかる自分の体温の熱さに少しぎょっとする。
「ちょっとは落ち着いた?」
「あ、ああ」
そう言うと、朔美はローファーを脱いでテーブルを挟んで向かいの座布団に腰を下ろした。一馬も体勢を変えて胡座をかく。
そういえば店内にお客どころか店員さえ誰ひとりとしていない事に気づく。
「あ、ここね、実はわたしんちなんだ」
きょろきょろと周りを見渡していたからか、朔美は頬をかきながら照れ臭そうにそう言ってはにかんだ。
「そうなのか」
来店頻度が高いのはそういう理由だったのかと一馬はひそかに納得した。とは言ってもそれを朔美に悟られる訳にはいかない。それにしても昼休みに我が家に昼食をとりに来るというのは如何なものかと一馬は首を傾げた。
「そ。いやぁ戦友がいきなり倒れるんだもん、びっくりしたよ」
「は? 戦友?」
この会話の流れで明らかにおかしな単語が耳についた。
すると朔美は、一馬の疑問形には答えずスカートのポケットから手の平サイズのメモ帳を取り出して一馬の目の前に置いた。
一馬は訝しげにそれを手に取って最初のページをめくると、そこには尾行を撒くのに成功した日と失敗した日がカテゴライズされてびっしりと記されていた。
「え、なにこれ? もしかしてずっとバレて……」
「いや、バレバレでしょ」
何を今更と言った感じに眼を細める朔美に、一馬は目に見えて肩を落とした。バレていないと思い込み、探偵気取りで自己満足に浸っていた自分が恥ずかしい。穴があったら入りたいとは正にこのこと。これが本当の尾行ミッションであれば、とっくに消されているところだ。
「…………いつから?」
「え、うそ、ホントに今の今までバレてないって思ってたの?」
「はぁ、まじかぁ……。何も言わんでくれ……」
羞恥と自分の愚鈍さに顔を手で覆う。そんな一馬を見て朔美は大きく吹き出した。
「っぷ、あっはははは! そう落ち込まないでよー。ま、最初はやっぱりストーカーかなぁと思ってたんだよ。変なヤツに好かれちゃったなーって困ってたんだけどさ、よくよく見れば追い掛けてくるのって昼休みだけで、帰りの時とか登校の時は後付けてきたりしないじゃん?」
そうでしょ? と眼で問われて、一馬は首を縦に振った。
「ていうことはただのストーカーさんじゃないなって思って、暫くあんたのやりたいようにさせてたの。そしたらだんだんわたしの昼休みの行動を観察してるんだろうなってことに気づいて、それからはそう簡単に尾行されてたまるかーって逃げることが楽しみになってたんだよ」
ちょっとした鬼ごっこみたいな? と付け足して無邪気に笑う朔美に、一馬はとても驚いていた。
咎められ、白い眼で見られるならわかる。しかし朔美は嫌がるどころか逆にそれを楽しんでいた。それにこのフランクさはどうだろう。裏などなく言動に淀みもありはしない。決して飾らない彼女の魅力がこの言葉に集約されていた。
「道理で日に日にチャリのスピードが上がっていったと思ったよ」
「追い掛けられると逃げたくなるのだよ、少年」
恰幅の良い伯爵のようにそう言って、朔美は綺麗な顎を撫でた。
「じゃあなんでもっと早く言ってくれなかったんだよ? 教室とか廊下ですれ違えば機会なんていくらでもあったと思うんだけど」
「んー、言っちゃったらそれで終わりじゃん?」
「なにが?」
「この程好い無関係さっていうの?」
一馬が謎解明のため尾行を楽しんでいたのと同じで、朔美もまた追われる立場を楽しんでいたのだ。もしそれを言ってしまえば、一馬が尾行をやめてしまうのはわかっていたから。だから朔美は、敢えてその事には触れず、一馬とも極力関わらないようにしていたのだ。
「……なんていうか、変わってるなお前」
一馬が苦笑すると、朔美はチャーミングな八重歯を見せて眼を細めた。
「あんたもねー」
その笑顔によって、一馬の心の隅っこにあった瑣末な罪悪感は溶けるように浄化されていった。しかしこのことをお互いが認知してしまった以上、もう尾行を続けることはできない。
「じゃあ、なんで俺を助けたんだ? お前の言う程よい無関係さって奴を続けたかったんなら、見て見ぬ振りだってできたはずだろ?」
「それは心外だなぁ。そんなちっぽけな楽しみのために炎天下の中、目の前で倒れてる人をほっとけるほど薄情じゃないもん」
朔美はぷくりと頬を膨らませて睨む。流石にデリカシーのない質問だったと一馬は反省した。
「でもよく気づいたなぁ、俺が外で倒れてるのに」
「気づいてない振りをしながらちらちら見てたからね。いつもメモしたら先に帰っちゃうし、やっぱり見られてると気になるもん。で、それからはお父さんにここに運んでもらったの」
「お父さん?」
「うん、きっぺいの店主が私のお父さん」
それを聞いて、一言礼を述べようと店内を見回してみるが先程から人っ子一人見当たらない。
それどころか既に暖簾が下げられていて壁に立てかけてあった。
「あ、お父さんならもういないよ」
「……もしかして俺、閉店時間までぶっ倒れてたの?」
一馬がそう勘違いをするのも無理は無かった。普通飲食店が夜時を待たずして店じまいをするわけがない。夕方辺りに一時店を閉めるとしても、準備中の看板を出すのが通常だろう。わざわざ暖簾を閉まったりはしない。だが閉店したとなると一馬は少なくとも六時間以上眠りこけていたことになる。
しかしふと窓の外に目が行くと、外はまだまだ日の光で輝いていた。
「今は二時ちょっと過ぎくらいかな。ちょうど六限が始まったくらいじゃない?」
「……随分悠長だなぁ。閉店はやいの? ここ」
「お父さんの意向で営業は昼時の二時間だけなの。今は上でマジックの練習してるんじゃない?」
「は、マジック?」
「もうひとつのおシゴト」
朔美はトランプを切る真似をする。一馬はその親にしてこの子ありとでも思ったのか、声にならない相槌を打って苦笑いを浮かべた。
「それよりも、授業いいのかよ? 先に戻っててもよかったのに」
「さっきからあんたは……。わたしを鬼畜とでも思ってるの?」
「人気者が授業サボリなんて大問題になるぞ」
「倒れてるクラスメートを発哺ってのうのうと授業に出てる方が大問題でしょ」
「そりゃそうだ」
一馬が朗らかに笑うと、朔美もつられて口元を押さえて微笑した。
「今まであんま喋ったことなかったけど、お前って結構言うのな」
「あんたこそバカ正直に結構なんでも話すのね」
「バカとはなんだバカとは。正直なのは否定しなけどな。逆にお前のことも、お上品の典型かと思ってたよ」
「その言い方だとまるでわたしがお上品じゃないみたいじゃん。まぁ実際その通りだけどね」
べーっと小学生のように舌を出す朔美に、一馬はへへっと悪戯に笑う。二人はこの新鮮な空間をとても居心地良く感じ始めていた。いつも同じ箱の中で一日の大半を一緒に過ごしているというのに、交わした会話は一年で数えられるほど。人の内面など端から見ているだけじゃわからない。もし一馬が今日、朔美の目の届くところで倒れていなかったとしたら、二人は三年になってクラスが変わるまでこのまま一言二言挨拶を交わすだけの関係のままだったかもしれない。昼休み限定でお互いを意識していたとしてもだ。一馬も朔美もそれはわかっていた。それぞれに生来与えられたポジションというものがあったから。
ふと会話が途切れる。
室内にエアコンの無機質な音だけが響く。
朔美はちらちらと一馬の方を伺いながらも、目を逸らして頬をかきながら呟いた。
「……んー、まぁでもね、内心はあんたと少し話してみたかったっていうのも……あったんだよね」
その言葉に店内の様子を見渡していた一馬が振り向く。
「なんでよ?」
「だって、わたしとあんたってすごい似てるじゃん」