第7章「絶対強者の魔女は死を無差別に撒き散らす」
ひとまず僕達は手分けをしてルーを捜索する事にした。
一応警察にも通報しておく。
力は多いに越した事はない。
僕は太陽が沈み掛けた道を走っていた。
あまりにも情報が少ない。
せめてもう少しヒントがあれば……と思うがどうしようもない。
新たなヒントを見付けるか推測で答えを見付け出すしかないだろう。
眉間を揉む。
どうやって見つければ良いんだ……。
取り敢えずもう1度全てを整理してみよう。
僕がコトリバコを見付ける。
祀がそれを破壊する。
僕が岩鋼に尋問を受ける。
学校が爆発する。
教会でマリーにお祓いをしてもらう。
ルーに襲撃を受ける。
蓮華がルーの力を弱める。
雅達が嫉妬に怒り狂う。
塔で金髪黒づくめと会う。
ルーが事情を話す。
住宅街を浄化してゴーレムに襲撃される。
帰ってきたら金髪黒づくめによってルーが拉致された。
……あまりにも情報が多い。
どれが関係があってどれが関係ないのかわからないぞ。
僕はひとまず近くにあったベンチに座り、考えてみる。
一連の事件の中心になっているであろう最重要な事項が僕の手による『コトリバコ』の解放。
これを基に考えるのならばある程度話はシンプルになる。
祀がコトリバコを破壊した。
しかし呪いが発生しなくなっただけで呪いの影響が無くなった訳ではなく、それによってルーが凶暴化して僕を襲った。
そしてルーを狂わせていた害を蓮華が取り払う。
しかし呪いは残留しており、雅たちもその影響を受けて暴走していた。
学校から逃げ出した僕は塔に向かい、そこで魔女と会う。
魔女はあっさりと僕の前から去り、神社に帰るとルーと蓮華から事情を聞く。
その後、祀と蓮華と僕で住宅街を浄化してコトリバコの呪いを全て祓い、ゴーレムが出てくる。
帰ってきたらルーが居ない。
……まだまだ十分多いな。
しかしある程度頭がすっきりしてきた。
犯人はルーを必要としている事。
ルーは先祖が呪いを使った事で自身も遺伝的にその性質を受け継ぎ、人狼として生まれる。
これが重要なのかもしれない。
その原因となったのは数百年前ウェアルフ家が『悪魔の子の居る家』に呪いを散々掛け、滅ぼした事。
魔女がルーを攫ったとするなら呪い関連しか思い付かない。
ならばウェアルフ家の標的となった家だと考えるのが自然か。
そうして僕はあれ、と思う。
数百年前にウェアルフ家がコトリバコを使った。
その標的となった家には『悪魔の子』が居たという話だがあの魔女も自称悪魔だった。
そして魔女は何百年も眠っていたという。
その上最近になって目覚めたといった。
最近と言われれば僕がコトリバコの封印を解いた事。
あまりにも偶然が重なりすぎている。
もしかしたらあの魔女がアレイシアなのか。
多分それが正解だと思う。
あまりにもそれを証明するようなキーアイテムが少ないが彼女以外に思い付かない。
そして彼女は元凶を殺すと言った。
ルーは元凶ではないがアレイシアには関係の無い話だろう。
このままでは手遅れになる。
僕はベンチから立ち上がるが彼女の居そうな場所は思い付かなかった。
「どうすれば良いんだ……?」
そうして僕は考えてみる。
しかしこればっかりは考えるよりも手当たり次第に探すほうが良い、と結論づけた。
取り敢えずクラスメイトも何人か頼んでみた。
だが巳肇や千鶴達は千里眼を用いてみたもののわからないという。
祀達の術による捜索も同じ結果。
もしかしたら『聖域』のような場所に居るのかもしれない、という事になった。
「どういう事だ?」
僕は携帯電話で祀に尋ねる。
『つまり神社やお寺、教会も含めたパワースポットといった場所に術や能力で干渉するのは難しいという事ですよ』
彼女が言うには普通の物理法則や強大な術、能力ならばともかく千里眼など認識系に類するものはあまり作用しないという。
もっとも一部のセキュリティが堅い場所だけで大抵の所なら普通に使えるらしいが。
『以上の事から考えるとそういった場所に居るのだと思います』
咄嗟に思い付くのは天光神社と蓮真寺だ。
勿論天光神社に居る訳が無いし、蓮華も蓮真寺に赴き、居なかったと報告している。
ならば他にはどこがあるのか、と僕は考える。
この街にある堅牢な『聖域』なんて――
僕はなんとなく周囲を見回す。
「あ」
そうしてやっと気付いた。
こんなにも身近にあったのに忘れていた。
残っていたじゃないか、小さいけれどとても堅固そうな『聖域』が。
僕はそれを睨む。
そこに建っていたのは教会。
マリーと会った教会だ。
恐らくここにアレイシアとルーは居る。
僕は一目散に走り出す。
×
僕は独り教会に駆け込む。
鍵は掛かっていたが能力を使って壊させてもらった。
犯罪だがマリーには目を瞑って欲しい。
僕は扉を開いた。
照明は点いておらず中は真っ暗だった。
しかし街灯をはじめとした『外の光』がステンドグラスから差し込み、全く何も見えないという訳ではない。
礼拝堂の奥には黒檀と十字架がある。
しかし一部が欠けたり、至る所に瓦礫が散らばっていた。
激しい戦闘があった事がわかる。
そこに誰かが立っていた。
影は3つ。
僕は目を細めた。
鎖に巻かれて十字架でぶら下げられた意識のないルー。
ボロボロになった修道服を着ているマリー。
アレイシア。
彼女達は驚いた顔をしてこちらを見詰めている。
「へぇ……面白いねアンタ」
感心したようにアレイシアが言う。
しかし来たのは良いが状況が良くわからない。
何よりもマリーのポジションがわからなかった。
敵なのか味方なのかはたまたどちらでもないのか。
見たところアレイシアと対峙しているようにも見える。
「一体どういう事だ?」
僕はひとまずそう尋ねた。
我ながら情けないと思うが四の五の言っている場合ではない。
「誰かを犠牲にする事で私の目的を達成するイベント開催中って事よ」
アレイシアが言うが勿論そんな説明で理解できる程僕は頭が良くない。
しかしそれが良くない事なのはわかる。
誰にとっても。
勿論アレイシアにとっても。
そして何よりもルーを犠牲にする訳にはいかない。
だから僕は正体の掴めないアレイシアに立ち向かう。
「で、マリーは結局どうするの? 協力してくれるの?」
「言ったはずです。私は誰も不幸にさせません」
マリーは凛然とした態度でアレイシアに言った。
2人ともまるで古くから知り合っているような雰囲気だ。
アレイシアはそれに対して面白くなさそうな顔をする。
「ふぅん。懐かしい気配がするなんて思ってわざわざここまで来たのにつれないね。だけど圧倒的な力量差がある訳だけれど」
マリーが憮然とした顔になる。
やはり2人は戦っていたようだ。
対するアレイシアは無傷。
一切の疲労も感じさせない。
「ルーだっけ? その娘は私がやった。人狼って吸血鬼程じゃないけど面倒な相手だし」
冷たい声だった。
実体がないナイフのようなもの。
「やっぱりお前なんだな。アレイシアは」
「うん。その通り私がアレイシア・クローリー。悪魔で吸血鬼な魔女」
実際血なんて吸わなくても良いんだけど、と彼女は付け加えた。
「しっかし我ながら波乱万丈な人生だと思うよ。天界で天使やってたら事件起こして神からここに堕とされて、悪魔になるかと思ったらそれだけでは飽き足らず人間に転生させられるとか。挙げ句の果てにはとんでもない呪いがやってきて生みの親から『お前だけは生き残れ』なんてふざけた事を押し付けられて吸血鬼にされるとか」
彼女の言葉にはそれだけの重みがあった。
彼女が過ごした孤独とはどれ程のものだったのか。
僕にはわからない。
その片鱗すら理解できない。
「で、この中に居る誰かが犠牲になってくれれば私はそれで良いの」
アレイシアはニヤニヤと笑った。
何がおかしいのか、と僕は思う。
「アンタはどうするの? 黙ってそこで指咥えてる? それとも立ち向かう?」
「立ち向かう」
僕は即答した。
黙って見ていられる訳がない。
そうして彼女は笑うのをためた。
そこにあるのは冷酷な無表情。
空気が変わる。
「――じゃあ始めようか。本気でやるよ」
アレイシアがそう宣言したと同時に赤い魔法円が展開される。
虚空に半径1メートル程の円と五芒星が浮かび上がれば何かの合図と決まっている。
僕は迂闊に前に出ず、取り敢えずどんな攻撃が来るか見極める事にした。
僅かに姿勢を下げる。
すると何かが瞬いた。
僕の目の前だ。
息を飲んだ。
虚空が爆ぜる。
思わず腕で顔を庇った。
そこで生まれたのは爆発。
オレンジ色の炎が突如として発生したのだ。
爆風によって僕はのけぞり、背中から倒れこむ。
「くっ……!」
このままでは追撃されかねないので慌てて立ち上がる。
そして右手から天満月を出現、柄を握る。
見ると何時の間にかもう一撃生まれていた。
爆炎は凄まじく、教会の中をじりじりと焼いていく。
こんな所で火を使うとか容赦しないな。
僕は着火部分を影物質で覆い、鎮火していく。
しかしこれだけでは終わらないだろう。
アレイシアは次々に魔法円を展開していく。
そしてその度に爆発が起きる。
僕を目掛けてやらないのは手加減だろうか。
口では本気でやる、と言った癖に手を抜くとはやはり舐められている。
しかし僕には対応するだけで精一杯だった。
オレンジ色の光がいくつも生まれ、教会をゆっくりと削り、燃やしていく。
僕は被害を最小限に留めるだけ。
これではいつか限界が来る。
対するアレイシアは発動するペースを下げない。
寧ろ最初よりも速くなっている。
媒体を使用せずに発動する上にこの威力と速さ。
これが吸血鬼なのかと戦慄する。
このままじゃ埒が明かない。
僕は守りではなく攻めに転じる事にした。
攻撃は最大の防御だ。
彼女が絶え間なく展開する魔法円。
そこから爆発が起きる前に叩き切る。
魔法円というのはつまるところ、術を安定して出力する為のものでしかない。
悪魔の召喚など儀式に多く用いられるものだが、その目的は術者を守るためのもの。
魔法円の内側に立てばどのような災厄からも守られる。
そして円を囲んでいる文字は神聖なものであり、これが一番大切な要素だ。
これを少しでも間違えたり、歪みがあったりすると魔法円は上手く機能しない。
円だけでもある程度の効果はあるが精々第九階級レベルの悪魔までしか守れない。
その為に多角形が組み合わされるようになった。
そして使用される文字もヘブライ、ギリシャなど複数あり、組み合わせによって様々な効果を発揮する。
その後、『組み合わせ』による効果の変動という部分から目を付けられ現代の即発術式の基となった……と僕は教科書に書かれていた事を思い出す。
つまり斬るなど壊すなどすれば術は不発する。
僕はそれを狙ったのだ。
刃が魔法円に亀裂を走らせる。
少しの抵抗なく魔法円は切り裂かれ、光が消失した。
つまりは術の不発。
「へぇ」
アレイシアが感心したように言う。
その顔にはまだまだ余裕が張り付いている。
小手調べに過ぎないという事だろう。
僕は構わずアレイシアに向かって走る。
全力でいかなければやられる。
マリーも見かけ以上にダメージがあるらしくあまり期待できない。
始めから僕は追い詰められていた。
「じゃあ次いくよ」
アレイシアが虚空に手を翳した。
すると再び魔法円が複数展開される。
先ほどの魔法円は赤かったが今回は青。
色によって属性が決まっているのならばおそらくくるのは水に類する術だ。
僕は天満月を構える。
そして今にも術を発動せんとばかりに発光する魔法円向けて刀を振るった。
今度も魔法円はあっけなく掻き消える。
いける、と手応えを感じた僕は更に一歩を踏み出しアレイシアとの距離を詰めた。
しかしまだ彼女は肩から力を抜いたまま立っている。
まるで防御の必要すらないと言うかのように。
罠に掛かる獲物を待っているかのような不敵な笑み。
しかし魔法円は破壊した。
ならばあれは虚仮威しだろうか。
僕は構わず走る。
しかし動けなかった。
「!?」
まるで強力な接着剤で固められたように少しも動かない。
僕は足を見る。
何時の間にか足首まで氷が張り付いていた。
教会の床一面にそれは広がっている。
「さっき破壊した筈……どうして!?」
「簡単なトリックだよ。あれは単なるブラフ。本命はアンタが油断した時にこっそりと発動したの」
見ると彼女の足元に大きな青い魔法円が広がっていた。
面倒な事を、と僕は歯噛みする。
しかしまずはこの氷をどうするかだ。
迂闊に動かせば足が折れる。
僕はそう判断すると影物質を操り、氷の除去をする。
しかし彼女も悠長にその隙を見逃す訳がない。
アレイシアは楽しそうに笑いながら氷の塊を弾丸のように撃ってくる。
合計8発。
全てがバスケットボールサイズ。
海外では嵐によって巨大な雹が落下するというニュースを見たが、その際に出てきたもの以上だ。
こんなものを喰らえば骨が折れるでは済まないだろう。
僕はひとまず氷の除去は後回しにして氷の弾丸の対処を開始する。
弾は大きいサイズなので攻撃を当てるのは簡単だ。
僕は天満月を振り回し、バッサバッサと氷の弾丸を真っ二つにしていき、その軌道を変えていく。
後方から壁が壊れる音が聴こえたがマリーには目を瞑ってもらいたい。
弁償もお説教も勘弁だ。
そして弾切れになったと同時に影物質を足に纏わせ、一気に氷を削る。
足を引き抜き、ようやく動けるようになった。
だがアレイシアもそれを見越して更に追撃を開始する。
今度は氷ではなく液状の水を繰り出す。
不定形に畝ねるそれは鞭のように僕に襲い掛かる。
落ちる水滴はいつか岩を穿つし、ウォーターカッターなどが工業用に使われているように水は時に強力な武器となる。
単なる金属の刃よりもある意味タチが悪いかもしれない。
僕は胸を目掛けて飛んできたそれを天満月で払いどうにか避ける。
飛沫が散り、ステンドグラスの虹色の光を反射して煌めく。
だがそれだけでは終わらない。
形を失い、落下していくだけだと思われていた水は集まり合い、巨大な水の塊となる。
それは意思を持つかのように重力を無視して僕の顔面に飛びかかった。
窒息させる気か!?
僕は慌てて首を動かしそれを回避する。
しかし水は執拗に僕の顔を追いかける。
このままじゃどうにもならない。
僕は握っていた天満月でそれを叩き切ると影物質で押しつぶす。
これでならば動けない筈だ。
飛沫が勢い良く舞い上がる。
そしてその飛沫の向こうには水の槍が待ち受けていた。
合計10本。
一瞬の隙も与えない。
僕は影物質を刃に纏わせ、面積を多く確保するとそれを振るって水槍を叩き落す。
一瞬で槍は形を崩し、単なる液体になると床に落ちて水溜りを作った。
これで更に攻撃が来たらたまらない。
僕は影物質の弾丸を形作り、魔法円向けて撃ちだした。
発射される目前だった槍はそれであっけなく砕かれ、散らばっていく。
「じゃあ次はノームの力でも借りるかな」
アレイシアはなんでもないように言った。
ノームという事は地属性。
そこから推測できる攻撃は地震や岩を使ったものか。
魔法円は教会の床を埋め尽くすように展開されている。
これじゃ全ては防げない。
僕は自分の足元に天満月を突き刺し、魔法円を破壊する。
一瞬遅れて術が発動し、地震が起きる。
これだけか?
思ったが違った。
地震によって教会の床に亀裂が走り、そこから岩が隆起したのだ。
先端は鋭く尖り、それは長椅子を貫き、食い破っていく。
僕は魔法円を破壊していたのでどうにか喰らう事はなかったもののこれでは身動きが取れない。
この杭の向こうではアレイシアが新たな術を発動しているかもしれない。
そう考えると冷静には居られない。
僕は刀から大剣となった天満月を横薙ぎに大きく振るう。
高く聳える杭はそれだけで切断され、倒壊していく。
生まれた瓦礫や岩塊は落下しながらその大きさを縮めていき、やがて消滅した。
視界が開く。
するともう空気の刃が襲いかかっていた。
塵などの不純物が巻き込まれて微かに見えたのが救いだった。
無色透明だったら僕は何も気づかずに真っ二つになっていた事だろう。
僕は思わず息を飲む。
恐るべき速度で飛んでくるそれを回避するのは不可能だろう。
床に、壁に、天井に、深い溝を刻んでいき、僕を喰おうと牙を剥くそれに僕は防御の姿勢を取る。
風圧と衝撃、爆音。
風が吹き荒び、瓦礫が舞い上がる。
僕は天満月を両手で握りながら歯を食いしばった。
あまりにも強すぎる攻撃。
少しでも気を抜くと吹き飛ばされそうだ。
僕は影物質で身体を固定し、なんとか持ちこたえる。
そうして風の刃はやがてその力を失っていき、掻き消えていく。
身体が前のめりになるがどうにか踏みとどまた。
息を荒げて前を睨む。
「四大元素使ってみたけどやるねぇ。これならもう少し楽しめるかな?」
「……次は何をする気だ?」
「呪術、降霊、蘇生、仙術、幻術、占術、ルーン、オガム、セイズ、ガンド、カバラ、錬金術……どれが良い?」
僕は答えない。
そんな僕の態度にアレイシアは肩を竦める。
「それじゃつまらないよね。手品はタネがわからないから面白い」
そしてアレイシアが何かを紡ぐ。
文章というよりも何かの名前を呼んでいるような印象だ。
その声が木霊していく。
すると地面に赤黒い魔法円が浮かび上がる。
今までとは違って1つだけだ。
そこから何かが蠢く。
「それは……!」
マリーの声が震える。
僕は彼女の顔を見るがマリーの目はただ逃げろ、と伝えるのみ。
何かが現れる、僕は本能でそう感じ取る。
墓場から死体が出てくるような恐怖。
このままでは何か重大な事が起きる、と頭ではわかっているのだが動けない。
何をどうすればこれを解決できるのかすらわからない。
僕は呆然と棒立ちになる。
「――『継接ぎの狂天使』」
アレイシアが日本語で名前を告げたと同時、魔法円から蠢いていた何かが飛び出す。
いや、飛び出すというよりも這い出てきた、というのが正しいかもしれない。
その姿を僕は見詰める。
暗いのでよくわからないが明らかに人間離れしたシルエットだった。
多分見てはいけない類のものだろう。
だけど僕の視線はそこから離れない。
見たくないのに身体が言う事を聞かない。
それはゆっくりと立ち上がり、こちらに顔を向けた。
やがて光に照らされて徐々にその姿が判明していく。
僕は思わず息を飲んだ。
それは壮絶な姿をしていた。
一言で言うのならゾンビだろうか。
腐敗した死体、という表現が相応しい。
あれが何なのかわからないがこの教会とは程遠い存在であるのは誰が見てもわかる。
マリーの顔も青ざめているように見えた。
この中で平然としているのはアレイシアのみ。
彼女の従者のごとく隣に立つ死体は体格から判断するに男性だろうか。
骨と皮しか無いのか、と思う程細い身体の全身に縫い目があり、肌には傷が無数に走って、血の気がなく青白い。
元は白かったであろう背中の翼は折れ、骨格が剥き出しになっている。
全身の力が抜けていて立っているのが不思議なくらいだった。
顔にはベルトが巻かれて何もわからない。
髪はくすんだ金色。
そしてベルトの間から僅かに覗く口は半開きで、そこから白っぽい紫色の舌がだらりとはみ出ている。
僕はあまりの惨状に手で口を覆う。
死臭が凄まじい。
アレイシアはこれを天使だと言ったが僕には到底そうは思えない。
もっと別の何か。
限りなく天使に近い何か。
または天使と呼ばれたもの。
僕は一歩も動けない。
金縛りに掛かったように指一本も動かせなかった。
「そろそろ終わりにしよっか」
アレイシアが言う。
それは死刑宣告のようなものだ。
絶対に覆せない決定事項。
僕の背筋が凍り付く。
恐怖によって何も言えない。
まるで心臓を直接鷲掴みにされているような感じだった。
そうして天使がゆっくりと右腕を持ち上げる。
爪の剥がれた指先が僕の顔に近付く。
逃げたい。
あんな手に触られたくない。
しかし僕の身体は少しも動かなかった。
僕は首を振る。
やめろ、と言った。
だけどそれは声にならなかった。
手によって僕の顔が覆われる。
そして僕の視界は闇となった。
意識もやがて落ちていく。
僕は僅かに残っている光に手を伸ばした。
しかしそれは届かずやがて消えていく。
僕は闇に沈んでいった。