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妖術夢想  作者: 四畳半
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第4章「呪われた赤い月」

 教会を出た頃にはもう真っ暗だった。

 黒い空に大きな満月だけがぼんやりと浮かび上がっている。

 しかし何よりも不気味なのはその月が赤い色をしていた事だ。

 まるで血のごとき緋色。

 見るものの獣としての本能に囁きかけるような危険な色。

 朧げながらその色によって月は冴えているようにも映った。

 周囲は閑静な住宅街で、比較的木々が多い。

 確かこの近くには大きな公園があったと思う。

 休日には多くの家族連れで賑わっているという話だがこの時間帯だと早くも夏休みに突入した学生達がおかしなテンションになって花火大会とかしているかもしれない。

 昔参加したやつではロケット花火の集中砲火を浴びたという思い出があるので僕としてはこういう花火に良いイメージがない。

 あと線香花火での火傷。

 あれ程の熱と痛みを感じた事は無く、火傷した皮膚が焦げていたのがトラウマだ。

 もっともあれはまだ幼く、無垢な子供だった僕が興味本位でキャッチしたのが発端だった訳だが。

 そうした失敗を積むことで成長するわけだがだからといって過去の失敗を肯定する気にはならない。

 アロエによって治療は早かったとはいえあの苦しみは壮絶なものだったと昨日のことのように覚えている。

「……」

 そうして僕は何かただならぬ気配を感じ取った。

 それは背後からだった。

 まるで猛獣と出くわしてしまったかのような危機感。

 僕の鼓動が早くなる。

 身体が一瞬強張り、動きが緩慢になる。

 僕はゆっくりと首を回し、視界に『それ』を入れる。

 『それ』は少女の姿をしていた。

 長い銀髪は逆立ち、ゆらゆらと生物じみた動きで揺れている。

 獣のような、というより獣の唸り声が聞こえた。

 それは間違いなく彼女の口からでたもの。

 それが僕の動きを止める。

 彼女の顔に浮かぶ赤い眼光。

 ナイフのような鋭利さを持ったそれが僕の思考を停止させようとする。

 ようやく僕はゆっくりと後退る。

 歯の間から息が出て、変な声が響く。

 対する『獣』の反応は単純だった。

 轟音。

 唐突に僕のすぐ右隣にあった垣根が炸裂した。

 火花が刹那、僕の視界を明るく照らす。

 そうして吹き飛ばされた瓦礫のいくつかが僕目掛けて飛んでくる。

 遠くからならともかくこんな至近距離では回避できる筈がない。

 散弾と化したそれが僕の全身を叩く。

 砂利ならばまだマシだがソフトボールの球程の大きさを持ったそれは恐るべき破壊力を秘めていた。

 僕はあっけなく吹き飛ばされ、無様にコンクリートで舗装された地面を転がった。

 服や肌が粗くザラついた地面によって削られる。

 痛みよりも熱さがあった。

 僕は擦過傷の痛みとと轟音による耳鳴りに顔を顰めながら、渾身の力で顔を持ち上げた。

 灰色の粉塵の向こうには獣のシルエット。

 あの満月をそのまま持ってきたかのような赤い二つの目が僕を補足する。

 月の光に照らされた銀髪は昏い、赤い光を反射している。

 まるで返り血のようだ。

 獣はゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

 僕は慌ててそこから立ち上がった。

 僅かに遅れて獣が腕を振るう。

 僕は何も考えずただ反射で横に飛び出す。

 背後から凄まじい衝撃を感じた。

 僕はゆっくりと振り返る。

 そこには粉々に崩壊した垣から腕を抜く獣の姿。

 その腕には掠り傷ひとつすらない。

 一体どんなバケモノだよ、と僕は戦慄した。

 再生能力が高いのかそれとも皮膚が見かけ以上に頑丈なのか知らないがどちらにしろ脅威だ。

 ならば能力を、と僕は意識を集中させる。

 こうすれば右腕に宿した『天満月あまみつき』が出現する筈だ。

 倒すにしないまでも取り敢えず戦闘不能にさせれば良い。

 だが事態はうまく好転しなかった。

 獣が一直線に飛び出し、僕に伸し掛ってきたのだ。

 僕は再び地面に叩き付けられる。

 街路樹の光が伸びたように見える。

 僕は腕を我武者羅に振り回し、獣を払おうとするが勿論そんなもので対抗できる訳がない。

 獣は簡単に僕を組み伏せると左手で僕の首を握り呼吸を強制的に止める。

 僕の背筋が凍る。

 焦りと恐怖で上手く刀を出す事ができない。

 そして何よりも身体に力が入らないのが恐ろしい。

 これほどの騒ぎになれば誰か駆けつけそうなものだが一向に誰も来なかった。

 そうしてようやく僕はこの辺りの住宅街は空家が多いということを思い出す。

 僕の思考に空白が広がっていく。

 このままでは確実に死ぬ。

 僕は必死に腕に意識を集中させる。

 しかし僕の行動に気付いたらしい獣は腕に一層力を込めた。

 僕の細い首に爪が食い込み、熱い血が滴る。

 気管が歪み、中で触れ合っているのがわかった。

 声にならない声をこぼしながら僕は獣の目を睨みつける。

 獣の目は瞳孔が見開かれ、血走っているのが見て取れた。

 僕の思考がより一層縛り付けられる。

 冷静になれ……、恐れるな、まだ僕は生きている。

 僕は残っている意識を右手に集めた。

 最早刀じゃなくても良い、せめて影だけでも構わない。

 赤い満月というのはあらゆる存在に強い影響をあたえる。

 つまり強い力があり過ぎて暴走してしまうのだ。

 例えば大きすぎる電流を流した機械が制御しきれずに壊れてしまうように。

 しかも僕の意識は正常とはいえない。

 下手すると大きな被害を与えてしまいかねないがこの際、そんな悠長なことは言っていられない。

 そうして僕の右手の指先から黒い影が実体化し、ゆっくりと伸びる。

 僕は殆ど何も考えずにそれを掴み取ると刀の形に変えた。

 そうしてそれを獣に向けて振るう。

 しかし獣の反応は迅速だった。

 危険を察知した獣は僕の元から飛び上がり、その攻撃を簡単に躱す。

 しかし切っ先は僅かに獣の腕を掠めた。

 血が僕の頬に掛かる。

 地面に着地した獣の傷は既に治っており、痕すら無かった。

 しかしこれで動けるようになった。

 僕は勢い良く立ち上がると空亡としての力を開放する。

 五感が飛躍的に向上するのを実感した。

 まるで世界がまるごと変わるようなイメージ。

 獣は唸り、僕に飛び掛かる。

 赤い月光を切り裂くように獣はこちらに突っ込んできた。

 距離は一瞬で詰められる。

 対する僕は影の刃を延長させ、リーチを確保した。

 獣は右手を振るう。

 鋭利な爪は空気を掻き分け、僕の顔面向けて放たれる。

 僕はそれを紙一重ともいえる至近距離で回避すると、影で生み出した槍を獣に突き出す。

 しかし目視が難しい程の速さで放たれたその攻撃までも獣はたやすく避ける。

 僕は舌打ちをすると地面を蹴り、一気に後ろへ下がった。

 まずは体勢を立て直して再び攻撃を繰り出すのが賢明だと判断したからだ。

 対する獣hの対応は簡単だった。

 彼女は足元の瓦礫を掴みあげると、肘を思い切り引き、それを投げ放った。

 空気が砕ける音。

 獣の手から離れた瓦礫は僕の鳩尾に向かって一直線に飛ぶ。

 正確すぎて寧ろ防御は簡単だ。

 僕は握っている槍でその瓦礫をはたき落とす。

 その瓦礫はあっけなく粉々に砕けた。

 発生した衝撃は瓦礫を粉塵に変え、その粉塵は灰色のカーテンとなって視界を遮る。

 迂闊だった。

 僕はすぐさま立っていた地点から横合いに転がり、身を屈める。

 どこから来る?

 僕は目を細めて状況を確認する。

 視覚に頼らずとも残っている感覚を限界まで研ぎ澄ませれば大体の様子は把握できるのでこの粉塵は大した問題にはならない。

 獣はどこだ……

 だが、僕が察知した気配は地上ではなく、上からのものだった。

 そんな馬鹿な。

 僕は慌てて見上げる。

 僕の視界に飛び込んできたのはこちらに向かって落下する獣だった。

 獣は犬歯を剥き出しにして僕に襲い掛かる。

 重力に従ってこちらに向かってくる相手に対抗しても良くて相打ちにしかならない。

 僕は足元から影を発生させ、爆発的速度をもってそこから移動する。

 しかしわざわざ影を使ったのにはもう1つ理由があった。

 つまりはトラップ。

 とてつもないスピードで形を変え、巨大化する影は無数の槍に変化する。

 それを避けるのは至難の業だろう。

 が、僕の予想に反して獣は片足を槍と槍の間にどうしても生まれる安全地帯に突っ込ませ、その足場を利用して軌道を変えてそれも回避した。

 衝撃で槍はたわみ、折れ曲がっていく。

 かなりの耐久度を誇る影物質だがやはりこの状態だと脆い。

 僕は槍の球を生み出し、それを獣に向けて投げつける。

 黒い球は瞬時に無数の突起を生やして、それを伸ばし、蜘蛛の巣のように広がって獣の行動を妨害した。

 突起の一本は獣の肩を貫き、壁に縫い付ける。

 獣が痛みに呻いた。

 僕はそのチャンスを見逃さず、影の刀を生み出すと獣に飛び掛かる。

 ここで決めなければやられる。

 僕は刀の刃を潰すとそれを彼女の首筋に叩き込もうと振り下ろした。

 しかし彼女は一筋縄ではいかなかった。

 ぶち

 ごきゅ

 ぶしゅ

 ぎち……

 僕は思わず立ち止まり、獣を凝視した。

 彼女の腕がブラブラと不自然に揺れていた。

 まるで皮一枚で繋がっているかのように。

 理解するのに時間が掛かった。

 獣は縫い止められた腕を思い切り振り上げ、槍から無理矢理腕を裂く事で自由を得たのだ。

 血が吹き出て、月光に反射して煌めく。

 しかしその大きな傷はみるみるうちに再生し、元通りになる。

 あれ程の重傷にもかかわらずこの再生速度。

 そうして獣は動揺している僕に蹴りを放った。

 僕は猛烈な吐き気を感じながら吹き飛び、民家の壁に衝突する。

 呼吸が一瞬止まった。

 僕はぐらぐらと揺らぐ視界の中、獣を見据える。

 獣は眼光を迸らせると、地面を踏みつけてこちらに飛んできた。

 風圧を感じる。

 獣は既に目前にまで居た。

 僕は痛みに苛まれる身体を無理矢理に動かして影の刀による防御姿勢を取る。

 しかしそんなものはいとも容易く破られた。

 影の剣が僕の手を離れ、弧を描きながら回転し、地面に突き刺さる。

 そして獣は僕の首を掴むと片手にもかかわらず持ち上げてしまった。

 足が地面から離れる。

 なんて怪力だろうか。

 それでも僕は諦めず、天満月の召喚を試みる。

 青白く光る切っ先が僅かに見えた。

 早く出ろ……!

 僕は必死に念じた。

 更に刃は出現し、半分近くまでになった。

 僕は首を絞められながらも叫び、天満月を生み出す。

 そして遂に柄が見えた。

 僕は眩く発光するそれを掴み、目の前に居る獣に振りかざそうと肩を持ち上げた。

 しかしそれは叶わなかった。

 唐突に熱を感じた。

 それは天満月からのものだった。

 まるで焼けた鉄板に触れているかのような。

 僕は霞む目でそれを見た。

 青白く光っていた筈の天満月だったが、それは何時の間にか空に浮かぶ満月と同じ赤色に染まっていた。

 そうして右手を見る。

 平均よりも細いであろう腕には漫画みたいに血管が何本も浮き出て今にもはち切れそうだった。

 一体何が。

 僕がその疑問を抱くよりも早くそれは起きた。

 最初に感じたのは爆発するイメージ。

 続いて血飛沫。

 最後に激痛。

 僕は目を見開き、それを凝視した。

 肌がナイフか何かで切り開いたかのようにざっくりと切れ目が何本も入り、そこからほんの僅かに見える筋肉繊維と脂肪と骨の間から規則的に吹き出る赤。

 赤く光っている天満月は僕の手を離れて落下し、空気に溶けるかのように消失していく。

 幸いにも腕はちゃんと繋がっているが指は一本も動かなかった。

 そうして僕はぼやける頭でなんとなく理由がわかった。

 過剰に展開された魔力の暴走。

 天満月は魔力の力を制御し、安定した出力をするという効果があるが、それは普段の僕1人が使用した場合を想定したものだ。

 今は理由はわからないが赤い満月という魔力が過剰にある時なのだ。

 そんな時に使ってしまえば天満月は莫大な魔力を制御しきれずに自壊する。

 僕はその危険を考えずに天満月を使ってしまった。

 獣が残虐に口を歪めた。

 くそ、こんなところで死んでたまるか……!

 僕は必死の形相で獣を睨みつける。

 しかし獣はその表情を変えることはない。

 ただ肉食動物のごとく余裕で必殺の腕を振り上げる。

 しかし首を掴まれて中に浮かされ、腕も使い物にならなくなった僕には抵抗する手段はない。

 影物質もまともに扱えなくなってしまったからにはもう絶望的だった。

 獣が愉悦の鳴き声をあげる。

 少女のものとは到底思えないその声は僕の思考を麻痺させた。

 時間がスローに動く。

 爪が月の光に反射して妖しく煌めく。

 僕にはどうする事もできない。

 抵抗すら不可能。

 ならばあとはもう速やかに死ねる事を祈るしか――

 

 獣の腕は躊躇なく振るわれた。

 一切の迷いがない、一撃必殺の技。

 ただ無造作に振るうだけのそれは人間には決して繰り出せないであろう速さと破壊力を秘めている。

 この華奢な少女がどうやってこんな力を出せるのか知らないが、これを僕が喰らったら即死するのはほぼ間違いない。

 どうやら僕はここで死んでしまうようだ。

 勿論死にたくない。

 こんな僕にだって未練の1つや二つくらいはある。

 こんな理不尽な目に遭って腹が立たない訳がない。

 だけどどうしようもない。

 奇跡でも起きない限り僕は死ぬ。

 そして奇跡というのはそうそう起きたりしない。

 こんな場面で僕が生き残るなどかなり低い確立だ。

 そんな奇跡が成立する程この世界は簡単にはできていないだろう。

 僕の思考を支配するのは諦観。

 ほんの僅かながら希望は持っているが願うだけではどうしようもない。

 もしかしたらこれが運命なのか。

 ならば僕はその神を呪うだろう。

 僕を殺しやがって。

 お前は一体何様のつもりだと。

 まぁ未練を持っているのなら幽霊としてこの世界に留まってしまうかもしれないが、下手したら悪霊化するので嫌だ。

 僕は唇を噛む。

 獣の腕はもう目前にまで迫っていた。

 僅かな風圧を感じる。

 静電気じみた鋭い痛み。

 それは僕の死のカウントダウン。

 タイムリミットはもう刹那しか残っていない。

 僕は目を瞑ることすら叶わずただ呆然とその凶器を見詰めていた。

 その手はゆっくりと僕の顔面を吹き飛ばそうと近付いてくる。

 しかし。

 何かが起きてその攻撃は止められた。

 獣自身が止めたのではない。

 何者かが生み出した見えない壁による妨害。

 それが僕の生存を保証した。

 獣はそれを実行した者を睨みつける。

 小柄な少女だった。

 黒い法衣を纏い、右手には長い錫杖しゃくじょうを握っている。

 あのシャクシャクと鳴る金属の杖だ。

 西遊記に出てくる三蔵法師が持っている杖。

 しかし目深に被られた黒装束によって顔はわからない。

 僕が性別を判断したのはその体型からだ。

 女性で、しかも子供が仏門に入っているというのは珍しいが何よりもどうしてこんなタイミングで来てしまったのか。

 いつの間に来たんだろう、という疑問よりも先に僕は掠れた叫ぶ。

「ここに来ちゃ駄目だ……僕を放って逃げろ……ッ!」

 しかし少女は僕の忠告を無視し、僕たちの方へと歩いてきた。

 それに迷いはない。

 錫杖の上に付いた幾つもの遊環ゆかんが互いを叩き合い、甲高い音色を響かせる。

 聞く者に安堵をもたらす音色は僕の抱いていた絶望感を払拭していく。

 まるで寒い外から暖かい部屋の中に入ったような気分だ。

 この音色にはあらゆる害から僧の身を守る効果があると言う。

 それは悪性の拒絶を意味する。

 僕の心配に反して獣は髪の毛を逆立て、ゆっくりと後退る。

 まるで何かに怯えるような、そんな姿だった。

 あれ程の脅威がこれだけで弱体化している。

 その現実に僕は呆気にとられた。

 首を握っていた獣の手も力が抜け、僕は自由を得た。

 どさりとうつ伏せに倒れこむが、力は入らず、立ち上がる事はできない。

 それだけ消耗が激しいという事か。

 腕の傷は治っているが、血が足りない。

 軽い貧血のような状態で僕は這いながら獣との距離を確保する。

 獣はそんな僕に目をくれず、ただ尼を睨んだ。

 少女はそれがどうした、とでも言わんばかりの態度を崩さず近づいていく。

 寧ろ獣の方が明らかに恐怖していた。

 叱られる事に怯える子供のように。

「|仏説摩訶般若波羅蜜多心経ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう……」

 少女は懐から数珠じゅずを取り出すと滑らかに般若心経を唱える。

 霊格を持った言葉が紡がれる度に獣は呻き、頭をい掻き毟る。

 苦しみ、痛みに悶える悲鳴だ。

 その声はどこまでも響き、空気を震わせる。

 獣の身体から何か黒い瘴気が流れ出す。

「ふむ……呪いは強いですね。しかし正体が判明してしまえば突破するのは容易い……」

 般若心経を読み終えた尼は手を構えた。

 指を立てて、刀のような形にする。

 そうして彼女は親指と人差し指を伸ばし、内側に握った。

 仏像の手の仕草である印契いんぎょう、それに組み合わせる九字護身法の『臨』。

 本で読んだ俄程度の知識しか持っていないが、知っている。

 印名は普賢三摩耶印ふげんさんまやいん。神格は天照大神あまてらすおおかみ、仏格は毘沙門天びしゃもんてん

りん

 印名は大金剛輪印だいこんごうりんいん。神格は八幡神やはたのかみ。仏格は十一面観音じゅういちめんかんのん

ぴょう

 印名は外獅子印げじしいん。神格は春日大明神かすがだいみょうじん。仏格は如意輪観音にょいりんかんのん

とう

 印名は内獅子印ないじしいん 。神格は加茂大明神かもだいみょうじん。仏格は不動明王ふどうみょうおう

しゃ

 印名は外縛印げばくいん。神格は稲荷大明神いなりだいみょうじん。仏格は愛染明王あいぜんみょうおう

かい

 印名は内縛印ないばくいん 。神格は住吉大明神すみよしだいみょうじん。仏格は聖観音しょうかんのん

じん

 印名は智拳印ちけんいん 。神格は丹生大明神にうだいみょうじん。仏格は阿弥陀如来あみだにょらい

れつ

 印名は日輪印にちりんいん。神格は日天子にちてんし。仏格は弥勒菩薩みろくぼさつ

ざい

 印名は隠形印おんぎょういん。神格は摩利支天まりしてん。仏格は文殊菩薩もんじゅぼさつ

ぜん

 尼が全ての九字を切る。

 すると獣の身体が一瞬固まる。

 そして力が抜け、膝をつくと前のめりに倒れた。

 徐々に漏れていた黒い瘴気だが、彼女が倒れてから急速に溢れ出す。

 それは煙というよりも墨汁の濁流のようにも見えた。

「莫大な負の力……苦しみから放たなければいけません」

 少女は両手を合わせ、術を紡ぐ。

 経文の一種だろうが僕にはわからない。

 しかし黒い瘴気は明確に揺らいだ。

 それは渦を巻き、何かを形作っていく。

 そうしてようやく僕はそれが何なのか理解した。

 頭が大きく、四肢が極めて小さなその身体は胎児そのもの。

 黒い退治はその大きな目玉をギョロリと動かし、僕たちを睨んだ。

 そして口がゆっくりと開かれる。

 ぽっかりと開いた闇。

 そこから爆発じみた鳴き声が空気を吹き飛ばした。

 あまりの音量に僕は思わず耳を塞ぐ。

 鼓膜が破れるかと思った。

 しかし尼は何食わぬ顔で霊言を紡ぎ続ける。

本地仏ほんじぶつ普賢菩薩ふげんぼさつ……その慈悲と理智を顕して救われぬ者を救いたまえ、『真達羅大将しんだらたいしょう』」

 尼が唱えた瞬間、虚空に亀裂が走る。

 その細い亀裂から金色の光が漏れる。

 光は住宅街を照らし、瘴気をの黒色を更に弱めていく。

 そして亀裂はゆっくりと広がっていき、そこから何かが出現した。

 六牙を生やした白い象、その背中には蓮華座が乗せられており、その上に結跏趺坐けっかふざし、合掌している男が居た。

 全てを見通すかのような鋭さとあらゆる悲劇から人々を救う慈悲を併せ持った眼差し。

 彫りの深い顔であり、柔和な表情を浮かべている。

『――久しいな、解脱して以降というものの現世に呼ばれる事が殆ど無かったもので最盛期程の力には遠く及ばないぞ』

「わざわざ降臨していただき感謝します。どうかそのお力であの哀れな魂を救ってください」

『――承知した』

 そして仏、真達羅大将はゆっくりと立ち上がり、両手を横に突き出した。

 全身が眩く光り、変化が生じる。

 身体には屈強な甲冑が装着され、左手には手持ちの鐘である仏具・五鈷鈴ごこれいが、右手には長い柄の上下に刃が付いた仏具である五鈷杵ごこしょが握られる。

 白い光は光量を増し、金色に変わっていく。

 あらゆる闇を拭い去る光は胎児を照らす。

『――怯えなくて良い。苦しみから救い出そう』

 凛とした声はどこまでも伝播する。

 巨大な胎児は身体をくねらせた。

 未知に対する恐怖のようにも見える。

 それでも真達羅大将は胎児に優しく語りかけた。

 するといつしか胎児の鳴き声がピタリと収まった。

 そして胎児の身体に幾つも亀裂が走っていく。

 そこから現れたのは幾つもの小さな光。

 胎児の身体は崩れていき、空気に溶けて消えていく。

 そうして光は天に向かって飛翔していった。

『――これで犠牲となった赤子達は救われただろう……これで良いかな?』

「はい、ありがとうございました」

『――構わないさ。それではそろそろ戻るとしよう』

 真達羅大将は武装を解除し、普賢菩薩としての姿に戻る。

 そうして再び蓮華座の上に座ると象を操り、空間の狭間に戻っていく。

 その姿が消えると亀裂はすぐに閉じた。

 静寂が住宅街を包む。

「ふぅ……間に合って良かったです」

「ありがとう、君のお陰で助かった……」

 貧血の症状も治ってきた僕は頑張って立ち上がり、少女に頭を下げる。

「礼には及びません。もう少し早ければ被害も少なく済んだのではとこちらが反省していますよ……夜行君」

「どうして僕の名前を……」

 僕の頭に疑問符が浮かぶがすぐにその答えは判明した。

 尼はフードみたいな法衣を脱ぎ、その顔を露にする。

 長い黒髪に整った顔立ち。

 見覚えがある。

 というか完全に知り合いだった。

「……って蓮華じゃないか」

「こんばんは」

 命の恩人はクラスメートの法告蓮華のりつぎれんげだった。

 学級委員長みたいなポジションについており、成績優秀、品行方正な人物で有名だが個人的には祀と丸かぶりな気がしてならない。

 そして何より変わっているのが寺に勤めていると言う事だ。

 確か名前は蓮真寺だったか。

 真言、天台、日蓮、浄土……あらゆる宗派を広く浅く扱っているという事で本家からはあまり良い目で見られていないようだが当の本人はどこ吹く風だった。

 寺の場所は知らないがもしかしたらここから近いのかもしれない。

 外から大きな音が聞こえたので気になって来てみたら驚きました、とは本人の談。

「……そうですか、祀さんもこの現象について調べていると」

「そう。コトリバコっていう呪いのアイテムも破壊した筈なんだけど……」

 僕は一から事情を説明した。

 どうやら蓮華自身も独自で調査していたらしい。

「もしかしたら残留するタイプかもしれませんね。呪いは私よりも祀りさんの方が相手にするのは得意でしょうが協力しましょう」

 でもまずは……、と彼女は続けた。

 視線の先にはうつ伏せに倒れる先ほど僕を襲った少女。

 黒い胎児に操られていたらしいが被害者の僕としてはちょっと怖い。

 僕達は慎重に少女に近付く。

 暗いし、興奮していたのでよくわからなかったが僕たちと同年代くらいだ。

 僕がゆっくりと身体を抱き上げると、それが誰なのか判明した。

「……ルーじゃないか!?」

 驚いた事に彼女もクラスメイトだった。

 ルー・ウェアルフ。

 眼鏡を掛けた大人しい娘で、争いを好むような人物ではない筈だ。

 本人もワーウルフだと伝えていたがせいぜい狼耳が生えてほんの少し気性が荒くなる程度だったが、人を傷つけるような事は無かった。

 なのにどうしてこんな事が起きたんだ。

「『呪い』でしょうね」

 目を閉じたままのルーの顔を覗き込む蓮華はポツリとそんな事を言った。

「でもあれは完全に破壊した筈……」

「さっきも言いましたが残留する性質をもったものですと本体を破壊しても供給が途絶えるというだけで呪いそのものが消える訳ではありません。コトリバコという本体とエネルギー源である赤子達も成仏しているのでこれ以上被害が大きくなる事もありません」

「ならどうしていきなりルーは凶暴化したんだ?」

「ワーウルフ……人狼と呼ばれる存在というのはどうやって生まれると思います?」

「人狼から生まれるか……呪いの影響で」

「その通りです」

「でもそれになんの関係が? やっぱり赤い月の影響を受けて」

「この赤い月はルーさんの半径3kmにしか届いていません」

「月の光がどうしてそんな小さな範囲しか……」

「月の光自体はちゃんとどこまでも照らしています。つまりルーさんの真上に常に魔力フィルター的なものが存在しているという事です」

「という事はこのコトリバコの呪いはルーを中心にして動いていると……?」

「そういう事ですね。詳しい事は彼女に直接訊いてみないとわかりませんが」

 僕はルーの顔を見詰める。

 その顔は悪夢を見ているかのように苦しげに歪んでいる。

 あまりにもわからない事が多すぎる。

 僕は空を見上げた。

 彼女はこれからずっとあの月しか見えないのだろうか。

 

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