甘い食事
ちょっとアレな表現も入っていますが、まったくそういったことはありません。ただ、食事をしているだけです。
それは、マンションの一室に居た。
明かりは一切ついておらず、住民は寝入っている。
寝入っている住民、柔らかいハニーブロンドに純白の肌、瞳はまぶたに隠され見えないが、桜色の唇は幸せそうに微笑んでいる。
それは、傍らの男性がそうさせている。
至福の一時を女性に与えて、眠り続ける彼女の髪を優しくすいている。
まるで、我が子にするように優しく髪を解きながら、男は窓の外の月を眺めていた。月は半分かけ、夜の街の中で、薄い存在感しか纏っていないが、彼の眼には確かに映り込んでいる。
傍らで眠る、麗しくも妖艶な女性はいっさいの服を身に着けておらず、シーツも床に落ちたまま、惜しげもなく裸体をさらしている。しかし、男は一切見向きもしない。
彼の眼は月に吸い込まれたまま。
その手だけを、優しく往復させている。
裸体を密着させている女性。
上半身にシャツを引っかけただけの男性。
その間には、清々しい空気しかない。
なめかましい雰囲気など一切存在していない。それこそ、本当の親子のような親愛があるのみだ。
「ぅんっ」
女性がむずがるように男の腰にさらに密着させる。
その豊満な胸を余すところなく男の太股に押し付けようと、男の腰に柔らかい頬を預けようと。男は何もしない。そのことを、女は知っている。だから、安心して寝ていられるのだ。
いや、だからこそ、不安で眠りが浅くなる。
「・・・いくの?」
眠たげな声で、月を見上げる男に話しかける。
「ああ。いっつもごめんね」
「それは、いいのだけれど・・・」
まだ、居てほしい。
言葉に出せないことを、体で表す。
たいていの男なら、絶対に離さない状況だろう。誘っているとしかとられない態度をさっきからとっているにもかかわらず、男は何もしない。
そういったあれこれが、この男に通じないことを女は知っている。
しかし、理解しているけれど、納得はしているけれど。寂しい気持ちは、悲しい気持ちは消えるものではない。
恋焦がれる乙女の年齢ではない。いくら、美しかろうと年齢はそれ相応に重ねている。だから、引き際はわきまえている、つもりだった。
それが、この男の前では無様にいつまでも足搔いてしまう。
まだ、行かないで。
此処に居て。
「いつもありがとう。美味しかったよ」
男はそう言って、女性に目を向けて髪を優しくすく。
月を見ていない男の眼はどこまでも優しい。月を見ている目と同じだ。それは、嬉しい事だ。喜ばしいことのはずだ。
でも、一人の女性としては見ていない。
出会ったときからそうだった。一度として、女として見てくれたことがない。
魅力がないわけじゃない。
好みじゃないわけじゃない。
そうでなければ、わざわざ足を運んでこないだろう。
わざわざ食事をしに来たりはしないだろう。
「私は、おいしい?」
「美味しいよ。ついつい、来てしまうほどに。ああ。君以上がいないから、だから、来てしまうんだ」
美味しいから。来てしまう。
食事が済んだら、帰る。
それはそうだ。その通りだ。
「ありがとう」
だから、女は此処に居る。男と会う前なら、一年と同じ居住にいない女が初めて定住した。
彼が来てくれるなら、ここから、離れることなんてできない。
それは、恋だ。一方的な恋。
決して恋愛に発展しない。決して結ばれない恋。だからこそ、熱はいつまでも冷めない。だからこそ、何時までも待ってしまう。
望みがない代わりに、終わりがない。
願いが叶わない代わりに、何時までも続く関係で居られる。
「また来るよ」
その一言で救われてしまう。
満足してしまう。
「待ってるわ」
待つだけで彼の方から来てくれる。
男は女の額に口づけを落とす。そして、首筋にそっと舌をはわせる。最後の一口を口にするために。女の首筋に、動脈に牙を立てた。
甘い、甘い食事に満足したアックスは帰路につく。
何よりも甘い物が好きなアックスにしてみたら、食事は至福の時間だ。
スイーツを食べる時よりも心躍る時間。それが、一番お気に入りの食べ物であれば、満足しないわけがない。
彼は食事をしているだけで、恋をしているわけではない。だから、食事先の女の心が分からない。いや、食事をするだけではなく一緒に外に出かけたこともある。
飲み屋を何件も渡り歩いたことだってあるし、観光地巡りをしたこともあるし(夜限定)、ドライブに出かけることだってある。
でも、アックスの中では仲の良い友達でしかない。
だから、上機嫌で歌まで口ずさみながら夜道を歩く。極上の食事を提供してくれた心優しい友人の居住まいから、歩いて帰る距離にはない家に向かって。
いや、歩いてもたどり着くことができるだろう。一日以上の時間をかければ可能の距離だ。
フランスの中心に位置する己の住まいと、ドイツに近い位置にある高級住宅からの徒歩での移動。深夜ではあるが、ここはアックスの縄張りだ。いくらでも移動手段は使える。
それでも、アックスの足は止まらない。
「こんなところに公園なんてあったんだ」
いや、止まった。
しげしげと、目にとまった公園を覗きこむようにして見渡す。公園の敷地内には入らず、首だけを伸ばして観察する。まるで、知らない玄関先の綺麗な庭を見ているような格好だ。
あたりを散策しているかのようだ。
実際、散策していた。どうやらアックスには帰る気がないようだ。町並みを見ながら、深夜の散歩を楽しんでいる。
そして、どういうつもりか見かけた公園を覗きこみ遊具を外から眺める。決心がつかないのか、それとも入る気がないのか、しばらく留まり、月光を反射する遊具を見ていた。
「ふ~ん」
一通り眺め納得したのか足を一歩、公園に踏み入れた。
そして一直線にジャングルジムに向かう。
その足取りは軽やかだ。
軽やかな足取りのまま、遊びに来た子供のようにジャングルジムに登り始めた。足をかけて、手で掴んで。
本来、一足飛びで登り上がることができる運動能力を有していながら、丁寧に踏みしめるように上がっていく。しかし、大人の身長であるのに変わりなく、すぐに登り終えてしまう。
アックスは登り上がって、まっすぐにジャングルジムの上に立ち中心部へと歩く。下を向くことなく、まるで、平地を歩いているかのように。
「う~ん」
ジャングルジムの中心に数歩で到着し、アックスは思いっきり背伸びをする。
まるで、猫のようだ。
気まぐれな猫のような行動をとるアックス。
彼は、どうやらやりたいことをやる性格らしい。
「まるで猫のようだね。羨ましい」
そんなアックスに声をかける人物がいた。
「?」
彼は、ジャングルジムの正面にある滑り台の上に座っていた。
声は、男の子のように高い。
「おや?子供がこんな時間に公園で遊ぶなんて危ないよ」
だから、アックスがそんなことを言ったとしても間違いではない。
子供のような声だけではなく、ファッションも子供のように幼い。
ネコ耳フードに、シマシマのズボン、先がまるみを帯びた靴、シャツには多くの猫のイラストが描かれ、ベルトはネコのストラップがつるされ、腕にはネコ用の首輪が巻かれていた。
しかし、間違いではないが、間違っている。
彼はそんな風体をしながら、細い体でありながら、身長は190cmを超えているからだ。
「失礼だな。子供じゃない」
子供のような声で、子供のようなフォっションで、男はいう。
「俺は30超えてるんだぞ」
「そうなんだ。ごめんね」
彼からの非難に、驚くことなくアックスは謝った。
そんなアックスの態度に気分を良くしたのか、男は長い脚を組んで、腕を頭に回し、ふんぞり返る格好になる。
その態度にもアックスは何とも思わず、ただただ、不思議そうに首をかしげる。
「それじゃあ。そんなところで何してるの?」
「そっちこそ、そんなところで何してるんだ?」
アックスの質問に男は質問で返す。
その態度にもアックスは平静に応える。
「遊んでるんだよ」
「俺も遊んでるんだ」
まるで、オウム返しに同じように答える男。
しかし、あくまで無邪気に。悪意なく、アックスと相対している。
「そうか」
「ああ」
二人はしばし、黙り込む。
不穏当な気配はない。あるのは不思議なほどの夜の静寂だけだ。
「じゃあ。俺と遊ぶ?」
宣戦布告のように、アックスは男に向かって、ジャングルジムから飛び降りた。